八幡浜市から豊後水道に突き出た約四〇㎞の、日本一細長いといわれる半島の名前は、当然「佐田岬半島」である。この名称は現在では定着しているが、昭和四〇年代までは、正式名称を「佐田岬半島」とするか「三崎半島」とするかで、役所や研究者の間で様々な議論があった。当時、愛媛県庁では企画部がこの半島の総合開発計画を立案していたが、計画書に出てくる半島名は「三崎半島」だった。県では、戦前から慣習として「三崎半島」を使用していたそうである。地元では「佐田岬半島」を用いることが多かったようだが、昭和四〇年の三崎町の町勢要覧をみると両方が記されており、その用法が混乱していたことがわかる。国土地理院作成の地図には「佐田岬半島」とあり、結局はこれに統一されていったという経緯があるbr> さて、「佐田岬半島」は、全国で唯一、岬の名前をつけた半島名として珍しいものである。岬と半島は同様の意味なので、それを重ねることは稀なのだろう。それだけでなく、「佐田(サダ)」についても語源を調べてみると、佐田浦(現三崎町)から来ているものだが、柳田国男『石神問答』によると、もともとは岬を意味する言葉であると紹介されている(註1)。全国の岬の名称を見ても、鹿児島県佐多町に佐多岬という類似した名の岬があり、また、高知県の足摺岬についても、平安時代末期の史料に「蹉●御崎」とあり(註2)、古くは「サダミサキ」と呼ばれていたことがわかっている。
つまり、「佐田岬半島」の「佐田」も「岬」も「半島」も、もともとは細長く海に突き出た地形をあらわす同じ意味の言葉であり、それが三重に重なっているのである。歴史と共に言葉が変わり、同じ意味の言葉が重なっていく。「佐田岬半島」の名称は、地名の変遷を重層的に体現していて面白い。
なお、佐田岬に関しては、宝暦十三(一七六三)年に細田周英が描いた四国遍路の絵図である「四国 礼絵図」に「佐田ノ岬」とあり、江戸時代は「サダノミサキ」と呼ばれていたO崎町三崎の明治四〇年代生まれの老人に聞くと、戦前には「サダノミサキ」という呼称も残っていたらしい。
「サダミサキハントウ」という呼び方は案外新しいものなのである。
註1 『定本柳田国男集』十二巻 筑摩書房刊
註2 『平安遺文』古文書編第七 三一八四
1999年10月21日掲載
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