杉浦千畝が日本で人気なのは、人道主義に基づいてユダヤ人を助けた、からではない。日本人にも世界に誇るいい人がいる、日本人はスゴイ、からである。そこにはその時代の戦争でユダヤ人を迫害・殺りくしたナチスドイツと同盟国であったこと、ナチスと同じように他国の人を迫害、殺りくした事実は顧みられることはないし、その世界大戦で圧倒的に侵略側であった事実が見返されることはない。「日本(人)は素晴らしい」から一歩も出ていないのである。
同時に、その戦争でドイツに対する見方はホロコーストに偏っているのも事実である。またユダヤ人の計画的殺りくは、絶滅収容所設立以降ととらえた場合、ホロコーストという語はその時期以降を指すものであり、それ以前のユダヤ人迫害と分けて考えなければならないのに、映画の世界も含めてナチスドイツのユダヤ人迫害全般=ホロコーストと捉えがちで、かえってナチスドイツによるユダヤ人迫害の全貌が一面的に描かれてしまうという指摘もある(本作のパンフレット、映画評論家江戸木純氏の論考による)。
ナチスがドイツの全権を握り、膨張=侵略、ユダヤ人迫害をすすめる中で、当初ナチスがとったのは、ユダヤ人の国外出国政策であった。それは、ユダヤ人の財産を奪い、追い出し、一文無しのユダヤ人を周辺諸国に押し付けることによって、周辺諸国でのユダヤ人=厄介者視、急激な移民流入による財政圧迫を企図したものであった。ニコラス・ウイントンによるチェコスロヴァキアでのキンダートランスポート(子どもの輸送)は、そういった背景を抜きに語ることはできない。イギリスの証券会社のディーラーであったニコラスは、請われるままプラハを訪れ、ナチスの迫害にさらされ、明日の命も危ういと感じた多くのチェコ人を目の当たりにする。まるで、取引をするかのように公的機関の移住担当を装って、チェコのユダヤ人の子どもらを移住させる計画を実行するが。
要請したすべての国に移民を断られたニコラスは、唯一受け入れを表明した母国英国での里親探しを徹底的に行い、受け入れの法的整合性を確保する。かくて1939年3月から9月1日に第二次大戦が勃発するまで669人の子どもの英国移送に成功した。これがもしナチスによるユダヤ人絶滅政策以降ならおよそ成功しなかったであろう。しかし、ニコラスは第二次大戦直前の9月に移送を予定していた250人の子どもらの移送を戦争勃発によって断念したことを悔い、669人を助けた事実を誰にも明かさなかった。それが、戦後50年経ってニコラスの妻グレタがたまたま物置で見つけたスクラップブックによってニコラスのなしたことが明らかになったのである。スクラップブックには「輸送」の克明なデータが記載されていたのだった。
映画は、完成に先立つBBCのドキュメンタリーなどが下敷きになっている。グレタから資料を得た記者が、ニコラスに助けられた子どもらを探しだし、テレビ番組で再会させるというサプライズを用意したのだった。ニコラスはすでに90歳だったが、それまで長きにわたり慈善活動を続けていて、すでに大英帝国勲章を受章するなど有名な人道活動家であった。しかし、若い頃、戦前チェコで子どもらを助けたなどグレタも知らなかったことだ。そして、その子どもらの親らはほとんどすべて絶滅収容所に送られるなどして、子どもらと再会できていない。ニコラスに子どもを託したことで子どもらだけは助かったのだ。
本作の肝はニコラスの善意を描くことだけではない。その後ニコラスに救われた子どもらの子、孫らが世界で自分たちができること、知らない世界の子どもらを支援する取り組みに踏み出したことが描かれる。そこにユダヤ人であるとか、キリスト教精神があるからとかは関係ない。謙虚であったニコラスが助け、その思いをつないだ孫の世代はやはり謙虚にできることをしようとしているだけだったのだ。
ある一つの民族や人種、階層を迫害した歴史の中、ニコラスのように時に無私の構えで迫害される他者を支える行動はのちに賞賛されるし、されてしかるべきだ。しかし、そのような歴史が繰り返されると分かっているのに、何もしないのは大きな罪である。ヘイト・スピーチが跋扈し、世界的に不寛容なすう勢と歩調をそろえるかに見える日本の在り様もまた、そのような英雄でないニコラスを見習いたい時代であると思う。