城郭探訪

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蒲生氏郷と日野 シリーズ「淡海の城」より転載

2013年08月09日 | 武将


 南北朝時代頃から佐々木六角氏の家臣、蒲生氏が日野の地主豪族として頭角を現してきますが、永禄11年(1556)の織田信長上洛の際には、蒲生賢秀はいち早く織田方につき、12才になる嫡男の鶴千代(氏郷)を岐阜に人質として送ります。

蒲生賢秀の嫡男の鶴千代(氏郷)が生まれた中野城(日野城)

鶴千代は信長に大層かわいがられ、元服後は信長の娘、冬姫と結婚します。


おそらく鶴千代は経済政策の数々を信長時代に学んだのではないでしょうか。

信長亡き後、鶴千代改め蒲生氏郷は、伊勢松阪・会津若松と領地替えされますが、その都度、日野から商人を引き連れて行きます。「人・物・銭」を
集める商業は、城下町作りには無くてはならないものです。このことは恐らく、信長が岐阜や安土で築いた城下町作りを参考にしていると思います。

 さて、近江出身の商人を一般に「近江商人」と言い、近江八幡・五個荘・日野が有名です。その特徴の一つは「他国商い」というものでした。他国商いとは家族を近江に置いたまま、一家の主が単身で他国に赴き、稼業に精励することです。ところが、同じ近江商人でも、「八幡の大店、日野の千両店」という言い伝えがあるように、八幡と日野では経営手法に違いがあったようです。これは次のようなことを意味しています。近江八幡出身の八幡商人は、大きな店を町の一等地に持つことを目的としますが、日野の商人は、千両貯まれば当初の行商から各地に拠点を置いて出店を設け、そこが軌道に乗れば、また枝店を持つというように、近江日野の本宅を核にして、親族縁者が分家や別家をして商家経営を展開してきたというのです。この枝店経営は、今のチェーン店
の原点ともいえるものです。


 氏郷が、伊勢松阪・会津若松と移っていくことが、逆に日野商人にとっては、販路を拡大することになったのです。(仲川)

 

 

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岩神館(いわがみやかた) 近江国(朽木)

2013年08月09日 | 館跡

足利将軍逃亡の地


お城のデータ

所在地::高島市朽木岩瀬  (旧:高島郡朽木村岩瀬) map:http://yahoo.jp/RNOOAD

別 名:秀隣寺庭園

現 状:寺院

遺 構:土塁・堀・庭園・説明板

区 分:丘城

築城期:室町期

築城者:朽木氏

城 主:

標 高:215m   比高差:10m 

目標地:興聖寺

駐車場:興聖寺参拝者駐車場

訪城日:2013.8.24

お城の概要

 岩神館遺跡は、現在の興聖寺境内一帯に位置し、境内の中には名勝旧秀隣寺庭園があります。現存する遺構としては庭園の他に、境内南西部に位置する墓地の西側に土塁と空堀があるほか、土塁や虎口の痕跡が境内の北側に見られます。

岩神館(いわがみやかた)(滋賀県高島市朽木岩瀬)

 朽木は近江の西部に位置し、福井県・京都府に接する山深い集落です。集落内を京都から若狭へと抜ける若狭街道(朽木街道・鯖街道)が通ります。鎌倉時代以降、明治維新にいたるまでこの地を支配したのは、近江源氏佐々木氏の一族である朽木氏です。朽木氏は、近江守護六角氏や江北の実力者浅井氏とは一定度の距離を保って自立した存在でした。それは山間の地という朽木の地理的特性とともに、朽木氏が幕府との間に直接的な関係を取り結んでいたことによります。

 

歴 史

 室町幕府第12代将軍足利義晴は享禄元年(1528)、対立する足利義維・細川晴元に逐われ、近江坂本から朽木へと逃れてきました。この時、義晴が滞在したのがここ岩神館です。義晴は享禄4年(1531)までの2年半を朽木で過ごすことになりますが、その際、公家衆や側近を多く伴っており、その様子は朽木幕府といっても過言ではありません。
 足利義晴につづいて13代将軍義輝もまた朽木にやってきます。天文20年(1551)、三好長慶との不和により近江に逃れてきたのです。その後義輝は上洛を果たしますが、天文22年(1553)8月、霊山城での三好長慶との戦いに敗れ、ふたたび朽木に落ちのびます。この時は永禄元年(1558)3月まで朽木に滞在しました。

 名勝旧秀隣寺庭園は、岩神館とともに、将軍を迎える施設としてつくられたとされています。庭園は館の東側、安曇川の河岸段丘に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見下ろすことができます。池と大小の石が組み合わされ、複雑な汀線を持つ池泉観賞式庭園で、作庭者は将軍義晴とともに朽木にやってきた細川高国ではないかといわれています。秀隣寺は豊臣秀吉の側室松の丸殿の妹で、朽木宣綱の妻(洗礼名マグダレナ)の菩提寺として慶長11年(1606)に建てられましたが、江戸期に火災にあって建物は全焼し、現在は朽木野尻に再建されています。

朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。

領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れています。

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

 マグダレナ墓(興聖寺)朽木宣綱の妻は京極高吉の娘のマグダレナ(洗礼名)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、

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姉川合戦と城郭~  シリーズ「淡海の城」より転載

2013年08月09日 | 平城

淡海の城(おうみのしろ)  第34号   平成25年(2013)8月9日発行


姉川合戦と城郭~連続講座第2回に向けて
姉川合戦は、元亀元年(1570)に長浜平野を東西に流れる姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍織田・徳川連合軍との間で行われた著名な合戦で、戦いが行われた地名から三田村合戦や野村合戦とも呼ばれました。その内容は、姉川の南側に進出した織田・徳川軍に応じて浅井・朝倉軍が姉川を渡河して攻め寄せるという構図で行われた野戦ですが、そのきっかけは織田軍による浅井氏に対する「城攻め」にありました。
朝倉攻めを敢行する織田信長を、その勢力から離反し窮地に落としいれた浅井長政は信長から報復の攻撃を受けることになります。織田軍の攻撃に対して、長政は居城小谷城とその周囲の丘陵に構築された城砦での籠城策で対抗します。

信長は虎御前山など小谷城周辺に陣地を設けて対峙します。最初は本拠地小谷城へ攻勢をしかけられ、小谷山麓の町への放火や足軽部隊による交戦が発生しました。しかし、山上に構築された城砦に立て籠もった浅井軍主力に決定的な損害はなかったようで、信長には容易に攻め落とせないと思わせ
たのです。

 次に、信長は周囲の城館に立て籠もる国人の軍勢に対し攻勢をしかけていく作戦に変更し、小谷城の東南に位置する横山城を攻囲します。その動きに応じ、朝倉氏の援軍も得た浅井氏側は長政自ら軍勢を率い小谷城から出陣します。その結果、両軍の主力による交戦へと至ったのです。

 この姉川合戦には浅井氏に従った多くの国人が関わりました。長浜平野には浅井氏の勢力下にあった国人の城館とされる遺構がいくつか残されています。このうち、姉川古戦場に近い三田町に残る三田村氏館は、朝倉軍が陣を敷いたという伝承があります。

 このように、姉川周辺の城館遺跡は歴史上の大きな事象の舞台となった重要な「文化財」と言えるのです。平成25年度第2回目の連続講座では、このような視点を踏まえて詳しくお話したいと思います。(上垣)

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


阿弥陀堂城 近江国(能登川)

2013年08月09日 | 平城

 

小字西出の光照寺付近が阿弥陀堂城跡としている。

『大洞弁天当国古城主名札』には、阿弥陀村城主とそて妙貫院の名が記され、地元では小字東出南の一角が竹中妙観院の数代が居住した跡とされているが、西出の光照寺付近が城あとであったとも。

所在地:東近江市阿弥陀堂 (急能登川町阿陀堂)http://yahoo.jp/3FwF4c

詳細:不明

 

光照寺西側の堀?(水路)

光照寺光照寺裏の堀?(水路)

所在地::東近江市阿弥陀堂町     (旧神崎郡能登川町阿弥陀堂)

形式:平城

築城者:妙貫院

遺構:堀跡(水路)

訪城日:2015.8.8

 
 

光照寺東の建物

来正寺

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種村城 近江国(能登川)

2013年08月09日 | 平城

種村城跡に建てられた石碑

種村城は大同川にかかる木代保橋の北東、現在は田圃となっている一帯とされ、橋の横には城址を示す石碑が建てられている。

 大同川を堀として利用するような形で築城されており、この地域には垣見城や伊庭城・小川城など、川を堀として利用している城郭がいくつもあり、地域の特徴が出ており興味深い。

 木代保橋から東へ40mほどにある細い道が当時の城門跡だといい、この周辺には「大開き」,「小開き」といった小字名が残っている。(地元にお住まいの種村氏末裔の方から情報を頂きました)

種村城の前を流れる大同川(堀)

六角政頼の次男、伊豆守高成がこの地を領して種村氏を称し、種村城を築いた。

所在地:東近江市種町 (旧能登川町種)

築城期:室町

初代城主:種村伊豆守高成

区分:平城

遺構:堀・石碑

 

 
 
 
 
 
種村城                                                                          石垣・堀→
 造られたとき:1350年代「室町時代初期」
 造られた場所:種の小字藪下「このため藪下城とも呼ばれていた」
  当時の様子
 鉄砲もなく弓矢とやりや刀での戦で、よろいや甲は全て鉄板で作られていたから身軽には活動することもできなかった。だから、鉄砲が使われ、鎖や皮で作られたよろいを着けた時代、お城である彦根城や長浜城のような物ではありませんでした。
  種村城の城主
 種村城の城主は佐々木家から種村姓を名乗りました。種村城はわずか三代で終わっていますが、その子孫はその後もその土地で生活をしてきました。
 
 お城の門は東に向いていて、その前は、今も「大開」と呼ばれ、その横側の小門の方角は「小開き」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。

 

城門があったとされる通路城門があったとされる通路

種村城は、1350年代に種の小字藪下に、造られました。(そのため藪下城とも言われました)このころは、鉄砲もなく弓矢とやり、刀での戦で、鎧や甲はすべて鉄板でできていたので、身軽には動けませんでした。

 幅1m80cmほど・深さ60cmぐらいの堀に囲まれた、普通の家よりも少し大きめの建物だったそうです。お城の門は東に向いています。そのまえは、今も「大開」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
 
 種村城の城主は、佐々木家から種村の地に分家して、種村姓を名乗りました。木代保の家には、佐々木家の紋章があります。これらは、神崎郡史稿などにも記載されています。近くを流れる大同川の横の草道には、石碑があります。 
 
 1350年代は、室町時代の前期です。 

和田山城の西

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