僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

はちじいのDNAは、ガンジーへ

2007-09-18 | Weblog

先週の9月13日(木)、孫が生まれた。五体満足の男の子。

先輩方から孫はとてつもなく可愛いと聞いてはいたが、ホンマにその通りやったね。
で、なんでこんなに可愛いのかと色々考えてみてたら、理由はこの3つやと思った。

1.まず単に、「新生児」であること。
  長い間生まれたての赤ちゃんというのをマジマジと見たことがなかったので、その200%無垢な
  可愛らしさにまず頬が緩んでしまう。20数年ぶりに嗅いだあのなんともいえない独特のミルクの
  ような匂いもまたたまらなく愛おしい。

2.生まれた時の娘とダブって見えること。
  男と女の違いはあれど、生まれた時の娘はこうやったなぁ、と思い出す。それがまた「1.新生児の
  可愛らしさ」を倍増させる。

3.娘が母親になったこと。
  とにかくやんちゃで俺達をよく困らせた次女が、ついに母親になった。まともな親になるかどうかは、
  これからやけど、とにかく母親としてのスタートラインについてくれた、ということが、誇らしくもあり、
  嬉しくもあり、それがとても嬉しい。

こういうことに加えて、俺達の両親をはじめ、娘夫婦の友達や俺達の友達が毎日のように病院にきて
くれて、孫の誕生と娘の出産を祝ってくれた。それがまた、新しい命の大切さ、素晴らしさを改めて教
えてくれて、また喜びが増してくる。そして、この時期の赤ちゃんにはなんの「躾」も必要なく、ただひ
たすらに可愛がってやればいいだけ。
ようするにこういう感情全てが「孫の可愛さ」というものに集約されるということなんやろね。

まぁ、それはそれとして、かくして、40代でおじいちゃんになった俺やけど、どうも実感がない。娘が
赤ちゃんに、「ほら、おじいちゃんよ」と言ってた時も誰のことや?と一瞬気づかず、しばらくして、「あ
あ、俺かい!?」みたいなことになってたし。
それは、先に書いたように孫は確かにとてつもなく可愛らしいのは事実やけど、だからといって俺にと
って孫のことは今の興味の順からいくと「五の次」くらいやからやろう。もちろん自分が一番可愛いの
に変わりはないしね。嫁や嫁のご両親、娘婿のご両親達がすぐに携帯の待ち受け画面を孫の写真に
してたけど、俺はそんなこと全くする気になれんし。大体、待ち受けに何か設定するのがめんどくさい
人やねんけど、もしするにしても、自分のギター弾いてるとこをするやろなと思うくらいで。

そんな俺やけど、じいさんになったのは事実なので、一応目指す理想の「おじいさん像」みたいなもん
を持ってる。それは一言でいうと、「頑固じじい」。誰がなんと言おうと自分の信念を押し通す。もちろん
孫だからといって甘やかしたりはしない、という嫌われじじいになりたい。
それには理由がある。

俺にはじいさんがいた。名を「八郎」といい、大正か明治の生まれ。家族は皆「はちじい」と呼んでいる。
それはとてつもなく怖い人で、俺の記憶には怖い、ということ以外何もないくらいの人。とにかくなにか
いたずらをすると、"竹ぼうきの柄の部分"で脳天をバシーンと一撃された。今のように暴力はいけない
とか、頭を叩いたらいけない、なんてそんな甘っちょろい考えがその時代の人にある訳もなく、その痛い
ことといったらそれはとんでもない。そのせいで俺はハゲたに違いないくらいの痛さなのだ。
そのはちじいは俺が小学生の頃他界した。こんなことを言うとふしだらではあるけれど、その時俺は当
然悲しかったものの、一方では、「ああ、もうこれであの竹ぼうきで叩かれなくてもすむ」と、安堵してた
くらいやったもん。
でも俺は今、はちじいにものすごく感謝してる。それは50歳を前にして未だにだらしない俺が、はちじい
がおらんかったら、もっとだらしなくなっていたのは間違いないから。誰がなんと言おうと、正しいと思っ
たことを押し通してくれたはちじいがいてくれたからこそ、俺は今なんとか社会で生きてられるんやから。
ということで、俺の目指すは"はちじい"。誰が反対されようが俺はそれを貫くのだ。

その考え方と、孫に俺をどう呼ばせるか、なんてことを友達に話していたら、友達がいい呼び名を言って
くれた。ほんなら頑固じじいを縮めて「ガンジイ」でどやねん?と。

気に入った。はちじいの躾のDNAと呼び名の一部を引き継ぐにはもってこいの呼び名や。
早速家族や娘にもこれからガンジーと呼ぶように言って、かくしておれのじいさんライフは始まったので
あります。

これからはじじいとしての記事もちょくちょく書いていきますので、皆様よろしゅうに・・・