僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

家族は上書き

2007-04-05 | Weblog

長女が千葉県で働くことになり、会社の寮に入るため、先月の30日(金)~4月1日(日)に
かけて、家族総出で引越しをした。

ちょうど1年前、アメリカに留学に行くときは、1年間で帰ってくるということと、信頼できるアメ
リカの家族に囲まれている、ということもあったんやろう、寂しさというのはほとんどなくて、どん
なに成長して帰ってくるのかという楽しみがほとんどやった。
でも、今度は国内、しかも2時間以内には帰ってこれる距離にいるのに、やたら寂しく感じる。
それは、娘の初めての一人暮らしと、直面するであろう社会の厳しさ、それにひょっとすると一
生帰ってこないかも知れないという不安のせいなのかも知れない。

引越しが終わって帰るとき俺は、娘に声をかけたいことが一杯あった。そやのに、下手にしゃ
べるときっと自分が泣き出してしまって何もしゃべれなくなると思い、ただ、娘を抱きしめて頑
張れよとしか言えなかった。嫁も次女もきっと俺と同じ気持ちやったんやろう、笑顔で「ほなね」
とだけ言って車に乗りこんだ。
そして車がでて、娘が10mほど遠ざかった頃、嫁がこらえ切れずに泣き出した。次女も後
席で泣いている。俺も涙が止まらなくなってしまった
。長女の様子は伺い知れなかったが、きっ
と同じように涙を流していたんやと思う。

ひとりで暮らし、社会人になるということは当然娘が成長するということであり、喜ぶべきことな
のは重々分かっていて、以前にも書いたけど、極端な話、不幸になってでも人間は成長す
べきだと思うので、今回のことは悲しむ要素は全くない訳やねんけど、この涙が家族の絆とい
うもんなんやろかね。                                                                                

日本では、家族の中の子供はある程度の年齢になると結婚し、新しい家族を作るというの
が通例。でも、その新しい家族と前の家族との交流はあるものの、それはお盆と正月くらい、
というのが普通やろう。

でも娘がお世話になっていた
アメリカの家族は少し違った。子供たちが結婚して新しい家族
を作るのは同じやけど、元の家族との交流が深く、そして長い。誰かの誕生日だと言っては
集まり、日本から俺達がくる、と言っては集まり、クリスマスや独立記念日にはもちろん集まり、
箸が転んでも集まる。新しい家族が何人増えても、それぞれが孤立することなく、形と大きさ
を変えながら元なる家族の輪がきちんとあり、そこに新しい家族の輪の円周がかかっていた。

日本の歴史は古い。でもこの国は新しいもの好きで、さまざまな新しいものを造りだす能力に
長けているものの、文化や芸術を守る能力に著しく劣る。何よりも仕事第一で家族は二の
次にしてきた。かたやアメリカは、歴史は浅いけど文化や歴史を重んじ、何よりも家族大切
にしてきた。
パソコンに例えると、日本は新規作成ばかりしてて、上書き保存はあまりせず、アメリカは逆
の国やと言えるんやないかな。

もちろん、このような文化の違いは、単純にどちらがいいという比較はできない。でも、今回の
娘の引越しで感じたのは、どんなに新しい環境に変わっても、新しい家族が増えても、決し
て「元の」家族は離れてはいけないということ。

少なくとも、家族は新規作成ではなく、上書きするものだと教えられた気がします。