僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

竜馬は必要な時いなくなる

2010-12-02 | Weblog
電車の中での同じような出来事を2つ。

まずは数日前。
帰りの電車、車両の真ん中辺りで立っていた私の横を杖をついたおばあさんが通り過ぎた。見ていると明らかに席を譲ってくれそうな人を探して歩いてことが分かる。しかし、何人もの若い人たちの前を過ぎるが誰ひとり席を譲る気配がない。そしておばあさんがこの車両の端まで行き着こうかという時、ようやく席を譲った男性がいた。
でも、その人はおばあさんとほとんど年の頃が変わらないお年寄りだった。

そして昨日。
同じく帰りの電車で立っていたら、今度は外人の妊婦さんが乗ってきた。例によってまた誰も席を譲ろうとしない。またこの間と同じようなことが起こるのかと思いながら見ていたらさすが外人さんは違う。この方は若い男の人の前に立ってはっきりと、「ニンシンデス。セキアケテクダサイ」とおっしゃった。
もちろん、若い人はすぐに席を立ち、この妊婦さんは無事に席を譲ってもらった。

でもどちらも、最終的に席は譲ってもらったものの、若い人が譲らない、言われるまで譲らない、という、私達が「お年寄りや体の不自由な方、妊婦さんには席を譲りましょう」と親や学校から教わってきた常識的な行動とは正反対の状況から起こったことだ。

こんな時代だから、今の日本では、言いたいことを言わなければ自分が損をする。かといって、お年寄りや妊婦さんという他人から見てもはっきりと分かるある意味のアドバンテージがなければ、常識的なことでもはっきり言うと逆恨みされる。加えて、日本人はこの外人さんのように自分の意思をはっきり伝えることをためらう。私も第三者ではあるが例外ではなく、おばあさんに席を譲ってあげてはどうか、と言うことはできなかった。

そうすると、今の日本できちんと自分の意思を相手に伝えるには、「相手の気分を害さぬよう、平和的な雰囲気をかもし出し、押し引きしながら少しだけ本心を言う」という、俳優並みの表現力と「危ないと思ったら即諦める」というポイとプライドを捨てられる決断力が必要ということになる。

昨今、諸外国はこの日本人の国民性を知っていて、我が国と外交を仕掛けてきているのは明らかだ。
歴史上でも現実でも必要な時に竜馬が逝ってしまった。