城郭探訪

yamaziro

能登川の城 (転載)

2013年08月01日 | 番外編
  ~佐々木氏の武将について~
 佐々木氏の本城が、観音寺城で、佐々木氏は観音寺城を守るために、観音寺城の、周辺に、家臣団を、配置しました。観音寺城は、能登川、五個荘付近にあるので、佐々木氏が配置した家臣団の城が、能登川に、たくさんあります。町内に、配置した家臣たちはそれぞれ村落を、支配下におさめ、村の中央に館(城)を設けて、守りを固めました(そんらく↑)      
  ~お城の数・名前~
数:能登川町にあるお城の数は、全部で22か所あります。お城の数は、ほとんどが字によって決められています。下は、お城の名前と、場所です。
1:阿弥陀堂城=阿弥陀堂
2:猪子館=猪子
3:伊庭城=伊庭
4:伊庭御殿=能登川
5:今村城=今
6:伊庭古城=伊庭
7:小川城=小川
8:垣見城=垣見
9:川南城=川南
10:観音寺城=北、南須田
11:国領城
12:佐生城=佐生
13:佐野館=佐野
14:新村城=新宮
15:須田館=須田
16:躰光寺館=躰光寺
17:種村城=種村
18:八仏手城=種村
19:福堂館=福堂
20:和田山城=長勝寺
21:山路城=山路
(22:安土城=南須田)安土城は、南須田に、裏口が、あるからです。
 
~各武将の城(館)~
 能登川には、21か所のお城があり、種村氏、新村氏、小川氏、後藤氏、須田氏、猪子氏、国領氏の7人のことがのっていました。まずは種村氏から。
 
種村氏:種村の、西側に居館。大橋姓はその子孫。先方種村氏は、伊庭氏からの別家で、八仏手城を築いたが、伊庭氏没落時に、各地分散。
 
新村氏:佐々木一族、志村に居館。信長勢に抗してろう城し、670人のぎせいをだし、落城。
 
小川氏:小川に居館。元亀2年(1571年)信長勢に7人の人質を出して、降伏、落城。(げんき↑)
後藤氏:近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館跡である佐生城は佐々木氏の下屋敷。佐生城に居館。八日市市中羽田町に後藤氏館。
須田氏:信濃源氏の、未流。須田九郎為真が、元祖。須田を、支配。
猪子氏:佐々木一族、伊庭氏の未流。猪子次郎が先祖。猪子を支配。
国領氏:先祖高橋氏の、未孫が、国領氏と称した。       
 
   ~城跡の様子~
 能登川には、たくさんのお城がありますが、そのほとんどが無くなっています。でも、残っているのもたくさんあります。
お城の跡の残し方は、いろいろあります。 石を立ててそこに名前を掘ったり、囲いをしたり、石垣を残したりして、お城は残っています。
これからもずっと残っててほしいです。           
 

南津田城 近江国(近江八幡)

2013年08月01日 | 平城

「滋賀県中世城郭分布調査4」にも、載っていない?!【南津田城】【南津田城王子砦】・・・新発見か?

しかし、南津田集落には看板が?

鳥居の横に手づくりの不思議な看板が目に入る。「南津田城 山城⇒南津田城・八王子山砦⇒八王子古墳⇒八王子神社」という順に書かれている。

なにか順序がおかしい、それに山城に興味をそそられて神社の石段を登る。境内には立派な社がありました。 

手前に拝殿が、奥には透かし塀で囲まれた本殿があります。東日本ではあまり見られない造りです。
 
 
八王子神社の社伝によればこの地は、清和天皇の皇子貞頼親王の御領地となり、後に親王家より延暦寺西塔院に寄附されたそうです。それがもとになって日吉七社の内の八王子社を勧請した事が明らかであると思われるそうです。

社の左手、社務所の横に「散策順路」と書いただけの表示がある。はっきりした道が見つからないでうろうろしていたが、踏み跡らしきところが見つかる。登っていくと、木々に黄色テープが・・・・山ではおなじみの道案内だ。

最小は、整備されて・・・すぐにササとシダをかき分けて!

八王子古墳・・・これ以後案内板はありません!

うぐいすの鳴き声を聞きながら・・・探訪は、上へ…上へと!

古墳の上は、平削地と尾根道・・・この辺りからが「八王子砦」カ!

つくつくぼうし!

竪堀風

最初のビューポイント!北側・・長命寺山が!

干拓されるまでは、山裾は琵琶湖でした!

とりあえず右へ、一番近い出丸跡へ行くことにする。出丸跡は何度か行ったことのあるが、この道が何処へつながっているのだろう。

岩に榊が!

my・poleと根性榊

一番の石碑(多分ここから・・・八幡山城!)

鹿の頭の切株・・・から~進むと八幡山城の出丸!

近世の石積・・・山道土止石垣!

明らかに、加工された石積・・

十番石碑(右側か出丸の石垣・・・綺麗です)

やがて日差しが差し込んでいる場所に・・・石垣が見えている。きっと出丸跡のものだろう。

八幡城出丸・・・西虎口 

八幡山城の出丸・・・(以前は、南津田山城?・・・詰め城?)

出丸ぼ平削地

八幡山西の丸へ

 

出丸に石垣!

 

下山します

山道の三差路

登った道を、降り始めたが・・・同じ道を返ず!・・・とりあず、下りました。

巨岩が

竹林を無理やり・・・八王子神社」へ

真念寺 

真念寺の石垣には、沢山の石工のノミ跡が確認出来ます!

沢山の石工のノミ跡沢山の石工のノミ跡

 

八王子神社から登ると平坦地が何箇所かあったり、竪堀や土塁痕のような箇所もありますが、城という感じはやはりしません。黄色のテープに従ってどんどん登って行くと八幡山城の出丸下石垣のところに出てしまいました。

この出丸が元は南津田山城? 双方とも登り口には標識がありますが、現地には標識らしいものも見当たりませんでした。それでも、昔から地元の方が城跡あるいは古墳として整備などをされているようです。

津田氏の城・・・中世(平安末期~鎌倉初期)。

南津田町は津田氏ー織田氏の発祥地として2011年9月に顕彰碑が地元有志の手に寄って建てられました。織田氏の始祖の津田親真(1183~1259)は父の平資盛が落ち延びる際に近江津田荘の津田氏に母である三井寺一条坊あじゃりを匿ってもらい、そこで生まれた子が親真としています。あじゃりは資盛が壇ノ浦で死んだ後に津田氏と再婚、親真は貞永二年(1233年)に越前国織田劔神社の神主の養子となって織田姓を称したという説をもって津田親真を津田氏・織田氏の始祖として顕彰碑を建てられたようです。福井県の剱神社には織田氏発祥の碑があります。

堀跡?がハス池として残って、咲いていました

 地元のご婦人とお話しましたら、町内の水路跡の石垣は江戸以前からある石垣が残っているそうです。

また、津田天満宮は菅原道真が大宰府に左遷される際に立ち寄った場所とされます。京都から大宰府は反対側ですが、琵琶湖を渡ってから日本海に出て船で大宰府に向かうため近江にまずは出たという伝説のようです。

南津田城については詳細不明です。


平 親真/忌部 親真(たいら の ちかざね/ いみべ の ちかざね、生年不詳 - 正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。織田氏・津田氏の祖とされ、織田 親真とも呼ばれる。別諱は親実とも表記される。通称は三郎。官位は権大夫。

経歴

  • 神祇権大祐・斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされる。貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。

平資盛の子とする説

一般に流布している織田氏の系図では、親真を平資盛と資盛の愛妾であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。

寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、神職についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛と号したとされる。

しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長が天下統一した際に、本姓を藤原氏から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものであり、実際には資盛の実子である覚盛と親真とは別人と考えられている。

2011年(平成23年)11月1日、福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、資盛の子だとすると100歳を超えることが明らかとなったため、小和田哲男は平氏に繋がる家系図は書き換えたものとしている。

  • 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見(2011年11月2日・産経新聞)

  • 織田信長に系図書き換え疑惑  平氏の子孫を偽装?(2011年11月2日・読売新聞)

  • 『藩翰譜』
  • 「織田系図」(『続群書類従』巻第142所収)など。
  • 女流歌人の建礼門院右京大夫とは別人
  • 資盛が親真の母への餞別として詠んだという「近江なる津田の入江のみをづくし、見えぬも深きしるしなりける」という和歌が伝わっている(「織田系図」)。

南津田山城・八幡山城遠景

本日歩行距離 8.303歩   1時間33分    歩行距離5.8km 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。