喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

カントリー・ジェントルマン ~農業を愛した白洲次郎~

2018-11-17 | 生き方
 魅力的な考え方、生き方。

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【誇りを持て!白洲次郎の名言】
  
(1)
熱意だよ。
日本でも明治維新の時の政治家とか実業家は、熱意があったから
あれだけの仕事が出来たんだね。
  
(2)
人に好かれようと思って仕事をするな。
むしろ、半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと
良い仕事は出来ない。
  
(3)
何かにしがみつかなければ、生きていけない根性なら、神頼みでもして、
鰯の頭でも信心していた方が、他人様の御迷惑にならんだけでもましだろう。
  
(4)
われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない。
  
(5)
運転手を待たしてゴルフする奴なんか、ゴルフをする資格はない。
 
(6)
地位が上がれば役得ではなく「役損」と言うものがあるんだよ。
  
(7)
今の日本の若い人に、一番足りないのは勇気だ。
「そういう事を言ったら損する」
って事ばかり考えている。
 
(8)
人様にしかられたくらいで引込むような心臓は、持ち合わせがない。

  
(9)
自分よりも目下と思われる人間には親切にしろよ。
  
(10)
「すみません。」は駄目だ、「SAY THANK YOU」だ。
  
(11)
金払いはよくしろ、明るくふるまえ、特定の女とばかりしゃべるな。
そして、言い寄られたら
「ノー」と言え。
 
(12)
おのれの好まざることを人に施すなかれと先祖代々教わってきた我々も、 
人の好まざることを人に施した挙句、 
人の好まざることは、やっぱりおのれも
好まざるものであったと気がついた。
因果応報。何をかいわん。
 
(13)
臭い物は蓋をしないで、いつか始末しなけりゃならないんだから、
外へ出したらいいんだ。
 
(14) 
日本人も日本も欠点だらけらしいが、人間も国家も完全ではあり得ない。
米国もまたその例外ではなかろう。
 
(15)
反省のない人間など使いものになるとは思わない。
 
(16)
お偉方諸氏もみんな一度は若かったのだ。
昔の若かった時代のことを思い出して見て下さい。
青年を扱うのに雅量と同情をもってして頂きたい。
 

(17)
いま日本でいけないのはすぐ人の脚をひっぱることだね。
これは大変な奴だと思うと脚をひっぱっちゃう。
だから日本で何かのトップにゆく奴は、
毒にも薬にもならない奴が大部分だよ。
 
(18)
このごろのマスコミの論調をそのまま世論だとお思いめさるな。
国民はそんなに軽率でもないし、一方的でもありません。
 
(19)
経済人はもっともっと自己反省してみても悪くはなかろう。
やれ補助金だ、やれ割当だと、
こまってくるとすぐ政府になんとかしてくれと
泣きつく乞食根性は、もうやめてもらいたいものだ。
 
(20)
どうしたらよくなるか、それを工夫してゆくよりしょうがないじゃないか。
よくなるとか、ならんというよりも、よくするほかにみちがないことを
認識すべきだ。
 
(21)
政治をやる人は、もっともっと行政の対象の国民の立場になって
考えてみるがいい。
農民の生活の向上を叫びたい人は、
農民の生活がどんなものかと体験してからにしてもらいたい。
 
(22)
どうも日本人というのは、これは日本の教育の欠陥なんだけど、
物事を考える時に、物事の原則っていうことを
ちっとも考えないんだ。
 
(23) 
僕は政治家じゃないし、人に何言われても一向に平気なんだ。
僕はそういう所、わりに旧式なのよ。
自分の良心はきれいだと思ってるから、
人が何言おうと平気なんだ。
 
(24)
弱い奴が強い奴に抑え付けられるのは、
世の常で致し方なしと諦めもするが、
言うことだけは正しいことを堂々と言って欲しい。
  


                 「愛媛県伊方町中之浜 菊池さんの温州ミカン」

- 白洲次郎 -
■ 白洲次郎ブームでその存在を知る
 白洲次郎は今だに戦後復興の立役者として語られることが多いですが、
数年前ちょっとした白洲次郎ブームが突如として起こりました。
メディアでも頻繁に取り上げられましたし、本も沢山出版された。
 
■ とにかくスケールがでかい!
 白洲次郎は、1902年2月17日兵庫県芦屋市神戸の貿易商の家に次男として生まれ、
中学、高校と手のつけられない乱暴者だったようで、当時すでに身長が180cmもあったので、喧嘩も相当強かったようです。
 また、高校生で米国の高級車を乗り回していたのだとか。これほどのイケメンでスポーツ万能、喧嘩が強い、勉強ができる、お金持ちとなれば、
女の子からモテないはずもなく、中学生のころから宝塚歌劇団の生徒と交際していたようです。
 
■ 戦後復興の立役者!?
 白洲次郎は、戦後復興のフィクサーとして活動されていたことは間違いないようなんですが、
その裏で戦後復興の利権の闇に飲み込まれてしまい、諸外国に日本の国富を売り渡した売国奴的なことを言う人もいます。
 しかし、白洲次郎の誰にも屈しない姿勢を当時外務大臣だった吉田茂に買われて、
GHQの交渉窓口を務め、太平洋戦争終結から半年も経たない昭和20年に、
白洲次郎はGHQ司令長官であるダグラス・マッカーサーをどなりつけて周囲の人たちを驚かせたという逸話の持ち主です。

次の言葉が、特に心に響く。
人に好かれようと思って仕事をするな。
むしろ、半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと
良い仕事は出来ない。


            岬人(はなんちゅう)