銅剣鋳型:滋賀で出土 国内例なく、中国式に類似
毎日新聞 2013年08月08日 21時17分(最終更新 08月09日 23時39分)
鋳型は、これまでに国内で見つかっている弥生時代の銅剣とは違い、剣身から柄頭までを一体で鋳造する方式だ。小田木治太郎・天理大准教授(中国考古学)は「作り方は当時の日本の常識外。国内で生み出された可能性は考えにくく、弥生人がオルドス式をヒントにしたのではないか」とみる。一方で柄には、銅鐸などの国産品にもよくみられる「鋸歯文」(のこぎりの歯が重なった文様)が細い線で丁寧に刻まれた。大陸の技法で製造し、弥生人が慣れ親しんだ文様で装飾したハイブリッド短剣だ。
鋳型の彫り込みから完成品を推定すると、剣身は厚さ2〜3ミリとぺらぺら。しかも、中央と端の刃の部分の厚さに違いがない。柄頭の双環だけは5ミリと分厚く、アンバランスだ。
宮本一夫・九州大教授(東アジア考古学)は「双環の部分は竹の管のようなものを回転させて彫っている。縄文時代から耳飾りを作る技法だ。青銅器生産が始まったころ、他地域にないものを作ろうとしたのではないか」と話している。【花澤茂人、矢追健介】
◇解説 朝鮮半島にもないタイプ
琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。
日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。
いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。
これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していたと考えられる。
今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。
朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、7〜10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。【専門編集委員・佐々木泰造】
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