城郭探訪

yamaziro

栗田城 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

岡本商店南側に案内板:最近建った。案内板前に駐車

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町栗田  (旧愛知郡秦荘町栗田)     map:http://yahoo.jp/yRUVOf

現 状:集落

遺跡:堀・土塁・石碑案内板

区分:平城

築城者:栗田六郎

築城期:室町期・文明12年(1480)頃

城 主:栗田六郎・栗田秀元

城 域 :南北約70m×東西約200m

廃城期:永禄11年(1568)栗田秀元の時、織田信長の近江侵攻により敗れ落城した。

目標地:岡本商店

駐車場: 岡本商店・路上駐車

訪城日:2013.8.15

 

お城の概要

 栗田地区の県道沿い東側にある岡本商店の南側に栗田城の城石碑がある。 この城石碑東側の竹薮の囲まれた民家辺りが栗田城主郭であったと推定される。

 民家敷地南側に土塁を思わせるように庭の土盛りがあり、民家の南側の水田が内堀跡、西側の県道が外堀跡とされている。

栗田城は、栗田地区県道221号を西端とし、岡本商店とその東方の藪地、その南側の栗田邸、さらに東側の田畑一帯にあった。規模は南北約70m×東西約200mと推定されている。

一部発掘調査が実施され、県道沿いに土塁と外堀跡が確認されている。栗田邸は城主栗田氏の末裔なのか、玄関前の垣根と築山は土塁跡を利用して造成されているように見える。
藪地内をのぞいて見ると、土塁のような高まりが見えるが関連は判らない。

また栗田邸の南側前面に「内堀」「桝畑」、東方田地に「蓮池」という城に関連すると思われる地名が残っている。

 案内板前に駐車

歴 史

栗田城は、文明12年頃に平居城主小倉氏(平居氏の分流で、元々は荘管であった、一族栗田氏が築城した。

 栗田氏は、城主栗田秀元は一族と共、戦国期に入った文明12年(1480)頃、栗田六郎によって城郭化され、江南守護六角氏に仕えた。永禄11年(1568)栗田秀元の時、織田信長の近江侵攻により敗れ落城した。

その後、永禄年間以後は内藤帯刀なる者が在城したとされる。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!! 

 

島川南城(南殿城) 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

秦荘西小学校のグランドに東角に建つ石碑だが、外側を向いていて助かる

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町島川   (旧愛知郡秦荘町島川) map:http://yahoo.jp/gT1sTZ

別 名:南殿城

現 状:秦荘西小学校

遺 構:石碑

区 分:平城

築城期:室町期・明応5年(1496)

築城者:伊庭貞隆

城 主:矢守壱岐守・喜多川弥介 

城 域 :南城 50m×50m

廃城期:織田信長は近江に進攻した元亀年間(1570~73)頃

目標地:秦荘西小学校

駐車場: 島川神社・路上駐車

訪城日:2014.8.23

 

お城の概要

島川城は、宇曾川と南川の合流点に築かれた城で、100m隔てて南北両城にわかれている。

南城を南殿城、北城を北殿城という。南殿城が平素の居館で、北殿城が戦闘時の城の役割を果たしていたようだ。

現在石碑の建つ小学校付近は南城だが遺構はない。もともと南城は小ぶりな城であったようだ。

島川南城は、秦荘西小学校敷地に築かれていた。 小学校校舎建設の際には発掘調査もされたようだが、現在は城の遺構らしきものは何も残っていない。 

 小学校グランドの北東角に島川城の城石碑が外向きに建てられていた。(道路側からフェンス越しに写真を撮ることになる) この南城と集落の北側にある島川北城が、南北二つの城が並んで存在していた。

 島川北城は、明応5年伊庭貞隆によって築かれた。 その後、矢守壱岐守・喜多川弥介が在城、元亀年間に廃城となった。

歴 史

明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方、政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。このため、近江国内においても六角氏と京極氏の争いが激化した。

明応5年(1496)、六角氏家臣の伊庭城主:武将伊庭貞隆は愛知郡秦荘町島川へ出陣した際に築城した。六角方の諸将を集めて京極氏と戦端を開いた。

元亀年間(1570-73)城主が喜多川彌助のころ、織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。

 

近江愛智郡志には、島川氏。島川氏は出自分明ならず島川村に住し依て氏とす。

文献には南北朝時代より見ゆ。即ち壬生文書康應元年十二月愛智郡主殿寮の領地押立保の年貢米を押領し依て幕府より押領停止の命を受けし島川某あるに見るも当年権勢の一家たるを知る。又應永十七年三月永源寺領八木郷の名代織の請状に嶋川性圓なるものあり共に荘園世話役となりて在すろ見る。

南北朝の戦乱より地方豪族が社寺公卿等荘園の可司や預所となり貢米の横領を敢て爲なしたるを覗ふ可きなり。島川城址の存在する所以ありと謂ふべし。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


島川北城(北殿城) 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

農村公園の東隅に石碑

 

お城のデータ

 

所在地:愛知郡愛荘町島川 (愛知郡秦荘町島川)  map:http://yahoo.jp/3Mcsyn

 

 

別 名:北殿城

 

現 状:竹薮・公園

 

遺 構:土塁・堀跡・船着場・石碑

 

区 分:平城

 

築城者:伊庭貞隆

 

築城期:明応5年(1496)

 

城 主:矢守壱岐守・喜多川弥介 

 

廃城期:織田信長は近江に進攻した元亀年間(1570~73)頃

 

城 域:50m×100m

 

目標地:八木荘保育園

 

駐車場:農村公園の無料駐車場

 

訪城日:2013.8.15

 

 

 

島川北城は。宇曾川とその支流である淵川の合流点に築かれた城で、100mばかり隔てて南北2ヶ所の曲輪より成り立っていたといわれている。
 現在、北城は一部を残して民家が建ち、南城は秦荘町秦荘西小学校となっている。

 

お城の概要

島川城は、宇曾川と南川の合流点に築かれた城で、100m隔てて南北両城にわかれている。南城を南殿城、北城を北殿城という。南殿城が平素の居館で、北殿城が戦闘時の城の役割を果たしていたようだ。

北殿城は南川が宇曾川と合流する地点のやや南に築かれ、南川を天然の濠とし船着場も設けたとされる。

現在島川北城を示すものとして、八木荘保育園の南側にある公園の片隅に石碑が建っている。その公園南の竹薮の中にL字型をした比較的大きな土塁が残存する。竹藪内の土塁は公園側から約5mを数える大きなものである。

往時の南川は公園と保育園の間で屈曲し、さらに保育園西側で北へ屈曲するS字形に流れ、公園南西付近に船着場があった。また藪地の南側民家付近を城屋敷と呼び、城は単郭ではなく集落一帯に広がっていた可能性がある。

  

農村公園内に南西角に

船着場跡

歴 史

 島川北城は、明応5年伊庭貞隆によって築かれた。 その後、矢守壱岐守・喜多川弥介が在城、元亀年間に廃城となった。

  明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方、政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。このため、近江国内においても六角氏と京極氏の争いが激化した。

島川北城は、明応5年(1496)、六角氏家臣の伊庭城主・伊庭出羽守貞隆は愛知郡愛荘町島川へ出陣した際に築城した。六角方は、ここに諸将を集めて京極氏と戦端を開いた。

元亀年間(1570-73)城主が喜多川彌助のころ、織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。

八木荘保育園の向かい

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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市村城 近江国(愛知川)

2013年08月16日 | 平城

竹林に隣接する屋敷地の土塁

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町市 (愛知郡愛知川町市)  map:http://yahoo.jp/4gpOTf

築城期:南北朝期

築城者:市村備後守

城 主:市村備後守

区 分:平城

遺 構:土塁、空濠

目標地:近江鉄道愛知川駅、線路の反対側

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.8.15

お城の概要

市村城は、旧愛知川町のほぼ中央付近「市」の集落ほぼ全域の南北約300m、東西約200mの大規模な城館であったとされる。

地元の人の話では、以前まで市集落北西端の薮の前に城址碑が建ち、土塁と堀の一部が残っていたというが、現在では石碑は消え、土塁と堀はコンクリートで固められてしまっていた。

また南西部の願宗寺北側集落内に非常に薄いが土塁が点在していた。市の集落内にあって、周囲に水路が廻らされた竹藪が市村城。

竹藪の中、および隣接する民家の庭付近まで、高さ1~2mの土塁が約30mの規模で残る。水路によって分断されているが、土塁の形状から推測すると、2つの方形曲輪からなっていたと考えられる。

 なお、南西部の願宗寺付近にも土塁と空堀があり、市村城との関連が考えられているが、その距離は200m近くあり、市村氏四家あり  

歴 史

『近江愛智郡志』によると、市村は愛知川町の大字となる古来市場たりしより、村名出づ。

市村備後守は南北朝時代より有勢の武将子孫世襲して此地に住し足利時代には、東中西の三家あり、在館の跡は竹林となり猶堀土手の一部を在す。それより磯部へ通す道、備後道・・・。

「佐々木南北諸士帳」に市むら 住 佐々木随兵 青木籐九朗 同 二郎・三郎と記す。

        竹林の中の土塁 

滋賀県中世城郭分布図 5 市村城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江愛知郡誌、淡海の城、佐々木南北諸士帳

           本日も訪問、ありがとうございました!!。