子供の頃過ごした鉄道官舎は今は面影もないが、一緒に遊んだ仲間たちと周りの環境への想いが爺にとっては、心の故郷。
戦時下で、遊び道具などは、全く、なかつた昭和17年から19年頃、稲刈りの終わった田んぼでの野球、グローブなし、バットは竹、ボールは、ぜんまいの綿を布で包み込んだもの、ベースは板切れ、ゴロを打てばイレギュラーするので、また面白い。
兵隊ごっこ、上級生が2等兵から大将までの階級を決め、厚紙で作った手書きの階級章を渡すのと最後は敵味方に分かれて竹棒を振り回しながらのチャンバラで終わったのを覚えている。
川原での水遊び、ジャガイモを持参する者、魚(はぜ)を捕まえる者、焚き火を拾うもの、石を囲って釜を作る者、魚を串刺しにして焼く者 芋を焼く者、みんなで分担作業。最後に上級生が、低学年から順に公平に分け与えてくれる。
園児だった頃の孫に話して聞かせたら「おじいちゃんは貧乏だったの」と思いもかけない問い。昔々の物語で、貧乏なおじいちゃんと、おばあちゃんが、お米がなくてお芋を食べたという話を思い浮かべたのだろう。