誰の言葉だったかは忘れたけど、
「偉人は思想を語り、凡人は事象を語り、愚人は人を語る」というのがある。
これってほんまその通りやと思うねぇ。
だって、ものすごく単純に考えたら、思想以外は自分の力でどうしようもないことばっかり
なのは子供にでも分かる。なのに思想以外のことでぐちゃぐちゃ言ってたって仕方ないに
決まってるもんね。なのに、俺には、やれあの人はどうだのこうだのと言ってる人の気が
全く分からない。
大体からして、人のことばっかり気にしてる人は例外なく、親切を押し付けるおせっかい
ばっかり(知ってる人の中では100%)。それと、誰かが亡くなったといえば、亡くなった
人のことを思い出しては涙にくれ、生きてる人よりも亡くなった人のことばかり考えてるよ
うな人が多い(同90%)。
こういう人はとにかく見境なく他人にそれを投げつけるので、それを蒙る人は、「絶対に
あんたなんかに分かりっこない自分のこと」であれこれ言われる訳で、それはもうとんで
もない迷惑や。「親切で言ってるんやから」とか「悪気はないのよ」みたいな解説をされて
も、他人に依存しておいてそんな所に勝手に免罪符を作るなよ!といいたくなる。
俺は基本的に自分の事以外に興味がないから、他人にああしたらとかこうしたら、なんて
ことを口出ししようなんて全く思わない。それが少なからず自分勝手ということに繋がる可
能性があるのかも知れないけど、「自分の力でどうにもならないこと」に一生懸命になって
る人よりは、自分のことだけ考えてるほうが間違いなく自分を高める可能性がある訳で、
どうにもならんことをウジャウジャいうてるより、よっぽどマシなような気がするのよね。
人に依存する自分勝手と、自分だけで解決しようとする自分勝手は違う。
極論やけど、俺は、後者の「自分はやりたいようにやる、人のことなんか知らん」というほ
うが「絶対に分からない他人の心に入ろうとする行為」や「全く進歩のない行為」がない分
だけ、はるかに健全やと思うねんなぁ。
自分が偉人だと言ってるわけじゃない。
最近、事情があって、投げつけられたおせっかいの球を避けきれず、ほんとにおせっかい
だけはもううんざりやとまいっている俺なのでありました。
「偉人は思想を語り、凡人は事象を語り、愚人は人を語る」というのがある。
これってほんまその通りやと思うねぇ。
だって、ものすごく単純に考えたら、思想以外は自分の力でどうしようもないことばっかり
なのは子供にでも分かる。なのに思想以外のことでぐちゃぐちゃ言ってたって仕方ないに
決まってるもんね。なのに、俺には、やれあの人はどうだのこうだのと言ってる人の気が
全く分からない。
大体からして、人のことばっかり気にしてる人は例外なく、親切を押し付けるおせっかい
ばっかり(知ってる人の中では100%)。それと、誰かが亡くなったといえば、亡くなった
人のことを思い出しては涙にくれ、生きてる人よりも亡くなった人のことばかり考えてるよ
うな人が多い(同90%)。
こういう人はとにかく見境なく他人にそれを投げつけるので、それを蒙る人は、「絶対に
あんたなんかに分かりっこない自分のこと」であれこれ言われる訳で、それはもうとんで
もない迷惑や。「親切で言ってるんやから」とか「悪気はないのよ」みたいな解説をされて
も、他人に依存しておいてそんな所に勝手に免罪符を作るなよ!といいたくなる。
俺は基本的に自分の事以外に興味がないから、他人にああしたらとかこうしたら、なんて
ことを口出ししようなんて全く思わない。それが少なからず自分勝手ということに繋がる可
能性があるのかも知れないけど、「自分の力でどうにもならないこと」に一生懸命になって
る人よりは、自分のことだけ考えてるほうが間違いなく自分を高める可能性がある訳で、
どうにもならんことをウジャウジャいうてるより、よっぽどマシなような気がするのよね。
人に依存する自分勝手と、自分だけで解決しようとする自分勝手は違う。
極論やけど、俺は、後者の「自分はやりたいようにやる、人のことなんか知らん」というほ
うが「絶対に分からない他人の心に入ろうとする行為」や「全く進歩のない行為」がない分
だけ、はるかに健全やと思うねんなぁ。
自分が偉人だと言ってるわけじゃない。
最近、事情があって、投げつけられたおせっかいの球を避けきれず、ほんとにおせっかい
だけはもううんざりやとまいっている俺なのでありました。