kenroのミニコミ

kenroが見た、読んだ、聞いた、感じた美術、映画、書籍、舞台、旅行先のことなどもろもろを書きなぐり。

創造する人間の旅に同行できるか  あいちトリエンナーレ2016

2016-09-25 | 美術

芸術祭が盛んである。今年から始まったものも多い。横浜トリエンナーレが老舗とすれば、あいちトリエンナーレは3回目で中堅に近づきつつあるといったところか。芸術祭は大きく分けて2つある。越後妻有アートトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭のような地方の、いわば「田舎」を活用したものと、横トリやあいちのような都市型のものと。都市型といっても、国内外の作家が作品を持ってきて展示するやり方だけではない。横トリやあいちでは地元の商店街や古びたビルを活用して、その場の雰囲気に合わせたインスタレーションもある。観客に美術館などメイン会場以外の街を回らせることで、その街を感じ、街をあげての感覚が都会の展覧会なりに工夫されているのだろう。

 2016あいちトリエンナーレのテーマは「虹のキャラヴァンンサライ 創造する人間の旅」。キャラヴァンンサライとは隊を組んで旅する商人の宿のこと。今回は名古屋市内の他、岡崎や豊橋にも主会場がある。隊商をモチーフにしていることからも、今回は文化人類学の視点から未知の世界、土地を紹介、探究させる展示が多いようだ。例えば言語学者・文化人類学者の西江雅之や民族学者フォスコ・マライーニの展示。イタリアン人マライーニは1938年にアイヌ研究のために来日するが、マライーニがイタリアのファシスト政権に与しなかったため、敵国人として日本政府に抑留される。2年間愛知での抑留生活を遺された写真などから解説する。あるいは大巻伸嗣の「Echoes Infinity 永遠と一瞬」は、曼荼羅あるいはモザイクを思い起こさせるような床一面多種多様な色砂で描く花畑。その美しさ、まさに永遠と一瞬に息をのむ。

文化人類学や民俗学の観点からアプローチを試みているように見えるが、実は現実の歴史、政治や社会の問題をほうふつとさせているのが、北海道と沖縄の展示。メイン会場ではない古いビルを少しずつ利用した栄・長者町会場では侵略と支配に苦しんだアイヌやウチナの地がその苛烈さとは反対に淡々とした写真や映像で語られる。壁に貼られた年表にはきちんと95年の米兵による少女暴行事件に抗議する県民大集会や、今日のやんばるの森は高江のヘリパッド移設問題の表記もある。なにかと芸術に政治を持ち込むなという、「中立・公正」の仮面をかぶった公からの弾圧とそれを忖度する主催・展示側が目立つ現在の芸術に「中立・公正」はありえないときちんと反論しているようにも見える。

好き嫌いは別にして、会田誠の作品が一度撤去された東京都現代美術館のように、芸術作品とは物議をかもしてナンボの面もある。しかし、昔はわいせつ性で議論が多かったそれら軋轢やトラブルが、現在では、戦争、平和、原発・核などまさに政治的文脈で「中立・公正」が持ち込まれることが多い。公・政権側がこれこそ「中立・公正」だとメジャーを芸術や教育、あるいは公の施設に持ち込めば、もはや「中立・公正」ではあり得ないと知るべきだろう。

都市型の芸術祭は、地方の辺鄙な土地でなされるそれよりビビッドに歴史・政治的スティグマにさらされ、あるいはそれを問いかけることが困難、センシティブにならざるを得ないのではないか。しかし、あいちトリエンナーレは移動する生き物である人間の習性を「隊商の宿」をとおして感じさせてくれた。次回以降も楽しみだ。(大巻伸嗣の「Echoes Infinity 永遠と一瞬」)

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傷は共有できないが、人は共存できる   シアター・プノンペン

2016-09-24 | 映画

1990年代末から2000年代にかけて、旧ユーゴスラビアを舞台にした優れた映画が何本も制作された。旧ユーゴではクロアチア紛争に始まってボスニア、そしてコソボへと内戦を繰り返したが、そのすべてが一応収束し、クロアチアなどは現在観光大国となっている。

旧ユーゴでの内戦とはなんだったのか? 民族紛争であろうが、先日まで同じ国の隣人として接していた人に銃を向け、そして殺される日常。その理不尽さ、悲しみ、怒りなどを描いた秀作が多かったということだ。内戦終結からわずか数年から10年以内にである。

一方、「シアター・プノンペン」の舞台カンボジアは長らく内戦が続いていたが、1991年のパリ協定で終結したとされる。そして、その内戦の引き金となったのが、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)の支配であった。

ポル・ポト時代を描いた映画と言えばその過酷さを頂点的にきわめた「キリングスフィールド」がまず思い起こされる。しかし、「キリングス」が「シンドラーのリスト」のように戦争、ジェノサイドの過酷さも実際を描いていたのに対し、「シアター・プノンペン」はまるでユーゴ映画のように戦争のそのものを描くというより、その外縁部を描いているように思える。厳格な父親と病気がちな母のもとで大学生活を送るソポンは、夜な夜なボーイフレンドと遊び歩いている。ある時、学校そばのバイク置き場になっている古い映画館でクメール・ルージュ時代を映画監督して弾圧、収容されたソカに出会う。ソカが映画「長い家路」の最終巻を失ったことを知り、美しい女優だった母親ソテアを見つけたソポンは、映画の撮り直しをはじめる。

 実は、ある意味単純なクメール・ルージュ時代の悲惨さを振り返る作品かと思っていたが、物語はもっと複雑だった。ソカは映画監督でもなんでもなく、ソカの兄がそうだった。そして兄を「映画監督だ」とクメール・ルージュに密告し、殺させたのはソカ自身で、失われたとされる「長い家路」の最終巻は実は残されていたのだ。そして、そこで描かれていた結末とは。

物語は重層的である。それは現実がそうであるから。クメール・ルージュの時代、300万人とも言われる人が犠牲になったが、生き残った人の中には、親族や仲間・友人を裏切り、差し出すことで命を助かった人もいるだろう。そして、圧制側のクメール・ルージュの下層兵士の中には、戦後その内戦時の犯罪から逃れた者も。加害と被害、加害者がかかえる悩みと被害者がかかえる悔い。ソポンに代表されるように戦後生まれた世代は、内戦を知らず、内戦時を生きた人々は語ろうとしなかった。しかし、同じ国の同じ民によって膨大な人が殺された歴史は、それを語り、伝えることによってしか反省や抑止にはつながらない。

 ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』では、圧政、内戦や戦争によって、荒廃した国土の復興に土木建築をはじめ、産業界の需要が大幅に増大するから、巨大資本が戦争を欲する構造を明らかにした。カンボジアも現在、西側の格好の投資の対象となっている。その中で薄れていく内戦の記憶。しかし、それは薄れさせていく力がはたらいているからで、本当に消えるものではないだろう。

 ソポンが母親らの苦難の時代を知り、向き合うとき、若い世代が紡ぐ平和とは本当に力強いものになるだろう。沖縄でもひめゆりの現役世代が年をとる中で、若い語り部が生まれている。人が人に、それも個人的理由ではなく、殺意を向けた時代を再び再現させないためにシアター・プノンペンが問いかけるものは多い。

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