南北朝時代頃から佐々木六角氏の家臣、蒲生氏が日野の地主豪族として頭角を現してきますが、永禄11年(1556)の織田信長上洛の際には、蒲生賢秀はいち早く織田方につき、12才になる嫡男の鶴千代(氏郷)を岐阜に人質として送ります。
蒲生賢秀の嫡男の鶴千代(氏郷)が生まれた中野城(日野城)
鶴千代は信長に大層かわいがられ、元服後は信長の娘、冬姫と結婚します。
おそらく鶴千代は経済政策の数々を信長時代に学んだのではないでしょうか。
信長亡き後、鶴千代改め蒲生氏郷は、伊勢松阪・会津若松と領地替えされますが、その都度、日野から商人を引き連れて行きます。「人・物・銭」を
集める商業は、城下町作りには無くてはならないものです。このことは恐らく、信長が岐阜や安土で築いた城下町作りを参考にしていると思います。
さて、近江出身の商人を一般に「近江商人」と言い、近江八幡・五個荘・日野が有名です。その特徴の一つは「他国商い」というものでした。他国商いとは家族を近江に置いたまま、一家の主が単身で他国に赴き、稼業に精励することです。ところが、同じ近江商人でも、「八幡の大店、日野の千両店」という言い伝えがあるように、八幡と日野では経営手法に違いがあったようです。これは次のようなことを意味しています。近江八幡出身の八幡商人は、大きな店を町の一等地に持つことを目的としますが、日野の商人は、千両貯まれば当初の行商から各地に拠点を置いて出店を設け、そこが軌道に乗れば、また枝店を持つというように、近江日野の本宅を核にして、親族縁者が分家や別家をして商家経営を展開してきたというのです。この枝店経営は、今のチェーン店
の原点ともいえるものです。
氏郷が、伊勢松阪・会津若松と移っていくことが、逆に日野商人にとっては、販路を拡大することになったのです。(仲川)
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