・・・大雪です。雪投げです。湿っぽく重いです。11月24日・・・「H2Aロケット29号機が24日午後3時50分、鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられ、衛星は8時17分ごろに軌道に投入。成功」・・・「シリアとの国境地帯でトルコ軍のF16戦闘機が領空侵犯したロシア戦闘機(戦闘爆撃機・スホイ24)を撃墜した」・・・マイコプラズマ感染流行ですか・・・
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旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第40章
40:1
主(神)は
また
ヨブ
に答えて言われた、
40:2
「非難する者が
全能者と
争おうとするのか、
神と論ずる者は・・・・・「神と論ずる者」は存在しない
これに答えよ」。・・・・ムリです・・・
40:3
そこで、
ヨブ
は
主(神)に答えて言った、
40:4
「見よ、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
まことに
卑しい者です、
なんと
あなた(神)に答えましょうか。
ただ
手を
口に
当てるのみです。
40:5
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
すでに
一度言いました、
また言いません、
すでに
二度言いました、
重ねて申しません」。
40:6
主(神)は
また
つむじ(旋)風・・・・通務字(事)
積む字
摘む字
抓む字
詰む事・・・詰=言+吉(士口)
つめる・つまる・つむ なじる・かがまる
問いつめる・なじる・キツ
「詰責・詰問・難詰・面詰・論詰・詰屈」
の中から
ヨブ
に答えられた、
40:7
「あなたは
腰に帯して、
男らしくせよ。
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
あなたに尋ねる、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)に
答えよ。
40:8
あなたは
なお、
わたし(神・わたくし・ム・よこしま・私)に
責任を
負わそうとするのか。
あなたは
わたし(神・わたくし・ム・よこしま・私)を
非とし、
自分を
是としようとするのか。
40:9
あなたは
神のような・・・・「神のような」?
腕を持っているのか、
神のような・・・・「神のような」?
声で
とどろき(轟き)・・・訳努賂記
わたる(渡る)こと
ができるか。
40:10
あなたは
威光(イコウ)
と
尊厳(ソンゲン)
とをもって
その身を飾り、
栄光(エイコウ)
と
華麗(カレイ)
とをもって・・・・訳をもって
(以て
持って・盛って
漏って・洩って・喪って)
その身を
装ってみよ。
40:11
あなたの
あふるる怒りを
漏らし、
すべての
高ぶる者を見て、
これを低くせよ。
40:12
すべての高ぶる者を見て、
これを
かがませ、
また
悪人(アクニン)を
その所で踏みつけ、
40:13
彼らを
ともに
ちり(塵・芥・埃)・・・地理・地利・知理
の
中に
うずめ(埋め)・・・・・渦目・宇受女・宇須目・臼目・摸妹、
その顔を
隠れた所に
閉じこめよ。
40:14
そうすれば、
わたし(神・わたくし・ム・よこしま・私)も
また、
あなたを
ほめて(褒めて・誉めて)、
あなたの
右の手・・・・・・・・又
は
あなたを
救うことができるとしよう。
40:15
河馬(カバ)を見よ、
これは
あなたと同様に
わたし(神・わたくし・ム・よこしま・私)が
造ったもので、
牛(うし・ギュウ・ゴ)・・・丑(チュウ)・・・紐育(ニューヨーク)
のように草を食う。
40:16
見よ、
その力は
腰にあり、
その勢いは
腹の筋にある。
40:17
これは
その尾を
香柏のように動かし、
そのももの筋は
互にからみ合う。
40:18
その骨は
青銅
の
管のようで、
その肋骨は
鉄の棒のようだ。
40:19
これは
神のわざの
第一のものであって、
これを造った者が
これに
つるぎを授けた。
40:20
山も
これがために食物をいだし、
もろもろの
野の獣も
そこに遊ぶ。
40:21
これは
酸棗(サンソウ)・・・・・・酸棗=サネブトナツメ
さんそうにん(酸棗仁)
漢方で収斂性の神経強壮・鎮静薬
の
木の下に伏し、
葦(あし・よし・ロ)の茂み、
または
沼に隠れている。
40:22
酸棗の木は
その陰で
これをおおい、
川の柳は
これをめぐり囲む。
40:23
見よ、
たとい
川が荒れても、
これは驚かない。
ヨルダン(約但・約旦)・・・・与留談(譚)
が
その口に
注ぎかかっても、
これは
あわて(慌て)ない。
40:24
だれが、
かぎ(鈎・鉤)で・・・・鍵
科技・掛伎
これを
捕えることができるか。
だれが、
わな(罠)で・・・罠=罒(網)+民
和名
その
鼻(はな・ビ)を
貫くことができるか。
ーーーーー
・・・
・・・ETVの「サイエンス・ゼロ」、「蚕の繭の遺伝子操作」ですか・・・「梶取美和」さんと重なる「お蚕さん」・・・ボクの小さい頃、オバちゃんの娘で、ボクの従姉が大切に、大事に飼っていた記憶があるが、ソレが何であるかを小さいボクは理解していなかった。「蚕(かいこ・サン)」の漢字や「絹糸」を意識したのは随分と後のコト・・・「オバちゃんの不思議(4)」・・・オバちゃんは小学校にもロクに行かせてもらわなかったと云っていたが、ボクが訊く漢字の殆んどを教えてくれたし、習字も達筆であった。そして、時たま「バカも居なければ、世の中はヤッていけないからネッ」と云うのである。まだ幼かったボクにはその意味を理解する能力は無く、ただ、不思議に思っていただけだった。
次男坊であったオジちゃんも尋常小学校には尋常には行かせてもらえなかったらしい。農家の状況は子供が貴重な労働力であったから毎日の連続登校は不可能であった。義務教育の学校はあっても皆勤賞を手にする前提が無かった。それでも、応用問題で(x、y)を使用しての2次方程式で、ボクの中学校1年での宿題問題を解いてくれた。
馬鹿げた「007論議」の「シンボウ番組」も視たが「ロシア革命は日本の国家戦略(謀略・スパイ・間諜)の結果だった」とハッキリ言っているヤツラのコトバに「人間のコトバ」は皆無である・・・「スパイ」を無くすのが「人間の使命」ではないのか。それを無用とするのには「パラドックス(paradox)」の試練がある。だが、「人間を忘れ、国家論議を遊んで喰っているプチブル根性」のヤツラには「007」にナル覚悟はないだろう・・・自分のコトバで自分の首を〆ているコトにも無自覚である・・・「明石大佐」も歎いているだろう・・・「ロシア皇帝の腐敗と、国民の反抗の歴史・農奴制と、その解放後も国民には不満」を分析していたらしいが、自国である「大日本帝国」の分析ではドウ、認識していたんだか・・・元「伊賀忍者」の「石川五右衛門」の願いはナンだったのか、訊いてみたいが・・・
ETV(11月20日)では金曜日は「ハーバード大学」の数学のフレンケル教授(1968年に旧ソ連で生まれ・父親がユダヤ人だという理由で、1984年、モスクワ大学の入試で全問正解しながら不合格となった)の講義・・・「数学の対称性」がテーマらしい・・・「対称」とは記号「=」で異なった「数式を等価」とするものである・・・「コトバの単語自体」も殆んどが「肯定(である)・否定(でない)」の「対称性」でアル・・・そして、「数学で対称性」が出来ない「モノ」がある。数学記号では「≒」と「≠」である。ここでの問題は「対称性」であって、「対象認識」の「対象性」ではない。
ボクの問題は「≒」であるコトバの「大凡(おおよそ)・約(ヤク)・about(アバウト)・近似」であるが・・・
「数学の計算結果の対称性、非対称性」とは、である。
「有理数は分数で表せるもの、
無理数は分数で表せないもの」、
「無理数(irrational number)=実数・分子・分母ともに
整数である分数(比=ratio)
として表すことの
できない実数」
「無理数=√2・√3・π(円周率)・自然対数の底 e」など・・・
ーーー↓↑ーー
有理数・・・a,bを整数(b≠0)としたとき・・・
a/bの分数で表せる数
√0,04=(0,2)²=0,2の2乗=2/10=1/5
無理数・・・a,bを整数(b≠0)としたとき・・・a/bはムリ
a/bの分数では表せれない数
√3=1,7320508・・・小数点以下の数が永遠に続く
ーーー↓↑ーー
「数学での等価記号」の「=」だが、コトバは「あるコトバ」を「否定」スルことによって「等価記号」で示すコトが出来る・・・
「リンゴ・林檎」≠「ミカン・蜜柑」
「リンゴ・林檎」=「ミカンではない・否ミカン・非蜜柑」
「リンゴ・林檎」=「ミカンではないが、果物である」
「リンゴ・林檎」=「果物であるが、ミカンではない」
ーーー↓↑ーー
・・・TVのニュースでは林檎を丸ごと齧(かじ)って、スマートフォンでその齧った林檎の歯型を映して歯の検診をしてくれるシステムがあるそうだ・・・林檎生産農家の人が考え出したモノらしい・・・
で、そのオジちゃんだが、ボクに不思議な質問をしてきたのだ。ある数字に「0=ゼロ」を掛けたらナゼ「ゼロ」になるのか、と云うコトであった・・・ボクもその意味を理解してはいなかった。だが学校で教えられた「丸々暗記」である。オジちゃんは算盤も利用し、帳簿も几帳面に「加減乗除」で記録、記入できるヒトだったのに、「0=ゼロ」自体を計算で「他の実数(整数)に掛けたコト」がなかったのカモ知れない・・・そして、オジちゃんの「不思議」は、ボクの「不思議」にもなった・・・ナゼ、「0=ゼロ」自体を「一京・一兆・一億・一萬・一千・一百・一拾・一・0」等の他の数字に掛けても「0=ゼロ」になってしまうのか・・・
・・・答えは「丸=まる=マル=円=圓=摶=満留=萬留」の枠内にスベテが存在する、と云うことである・・・では、その「マル」とはナニか、と云えば、数字概念の「不思議(不可思議・摩訶不思議)を超える数字の無限連続」であった・・・
数字の実数は「無限なモノ=0」を区切る「有限な数量範囲を示すモノ」である。ソレに「掛ける0」とは、当然「無限なモノ=0」に埋没する、と云うコトだ。「割る0」とは、当然「有限なモノ」を「無限に埋没させる」と云うコトだ。そして、「有限」とは「0=無限」の中に設定した「枠」であり、その「有限枠の加減(+-=0)」のスベテである・・・その「有限」に「カケるゼロ」とは「無限=0=スベテ」に戻す、と云うコトである・・・
N=0・・・-4-3-2-1←「0」→+1+2+3+4+・・・N=0
「0=ゼロ」で折り曲げても、加減計算は「+-=0=スベテ」である。これが「自然界の対称性」である。
他の数字の計算は
「人間の合理的な数字増減の認識計算方法」でしかない。「乗除計算」は「有限の枠内=整数」に「0=スベテ」で「乗除」すれば「0=スベテ」である。
「(-N)=0=(+N)」の「±N」とは「0=ゼロ=スベテの枠内」の「有限」の在り方でしかない・・・「±N」は「0=ゼロ」に埋没している「部分」でしかない・・・
で、折り曲げる「0」を「+1」あるいは「-1」にズラスとどうなるのか。「0」は「±1」に重なると・・・
「N=N+1」か「N=N-1」
-N ・・-4-3-2-1←0→+1+2+3+4+・・・+N
0
(+1)→+2+3+4+
-1-2-3-4・・・+N+1
-N ・・・-4-3-2←(-1)
+4+3+2+1 0・・・N=N-1
「0=ゼロ」で折り曲げた「対称」数字の
掛け算の乗計算は
「±(N²)=±(N)×±(N)」→「+(N²)」or「-(N²)」
割り算の除計算は
「(±N)/(±N)=(±N)÷(±N)=±(1)」
だが、「±N」は「0」の枠内である・・・
自然科学で「認識できる物質存在」が「実数」で計算できるならば「不思議」は無いデある・・・論理矛盾は「無限の中に有限」が「存在する」と云うコトである。それは「計算上、無理数のモノ」であっても同じである。「無限」のコトバは、ここでは「有限」認識の「対象性」ではないし、「等価(=)」としての「対称性」でもない・・・
「無限」>「有限」
であるなら、
「無限」のコトバは
「スベテのモノ=全部=全有」
と替えたほうがイイだろう。前提的に「無」は「存在しないモノのコトバ」だから・・・
当然、「数学」の「対称性・非対称性」は「ゼロ枠」の「有限なモノ」を前提的に「認識対象」にした「対称性・非対称性」である・・・底存在するモノは「無」ではない。「有」である。「無」とは「人間の脳ミソにのみ巣食うコトバ」である・・・「0=ゼロ」≠「無」であり、「0=ゼロ=全有」である・・・そして「全能の神」ではなく、「全有の自然」である。
「0=ゼロ=全有」とは
「対象認識」はされているが、
未だコトバとして認識組織化されていない「対象存在」である。「無」ではない「底存在」する「アルもの」の論理的な認識コトバとしての整合性である。
「無」は「仮想」として「脳ミソ」に非対象性としのみ巣食っているモノである・・・
「ゼロ=0=全有」、それは、モチロン、現在的な人間認識としての「超常現象」も含めた「未知な存在」のスベテである。
やっかいな問題は脳ミソ領域でのカミをも含めた実体の無い「空想物・妄想物・想像物」である。これらのモノは「実体」として未来的に存在させられる可能性のあるモノもある。
人間の認識対象に対する「数理的な整合性」は「空想物・妄想物・想像物」であろうと、その可能性を設計し、創り出してきた。
だが、その「創造物」の材料、原料は「現物」であり、「現物」なしでは不可能である。
「人間の創造物・造形物」は「存在」するモノの「構造認識、形態認識」がナイ限り、あり得ない。
「無想(想い自体が無)」
と
「空想(想い自体が空)」
は同じコトバ(概念)ではナイ・・・
「空」は視覚的な動的認識対象である。
仏教で云えば「色即是空=空即是色」である。ここでの
「空」とは存在のスベテであり、
「色」とは脳ミソに「認識」されたコトバである。
そして、自然科学での「0」とは
脳ミソの認識、記憶、思考、判断の空間領域で、
未だ認識されていない対象存在のスベテであり、
認識されていても
コトバとして存在に対する論理性、整合性を
未だ有していないモノ、
仮定段階のモノと云うコトに尽きる。
では、
人間社会(社会科学)での「0=ゼロ」とはナニか?・・・
人間社会の人間諸関係での「不合理な生活の認識」は「色(色情=愛欲)の悟り」だけではないコトは確かである。「所為色列=以色列=イスラエル」の漢字が「以色列」とアテラレタのは尤(もっと)もなコトである・・・「意賂(イロ)」であるカナ・・・
「犹大 Yóudà=ユダ=猶太」≒「以色列=イスラエル」
「犹他 Yóutā=ユタ=猶太」≒「以色列=イスラエル」
・・・ナゼ、「国家」として分裂したのか?・・・「人間の生き方」の相違であったのか・・・「十戎」を守れない「人間のエゴ」・・・「ネタミの神」ではムリである・・・
「ユダヤ、ショクをモってレツする」・・・
記号的には「≠」ではないが「≒」である。「=」ではない・・・「近似」である。モチロン、「漢字字形」は異なっている・・・
「空即是色、色即是空」の文字仮名交換、文字代替である・・・
「空=ゼロ=全有(存在)」、「ゼロ=色=識(識別)」・・・
多分、「旧約(舊約)」を読んだ人びとは原則的には自分自身の「労働の交換対価」の「+-」の「0=ゼロ」であるコトに気付いていただろう。
しかも、「個々人の労働交換の対価」ではない、「社会的な人間協働社会の総労働」としての「社会的交換対価」であるコトを・・・
コトバを変えれば「生産物の社会的な公平分配」である。人間個々人の「労働能力=生産能力」は「平等」ではない。それに「社会的協働分担」の職種は様々である。老若男女、健常者、非健常者、知識力、体力も異なって存在する。先ずは「衣食住」と「医療」の社会的な公平保障である。これらは「社会的な人間協働社会の総労働=総生産」の枠内での「公平な分配」であり、これらの配分後の「総生産」の「余剰」があれば、それは「公共財産」としての予備として「蓄積」されるモノのだ。・・・明治のインテリは「公」の漢字も「民」に交換すべき漢字であったろう・・・
「社会的な人間協働社会の総労働」とは「社会的労働時間の総体」でもある。そして、「剰余」とは「社会的総労働の総体に含まれる部分」である。当然、この「剰余」は「社会的に使用」されるか、あるいは「剰余時間=消費時間=余暇時間」として「総労働時間」からの「+-=0」として交換使用されるモノである。
だが、個々人の「消費時間の分配=蓄積された労働時間の配分=労働から解放された余暇としての自由使用の時間配分」は、公平配分されるが、その時々の「社会的状況」と「個々人の事情」による。地球人全員が同時期に「お祭り・クリスマス」と云うワケにはいかない。社会的生活の中で、個々人の「自由な消費時間帯」のローテーション(rotation)が必要だろう・・・
これらの「論理」は一見すると、今現在の社会システムと同じように見えるカモ知れないが、「総労働=総生産=総消費」に「私有」は無い、と云うコトであり、個的に配分された剰余労働の「私的相続」は無い、と云うコトに尽きる。それは「公的」に個々人に配分された「衣食住+医療」の生産物に於いても、「自由な消費時間帯の余り」に於いても、人生が終われば、「0=ゼロ=全有」として協働社会に「還元」される。
↓↑
・・・「オバちゃんのクロウ」・・・
時たまオバちゃんは小さいボクに「赤毛と縮れ毛のオンナは意地が悪いからネッ、お前も気をつけて」であった。特にそのコトバはオバちゃんの母親を「苛(虐)めていたヒト」の印象でもあったらしいが・・・多分、職場でオバちゃんを「苛(虐)めていたヒト」の一般的な印象でもあったろう。オバちゃんの母親は気が強く、勝ち気で、付き合う合う人間の上下関係を無視して好き嫌いがハッキリしている女性であった。それで、その人にはハッキリと「善悪」を云うか、時には道で出逢っても全く相手を無視する態度をとったらしく、「仕事先」で支障をきたすコトもあったらしい・・・だが、オバちゃんは相手がどんな人にでも愛想よく付き合っていた。我慢と忍耐がオバちゃんの生き方で人前で相手を悪く言うことは皆無だったが、自分の家族親戚は褒めすぎで、オジちゃんには「自分の身内はホメルもんではない」と云われていた。ボクは時たまオバちゃんの苦労ばなしと愚痴を聞かされたが・・・ある時、「クロンボが怖い」と云っていたので、その「クロンボ」の意味と理由を訊いてみると「クロンボは見たことが無いけれど、聞いたハナシ」とのコトだった・・・どうやら「黒人」のコトではないようであった。住んでいた所は「炭鉱」だったから・・・穴から出てきた労働者の顔は「まっ黒け」・・・
それに、オバちゃんは当時としても「血液型」での人間関係の「相性」には敏感であった・・・その「科学的根拠」はないようであるが、「相性」に関する「直観」は相互な人間関係で、現実的に騙されやすい人間の防御策としては不可欠だろう・・・特に経験的に騙された人間には・・・「イイコト云う奴には注意しろ」だが・・・「相性過信」がワナでもアル・・・
オバちゃんは、その生涯で「海を見たコト」がなく逝ってしまったヒトでもあったが・・・「海を見たい」とも云わなかった。本当はドウだったんだろう・・・オバちゃんがジィ~ッと眺めていたのは一息ついて、橋の上で佇み、その下を流れる黒い川だった・・・
ーーーーー
旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第39章
39:1
あなたは
岩間の
やぎが子を産むときを
知っているか。
あなたは
雌じかが子を産むのを
見たことがあるか。
39:2
これらの
妊娠の月を
数えることができるか。
これらが
産む時を知っているか。
39:3
これらは
身をかがめて
子を産み、
その
はらみ子を産みいだす。
39:4
その子は
強くなって、
野に育ち、
出て行って、
その親のもとに帰らない。
39:5
だれが
野ろばを放って、
自由にしたか。
だれが
野ろばの
つなぎを解いたか。
39:6
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
荒野を
その家として与え、
荒れ地を
そのすみかとして与えた。
39:7
これは
町の騒ぎを
いやしめ、
御者の呼ぶ声を
聞きいれず、
39:8
山を牧場として
はせまわり、
もろもろの青物を
尋ね求める。
39:9
野牛は
快く
あなたに仕え、
あなたの飼葉おけの
かたわらに
とどまるだろうか。
39:10
あなたは
野牛に手綱をつけて
うねを歩かせることができるか、
これは
あなたに従って
谷を耕すであろうか。
39:11
その力が
強いからとて、
あなたは
これに頼むであろうか。
また
あなたの仕事を
これに任せるであろうか。
39:12
あなたは
これにたよって、
あなたの穀物を
打ち場に
運び帰らせるであろうか。
39:13
だちょうは
威勢よくその翼をふるう。
しかし
これには
きれいな羽と羽毛があるか。
39:14
これは
その卵を
土の中に捨て置き、
これを
砂のなかで暖め、
39:15
足でつぶされることも、
野の獣に
踏まれることも忘れている。
39:16
これは
その子に無情であって、
あたかも
自分の子でないようにし、
その
苦労のむなしくなるをも
恐れない。
39:17
これは
神が
これに知恵を授けず、
悟りを
与えなかった
ゆえである。
39:18
これが
その身を起して
走る時には、
馬をも、
その乗り手をも
あざける。
39:19
あなたは
馬にその力を
与えることができるか。
力をもって
その首を
装うことができるか。
39:20
あなたは
これを
いなごのように、
とばせることができるか。
その
鼻あらしの
威力は恐ろしい。
39:21
これは
谷であがき、
その力に誇り、
みずから出ていって
武器に向かう。
39:22
これは
恐れを
あざ笑って、
驚くことなく、
つるぎをさけて
退くことがない。
39:23
矢筒は
その上に鳴り、
やりと
投げやりと、
あい
きらめく。
39:24
これは
たけりつ、
狂いつ、
地を
ひとのみにし、
ラッパ
の音が鳴り渡っても、
立ちどまることがない。
39:25
これは
ラッパ
の鳴るごとに
ハアハア
と言い、
遠くから戦いを
かぎつけ、
隊長の大声
および
ときの声を聞き知る。
39:26
たかが
舞いあがり、
その翼を
のべて
南に向かうのは、
あなたの
知恵によるのか、
39:27
わし
が
かけのぼり、
その巣を
高い所につくるのは、
あなたの命令によるのか。
39:28
これは
岩の上にすみかを構え、
岩のとがり、
または
険しい所におり、
39:29
そこから
獲物をうかがう。
その目の及ぶところは
遠い。
39:30
その
ひな
も
また
血を吸う。
おおよそ
殺された者のある所には、
これも
そこにいる」。
ーーーーー
・・・「ソ連(ロシア)」は「理不尽な国家」であった・・・「ユダヤ人の迫害、弾圧」・・・もちろん、「帝国日本」もであった・・・「迫害・弾圧」は「人種・民族・国籍」には関係ない。「人種・民族・国籍」は紛争、戦争、虐殺、弾圧、迫害の「支配階級のイイワケ」である。「兵士」は「国家と云う宗教幻想を振り撒く支配階級の人身御供」であるに過ぎない。「生きている間は金銭売買で飼育され、銃を持たされている家畜」で、「闘鶏」である・・・そして「人間同士への迫害・弾圧のテコ」でもある。戦後の「日本(国)憲法」が「自虐思想」であるなどとダレが云っているんだか。「人間」としての立場を欠落させるのは「国家」である・・・
そして、靖国神社のトイレに時限爆弾・・・「死者への怨恨」が目的で「生きている人間の殺傷」を目論むとはアサハカな奴である・・・そんな暇があるなら「人間を生かすコト」をヤレッ・・・
・・・「ヨブ記」は「自然の情景」を抒情(叙情)的に記述展開しているようにも思える・・・「自然界の仕業は自然のモノ」、「人間界の仕業は自然と人間の接点と人間社会の人間同士のモノ」である・・・「自然と人間の接点の最前線」で頑張っているのが「お医者さん」、「医療、医薬研究者」である・・・だが、他人の命を商売と出世に利用している人もいる・・・そして、戦っているのは「今現在、病に罹っている患者自身」である。「自助力」と云われる個々人の「生理的体力」も「自然界の枠内」でのバランスで生かされている・・・この「人間社会全体のバランス」を壊すモノが「自然の災害」でもある。そして「自然」を壊してきたのは「社会的人間」でもある。更には「人間社会」と「人間社会」の対立、争いで自らの人間社会を破滅的、潰滅的な経験をしたし、してきている・・・そして、今現在、生きている人間は、運よく「生き残った人間」の子供たちであり、孫たちである・・・
「占守(シムシ)島」ですか・・・終戦三っ日後の六日間の戦闘・・・19:54「池上彰の教科書に載っていない20世紀~戦後ニッポンを救った知られざる人々~・終戦直後の知られざる真実・国のために慰安婦になった女性たちがいた!?・終戦3日後に千島列島で繰り広げられたソ連(ロシア)との死闘、あの戦いが北海道を救った!?」・・・ボクの父方の伯父さんは「シベリヤ」で強制労働させられ帰還した「元日本兵」だった・・・
ーーーーー
旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第38章
38:1
この時、
主は
つむじ風
の中から
ヨブ
に答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを
暗くするこの者は
だれか。
38:3
あなたは
腰に帯して、
男らしくせよ。
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
あなたに尋ねる、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)に
答えよ。
38:4
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)が
地の基をすえた時、
どこにいたか。
もし
あなたが
知っているなら言え。
38:5
あなたが
もし
知っているなら、
だれが
その度量を定めたか。
だれが
測りなわを
地の上に張ったか。
38:6
その土台は
何の上に置かれたか。
その隅の石は
だれが
すえたか。
38:7
かの時には
明けの星は
相共に歌い、
神の子たちは
みな
喜び呼ばわった。
38:8
海の水が流れいで、
胎内から
わき出たとき、
だれが戸をもって、
これを閉じこめたか。
38:9
あの時、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
雲をもって衣とし、
黒雲をもって
むつきとし、
38:10
これがために
境を定め、
関
および
戸を設けて、
38:11
言った、
『ここまで来てもよい、
越えてはならぬ、
おまえの高波は
ここに
とどまるのだ』
と。
38:12
あなたは
生れた日から
このかた
朝に命じ、
夜明けに
その所を知らせ、
38:13
これに
地の縁をとらえさせ、
悪人を
その上から
振り落させたことがあるか。
38:14
地は
印せられた
土のように変り、
衣のように
いろどられる。
38:15
悪人は
その光を奪われ、
その高く
あげた腕は
折られる。
38:16
あなたは
海の源に行ったことがあるか。
淵の底を歩いたことがあるか。
38:17
死の門は
あなたのために開かれたか。
あなたは
暗黒の門を見たことがあるか。
38:18
あなたは
地の広さを
見きわめたか。
もし
これを
ことごとく知っているならば言え。
38:19
光のある所に至る道は
いずれか。
暗やみのある所は
どこか。
38:20
あなたは
これを
その境に導くことができるか。
その家路を
知っているか。
38:21
あなたは
知っているだろう、
あなたは
かの時すでに生れており、
また
なたの日数も多いのだから。
38:22
あなたは
雪の倉に
はいったことがあるか。
ひょうの倉を
見たことがあるか。
38:23
これらは
悩みの時のため、
いくさと戦いの日のため、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)が
たくわえて置いたものだ。
38:24
光の広がる道は
どこか。
東風の地に
吹き渡る道は
どこか。
38:25
だれが
大雨のために
水路を切り開き、
いかずちの光のために
道を開き、
38:26
人なき地にも、
人なき荒野にも
雨を降らせ、
38:27
荒れすたれた地を
あき足らせ、
これに
若草をはえさせるか。
38:28
雨に
父があるか。
露の玉は
だれが生んだか。
38:29
氷は
だれの胎から出たか。
空の霜は
だれが生んだか。
38:30
水は
固まって
石のようになり、
淵のおもては
凍る。
38:31
あなたは
プレアデス
の鎖を結ぶことができるか。
オリオン
の綱を解くことができるか。
38:32
あなたは
十二宮を
その時にしたがって
引き出すことができるか。
北斗と
その子星を
導くことができるか。
38:33
あなたは
天の法則を知っているか、
その
おきてを
地に施すことができるか。
38:34
あなたは
声を雲にあげ、
多くの水に
あなたを
おおわせることができるか。
38:35
あなたは
いなずまをつかわして行かせ、
『われわれはここにいる』
と、
あなたに言わせることができるか。
38:36
雲に知恵を置き、
霧に悟りを与えたのは
だれか。
38:37
だれが
知恵をもって
雲を数えることができるか。
だれが
天の皮袋を傾けて、
38:38
ちりを一つに
流れ合わさせ、
土くれを
固まらせることができるか。
38:39
あなたは
ししのために食物を狩り、
子じしの食欲を
満たすことができるか。
38:40
彼らが
ほら穴に伏し、
林のなかに
待ち伏せする時、
あなたは
この事を
なすことができるか。
38:41
からすの子が
神に向かって呼ばわり、
食物がなくて、
さまようとき、
からすに
えさを与える者は
だれか。
ーーーーー
・・・
・・・16時、空から牡丹雪が降り出し始めた・・・不思議と云えば「不思議」である・・・小学校の高学年では学校の教科書で習ったハズである。だが、「実験」で確かめた事項は皆無である。日常生活の中では「氷→水→水蒸気」の変化は、その温度変化と共に確認出来た。だが「水蒸気→雲→雨・雪・霙(みぞれ)・雹(ひょう)・霰(あられ)」は実験で自分の目で確認したワケではない。知識として知っているのは「理詰め」で教えられたからである。その自然存在の動的変化をアル程度の知識で知っている、理解している、と云うコトに過ぎない。
「温度変化」でナゼ「氷→水→水蒸気」となるのか、そもそも「温度変化=物質の密度の動的変化」であったり、「レンジのマイクロ電磁波が密度変化(温度変化)を起こす」のである、と云うコトも「理くつ」で知っているが、なぜ「マイクロ電磁波」が発生するのかは詳しくは知らない。
モチロン、ダムの水の落下で水車をまわし、回った水車の電磁軸の外部に銅線コイルがあると「電気・電磁波」が発生し、電流が流れる(その逆の配置でも同じ)コトは大体知っているが、ナゼ「電気」が発生するのかボクは理解していない。基本的には水の落下の運動が結果的に電気エネルギーに変換される・・・そもそも「エネルギー=物質の質量」とは「物体、放射、場などが別の場所に動的な移動をなし得る状態にあるとき,エネルギーEをもつという熱・放射・電気・化学・原子核エネルギー」等々、「物質の質量自体もエネルギーの一形態」である・・・
「原子核の核融合・核分裂」の「構造と動的変化の理くつ」も、おおよそ知っているが、ボク的には確実な知識ではないし、実験としての確認は無理である・・・モチロン、「存在自体」の存在の意味は無い。「アルものはアルでしかない」である。知ることの出来るのは、その「存在の構造と変化、存在諸関係の変化」である・・・しかも、文字と図式と記号、数字で確認したコトの「曖昧な知識」として・・・それでもデアル・・・確認できるモノが認識対象である・・・「自然界」に対する人間の「発見」はワンサカである・・・
で、ココでは「自然」=「神」と置き換えれば、「エリフの時代」の問題は取り敢えずは解決するハズであるが・・・未知なるモノは無限で「不可思議」以上に存在する・・・
ーーーーー
旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第37章
37:1
これがために
わが心も
また
わななき、
その所から
とび離れる。
37:2
聞け、
神の声のとどろきを、
また
その口から出る
ささやきを。
37:3
彼は
これを天が下に放ち、
その光を
地のすみずみまで至らせられる。
37:4
その後、
声とどろき、
彼は
その
いかめしい声をもって
鳴り渡られる。
その声の聞える時、
彼は
いなずまを
引きとめられない。
37:5
神は
その驚くべき声を
もって鳴り渡り、
われわれの
悟りえない
大いなる事を行われる。
37:6
彼は
雪に向かって
『地に降れ』
と命じ、
夕立
および
雨に向かって
『強く降れ』
と命じられる。
37:7
彼は
すべての
人の手を封じられる。
これは
すべての人に
みわざを
知らせるためである。
37:8
その時、
獣は穴に入り、
その
ほらにとどまる。
37:9
つむじ風は
その
へやから、
寒さは
北風から来る。
37:10
神のいぶきによって
氷が張り、
広々とした
水は凍る。
37:11
彼は
濃い雲に
水気を負わせ、
雲は
その
いなずまを散らす。
37:12
これは
彼の導きによって
めぐる。
彼の命じるところを
ことごとく
世界の
おもてに
行うためである。
37:13
神が
これらを
こさせるのは、
懲らしめのため、
あるいは
その地のため、
あるいは
いつくしみのためである。
37:14
ヨブよ、
これを聞け、
立って
神の
くすしき
みわざを考えよ。
37:15
あなたは
知っているか、
神が
いかに
これらに命じて、
その雲の光を
輝かされるかを。
37:16
あなたは知っているか、
雲のつりあいと、
知識の全き者の
くすしき
みわざを。
37:17
南風によって
地が穏やかになる時、
あなたの
着物が熱くなることを。
37:18
あなたは
鋳た鏡のように
堅い大空を、
彼のように
張ることができるか。
37:19
われわれが
彼に言うべき事を
われわれに教えよ、
われわれは
暗くて、
言葉をつらねることはできない。
37:20
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
語ることがあると
彼に告げることができようか、
人は滅ぼされることを
望むであろうか。
37:21
光が空に輝いているとき、
風過ぎて
空を清めると、
人々は
その光を見ることができない。
37:22
北から
黄金のような輝きがでてくる。
神には
恐るべき威光がある。
37:23
全能者は
―
われわれは
これを
見いだすことができない。
彼は
力と公義とにすぐれ、
正義に満ちて、
これを
曲げることはない。
37:24
それゆえ、
人々は
彼を恐れる。
彼はみずから
賢いと思う者を
顧みられない」。
ーーーーー
・・・
・・・「自問自答」の以前に「他聞他(多)答」がある・・・宗教以前の「人間の問題」である・・・人間が「カミ」を必要としたのは当然である。理解出来ないモノは「畏怖する何者かの存在の仕業」とする他になかった。だが、旧約聖書は既に「私はアルと云うアルもの=私は在りて在るものである=’ehyeh ’ăšer ’ehyeh=エヘイェ・アシェル・エヘイェ)」と記録している。単純に云えば「スベテのアル=有・存・在・BEEN(There have been to be something)・existence・being」=「底存在するモノ=存在するスベテ」である・・・「エル・エローヒーム=エロヒーム(主)=アドナイ ヤハフェ(YHWH)=アドナイ ヤーウエ=エホヴァ=エホバ(Jehovah)=イェホヴァ=キュリオス (Κύριος) =ゼウス(Zeus)」、その呼び名が何であろうと問題はない。モチロン、認識論的には「自然存在と自然摂理」である・・・認識対象を「コトバの理屈」で理解するには膨大な「観察時間」と、「分析、分解時間」、それらのモノの「再構成、再構築」としての「実験時間」、それに人間の五感を超える「道具の発明」が必要であった。人間社会の諸関係で「神」を巡って「命のやり取り」するのは「愚行」ではあるが、「領土」を巡っての「命のやり取り」するのも「愚行」である。そして「財貨の多寡」で「命のやり取り」するのは「根本的な愚行」である・・・更に「名誉」を巡って「命のやり取り」するのは更に「愚行」である・・・「愚行・愚公」より、「愚考」する自分自身の「自問自答」を要請するモノのは何かを考えるコトが必要だ。「他聞・多聞」の「多答・他答」の「汰等」の「たとう・タトウ」である・・・モチロン、その「答え」は既に見えているハズである。そして、「ヨブのコトバの中」にあったし、ある。そして、それを悟った後の実行は、個々人の「自由決断の選択」である・・・生活に多忙なヒトビトはアマリ、その時間がないカモだが・・・「カミ」を頼ってはアラヌ人間に利用されるだけである・・・
各人、個々人が考えている「神・神々」は様々で、現れても気紛れな存在である・・・
「神=カミ」と云うコトバの「概念・範疇・本質・既定」が「共通内容で理解」されてはいないのは当然である。
「一般的な日本人が理解」している「神々」とは「御利益」と「悪戯(いたずら)」の「カミガミ」である。個々人の「お願いを聞いてくれ、お願いを叶えてくれる存在」である。時には「憑依して悪さをする存在」である。時には既に死んでしまったヒトの怨念の「霊魂=魂魄」である。
旧約聖書の「神」は自分から「ネタミの神」と宣言している
新約聖書の「神」は「天国と地獄の神」である
アラブの「神」は旧約聖書の「神」と同じである
エジプトの「神」は元々多神教で、太陽を神とした
ギリシャの「神」は多神教である。人間は「星」になった
ヒンズー教の「神」は多神教の化身の神々である
仏教の「神」は多神教である。しかも「輪廻転生」・・・
概ね世界各地の神々は「巫師・祈祷師」のシャーマニズムで、先祖の霊と動植物の精霊神である
スベテの「神の必要共通項」は、「その地域の人間社会の飢餓、疫病、災害から救済」であった。特に「救済の対象」は「貧困者と病人」だった。「神の主催者」は「巫女・覡・神官・医者・土木建築の技術者」でもあった。外部からの敵対侵入者に対しては共同体防衛の軍事的指導者にもなった・・・そして、「協働(共同)社会」の神々は、特殊、支配階級の神となって利用されるコトになった・・・
「エリフの神」は・・・ドウカ・・・
ーーーーー
旧約聖書
約伯 記
ヨブ・・・「与分・余部」記
・・・・呼ぶ記(紀)
第36章
36:1
エリフ
は
重ねて言った、
36:2
「しばらく待て、
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
あなたに示すことがある。
なお
神のために・・・・「神の為」では無く「自分自身のタメ」?
言うべき事がある。
36:3
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)は
遠くから
わが知識を取り、
わが造り主に
正義を帰する。
36:4
まことに
わたし(わたくし・ム・よこしま・私)の
言葉は偽らない。
知識の全き者が
あなたと共にいる。
36:5
見よ、
神は力ある者・・・当然である
であるが、
何をも
卑しめられない、・・・厭占める根拠がない
その悟りの力は・・・・悟るかどうかは人間次第である
大きい。・・・・・・・大小は人間が決めている
36:6
彼は
悪しき者を・・・・・・・・足(脚・肢・蘆)記物
生かしておかれない、・・・何時までのコトか?
時間の問題か?
蛙詞記物はナゼ存在しているのか?
苦しむ者のために
さばきを行われる。・・・・人間社会を
裁くのは「人間」であるが?
36:7
彼は
正しい者から
目を離さず、
位にある
王・・・・「王」がナゼ存在するのか
「王仁・王爾」と「鰐(わに・ガク)」に
訊いてみたいが・・・「千字文」・・・
「鰐」=魚+咢(口口一丂)
咢=おどろく・ガク
丂=曲がる・曲げる・コウ
咢=口々のイチ(一)を曲げる・・・
この「曲がったモノ」+「?の扁、旁」の
「部首漢字の意味」である・・・
↓↑
「顎=あご・頤
額=ひたい・ぬか・顙
鍔=つば・鐔・唾
鄂=湖北省の別称
鄂倫春族=オロチョン族
倫=伦
鄂温克族=エヴェンキ族
オトゴ-サウスルス?
(Otogo-saurus)
鄂托克(Otog)=トカゲauros(σαυρσ) 発見地の先住民の
薩茹拉(Sarula)にちなんで
中国語でOtogo-saurus=鄂托克龙
Otogosaurus sarulai
オトゴサウルス サルライ
薩茹拉 - 鄂托克龙
オトゴサウルス サルライ
音 語作得留素 猿 等意
卾(咢+卩・わりふ・セツ・セチ)
鄂(咢+阝・邑・むら・ユウ・ユ)
鶚=みさご
鶴=つる
愕=おどろく・驚愕・愕然」
・・・の学(まなぶ)、
「画句、臥句、芽句、牙句」である
・・・「王」ジタイの存在が問題である・・・
たちと共に、
とこしえに、・・・・・・永遠・永久
得意円、
重意遠(奄・縁)ではない・・・
彼らを
すわらせて、・・・・・・坐らせない
尊くされる。・・・・・・ミコトは
トウトクされない
36:8
もし
彼らが
足かせにつながれ、
悩みの
なわに
捕えられる時は、
36:9
彼らの
行いと、
とがと、
その
高ぶった
ふるまい
を彼らに示し、
36:10
彼らの
耳を開いて、
教を聞かせ、
悪を離れて
帰ることを
命じられる。
36:11
もし
彼らが聞いて
彼に仕えるならば、
彼らは
その日を幸福に過ごし、
その年を楽しく
送るであろう。
36:12
しかし
彼らが
聞かないならば、
つるぎによって滅び、
知識を
得ないで
死ぬであろう。
36:13
心に
神を
信じない者どもは
怒りをたくわえ、
神に縛られる時も、
助けを
呼び求めることをしない。・・・信じない(信じられない)から
当然である
新字等例名意
36:14
彼らは
年若くして・・・・年齢(年令)には関係無く
死に、・・・・・・示似
その
命は・・・・・・・意埜地
視こと
恥のうちに終る。・・・恥=耳+心
辱・愧じ・羞じ
把持・土師
葉字・嵌字
知
36:15
神は
苦しむ者を
その
苦しみによって救い、・・・苦しみとは試練?
彼らの耳(みみ・に・ジ)を
逆境によって
開かれる。・・・・・・・・耳を開いてドウスル?
36:16
神は
また
あなたを
悩みから、
束縛のない
広い所に
誘い出された。
そして
あなたの
食卓(ショクタク)に
置かれた物は
すべて
肥(こ・ヒ)えた物であった。・・・肥前・肥後・肥国
36:17
しかし
あなたは
悪人のうくべき
さばき
を
おのれに満たし、
さばき
と
公義
は
あなたを捕えている。
36:18
あなたは
怒りに誘われて、
あざけりに陥らぬように心せよ。
あがないしろ
の
大いなるがために、
おのれを誤るな。
36:19
あなたの叫びは
あなたを守って、
悩みを免れさせるであろうか、
いかに力をつくしても
役に立たない。
36:20
人々が
その所から
断たれる
その夜を
慕ってはならない。
36:21
慎んで
悪に傾いてはならない。
あなたは
悩みよりも
むしろ
これを選んだからだ。
36:22
見よ、
神はその力をもって
あがめられる。・・・・崇められるコトが目的なのか?
アメガムノン
だれか
彼のように
教える者があるか。
36:23
だれか
彼のために
その道を定めた者があるか。
だれか
『あなたは
悪い事をした』
と
言いうる者があるか。
36:24
神のみわざを
ほめたたえる事を・・・褒め称えればイイのか?
忘れてはならない。
これは
人々の歌い
あがめる
ところである。
36:25
すべての人は
これを仰ぎ見る。
人は遠くから
これを
見るにすぎない。
36:26
見よ、
神は大いなる者にいまして、
われわれは
彼(神)を知らない。・・・シラナイものである・・・
その年の数も
計り知る
ことが
できない。・・・・デキナイものが
ナゼ「大いなる者」なのか?
36:27
彼(神)は
水の
したたりを引きあげ、
その
霧をしたたらせて
雨とされる。
36:28
空は
これを降らせて、
人の上に
豊かに注ぐ。・・・・ヒトは知ることも
出来ない「神」なのに、
ナゼ、
「神の仕業」とするのか?
36:29
だれか
雲の広がる
わけ(訳)と、
その
幕屋の
とどろ(轟)く
わけ(訳)
とを
悟(さと)ることが
できようか。・・・今現在、一般人は、
訳(わけ・理由)も
「悟=対象を理解する能力
(悟性・Understanding)」
も出来る・・・
36:30
見よ、
彼は
その光を
おのれの
まわりにひろげ、
また
海の底を
おおわれる。
36:31
彼は
これらをもって
民をさばき、
食物を豊かに賜い、
36:32
いなずまをもって
もろ手を包み、
これに
命じて
敵を・・・・・敵とはダレか?
偶像崇拝の異教徒か?
打たせられる。
36:33
そのとどろきは、
悪にむかって・・・「悪」とは
「悪人」のみに向かってなのか?
怒りに燃える
彼を現す。
ーーーーー
・・・いまだ、「エリフ」の「神に対する理解」は出来ていないようであるし、「ヨブの疑問」にも「コタエ」てはいないようである・・・