東日本大震災被災地の気仙沼市立大谷中学校との交流が続いています。
それに関するサツマイモ(甘藷)収穫の新聞記事。
大谷中学校は、ユネスコスクールにも認定されており、「ふゆみずたんぼ」等の環境教育が非常に充実し
た学校です。
「なぜ、被災地を支援するのに、サツマイモ(甘藷)だったのか?」
「サツマイモ(甘藷)とふるさと佐田岬半島の関わりについては?」
このような疑問は、歴史をひも解いてみると分かります。
南予の沿岸部で、甘藷作りが始まったのは、享保17年(1732年)、西日本一帯でおこった大飢饉の1~2
年後からといわれています。
米作りに適さない南予の沿岸部農村においては、人々の生命を守る重要な主食として麦と共に位置付けら
れたのです。
大正時代や昭和の戦前に生まれた人々の当時の三度の食事は、「イモ」と「イワシ」と「ムギメシ」がそ
の代表格でした。
戦中生まれで、80歳近い父からイモに関する昔話を聞いたことがあります。
「朝のかゆや雑炊の中にも、ムギやイモはたっぷり入っていた。それでも、ここらは海辺やけん、イワシや
ホータレ(片口イワシ)の小魚に困るようなことはない。子供でも地引き網の手伝いに行けば、それなりに
小魚を分けてもらうので、晩のおかずになった。」
敗戦後の復興で高度経済成長を迎え、米が食べられるようになり、イモ畑は消えていき、代わりにお金に
なる柑橘がたくさん栽培され、今につながっています。
ふるさと佐田岬半島とイモは、切り離せない関係にありました。
そのことを、子どもたちにもしっかりと伝えていき、ふるさとを愛する子どもに育ってほしいと思っています。
岬人(はなんちゅう)