城郭探訪

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探訪【大地の遺産】天智天皇の足跡を訪ねて 2013.11.02

2013年11月03日 | 探訪「大地の遺産」

 近江大津宮(667~671年)は天智天皇の宮処(みやこ)です。『日本書紀』によれば、天智天皇はこの宮で即位し、冠位制度の整備や全国的戸籍の編成、 水時計の設置など、革新的な政策をつぎつぎと打ち出しました。友好関係にあった百済を支援するため朝鮮半島に出兵し、唐・新羅と戦って敗北した国家存亡の危機のなかで、ここ大津を舞台として新しい国づくりに着手したのです。

今回の探訪では、大津市埋蔵文化財調査センターでの講演後、同センター職員や県の文化財専門職員の同行案内のもと、天智天皇ゆかりの地周辺の文化財を詳しく訪ねます。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。

日時 平成25年11月2日(土曜日)11時00分 ~ 16時30分頃

2.主催 滋賀県教育委員会・大津市埋蔵文化財調査センター

【集合・受付】大津市埋蔵文化財調査センター11時00分 までに集合

【行程】

大津市埋蔵文化財調査センター(講座、昼食) → 志賀の大仏→ 崇福寺跡→ 南滋賀町廃寺→ 近江神宮→ 皇子山古墳群(大津宮跡一帯の眺望) → 近江大津宮錦織遺跡 

15.チラシ(PDF:474KB)

講座

現地探訪

 

石造阿弥陀如来坐像
(志賀の大仏(おおぼとけ))

 

滋賀里は「大津の宮跡」推定地とされ、京都への旧山中越えの街道がありました。山中越えで京都へ向かう旅人の安全を願ったといわれています。3mを越える阿弥陀像ですが、威圧感はなくゆったりとした雰囲気が漂う石仏です。鎌倉時代の作と考えられます。

林道脇の削岩ドリル跡

 

崇福寺跡

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

崇福寺跡(すうふくじあと)は、滋賀県大津市にある飛鳥時代後期から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡。

崇福寺は、668年に天智天皇の勅願により近江大津宮の北西の山中に建立され(『扶桑略記』ほか)延暦年間に十大寺に選ばれるなど栄えたが、たびたび火災にみまわれるなど衰退し、一時園城寺に付嘱したものの山門寺門の抗争に巻き込まれるなどし、室町時代には廃寺となった。寺跡は1928年(昭和3年)からの発掘によって確認。現在の跡は梵釈寺(桓武天皇が天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。国の史跡と歴史的風土特別保存地区に指定されている。

位置

 比叡山南麓、大津市滋賀里の3つの尾根上に位置する。 「日本後紀」に嵯峨天皇が、平安京から山中越をして崇福寺に立寄り、近くの梵釈寺に寄って湖上唐崎あたりを遊覧したとあり、このあたりと推定されていた。

 

 

遺跡

 

史跡崇福寺跡は、3つの尾根に主要建物跡が存在するが、北尾根の金堂(弥勒堂)、講堂、中尾根の小金堂、三重塔が崇福寺の遺跡であり、南尾根の建物跡は、梵釈寺の遺跡であると考えられている。1938年(昭和13年)の調査において、三重塔跡の塔心礎に穿たれた小孔から納置品が発見された。納置品のうち、仏舎利を納める舎利容器は、四方に格狭間のある台を付けた金銅製の外箱、銀製の中箱、金製の内箱の三重の箱に納められていた。金製内箱の内側には瑠璃壺を安置するための受花があり、その上に金の蓋をした高さ3.0cm、口径1.7cmの球形の瑠璃壺と三粒の舎利が納められていた。その周囲からは、瑠璃玉・硬玉丸玉・金銅背鉄鏡・無文銀銭・水晶粒・銅鈴・金箔木片などが伴出している。これらの出土品は、奈良時代の舎利の奉安状態が知られる貴重な遺品であり「崇福寺塔心礎納置品」として一括して国宝に指定されている。(近江神宮所蔵。京都国立博物館に寄託)。 現在、南尾根(梵釈寺跡)の金堂跡に「崇福寺跡」の石碑が建っている。

 

壺笠山城が真ん中の遠望

百穴古墳群

(大津市滋賀里町甲)

  百穴古墳群は今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。 石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。 表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。 この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
  石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。 石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、北石の棺桶に入れられました。 また、石室内には、多くの土器(土師器、須恵器)もいっしょにおさめられました。 この仲には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれています。
  古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。 現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
  昭和十六年(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。

大津市教育委員会

 

公園内に残る塔の心礎

南志賀の地は、昔から古瓦が出土することが知られていた。

 

昭和三年と昭和十三年から十五年にかけての二度の発掘調査によって、塔、金堂、僧坊跡などが見つかり、この地に寺院が存在していたことが明らかにされた。また、その後の調査で、この寺院跡の伽藍配置は、塔と西金堂が東西に対置し、これらをとりまいて回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかった。このうち、塔、西金堂、金堂の基壇は瓦積みで仕上げられていた。

 

この寺院は、天智天皇建立の崇福寺とも、桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていたが、『扶桑略記』に、崇福寺が大津宮の戌亥(北西)の方向に建てられたという記事があり、この南志賀の地の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見されていることから、そこが崇福寺跡として妥当性が高く、また、『日本後紀』には、崇福寺と梵釈寺が近接した位置にあったことが見られることから、この南志賀に位置する寺院跡は、逸名の寺院、南滋賀町廃寺ということになっている。調査の際には多数の瓦や土器が出土しており、その中にはこの地でしか見られない蓮華を横から見た文様で飾られた方形軒瓦もある。これらの遺物等から、白鳳時代から平安時代末頃までこの寺院が存在していたことが明らかになった。この廃寺跡から約300m西の地点で、この寺で使用した瓦を焼いた瓦窯群(榿木原遺跡)が見つかっており、瓦を手がかりに生産、需要、供給といった流通関係が明らかにされている。

 

宇佐山城遠望(右が二ノ丸)

本殿の上にNHKのアンテナ塔(この床下に宇佐山城主郭の石垣が?)

黒川村460km黒川村と天智天皇

不老長寿伝説~天智天皇のむべなるかな~
 蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。
それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです

 

近江神宮楼門(境内から)

皇子山古墳

大津宮錦織遺跡

大津京シンボル緑地

近江神宮表参道(11月3日古式流鏑馬の準備完了)

 

本日も訪問、ありがとうございました。


織田淡水の墓(陽泉院境内)

2013年11月03日 | 遺蹟

日本史上の有名人10名を挙げなさいと問われて、織田信長を選ばない人はまずいないと思います。ここ滋賀県には、安土城をはじめ信長に係わるものは数多くあります。ところが、その子孫となるとどうでしょう。ほとんどの人がその名前すら知らないでしょう。今回紹介するのは、信長のひ孫にあたる人物にまつわるものです。
 信長の七男に信高という人物がいましたが、その子高重の時に旗本寄合となり、近江国神崎郡に約2千石を与えられました。その場所は現在の東近江市神田町・野村町・外町にあたります。

高重を継いだのは一之です。一之は淡水と号し、元禄8年(1695)6月12日に亡くなっていますが、その墓が東近江市野村町の陽泉院境内にあります。墓はもともと境内にあったものではなく、八風街道に近い林の中にあったものが、数度の移転を経て陽泉院に置かれるようになったとのことです。墓石の表面には「織田淡水府君墓」と刻まれ、側面や背面には一之の事蹟などが述べられています。

織田淡水墓石(正面)

織田淡水墓石(正面)

織田淡水墓石(側面)

織田淡水墓石(側面)

 

織田淡水墓石(背面)

織田淡水墓石(背面)




 実をいうと、一之の本当の墓は東京深川の要津寺にあるそうです。考えてみれば、一之はここに知行を持つとはいえ旗本だったので、江戸に暮らし、墓も江戸にあるのが当然でしょう。しかも、信高流家系の当主のうちどうして一之の墓のみがここに建立されたのでしょうか。まだまだわからないことが多い墓です。「歴代当主の中でも、特に知行地である野村町一帯と縁が深く、供養碑として建立されたのではなかろうか・・・」などと、想像をふくらませてこの墓に参ってみてください。
 現在フィギアスケートの選手で、織田信長の子孫として知られている織田信成さん、この信高流家系の末裔です。

 

おすすめPoit

鳩塚

鳩塚

 陽泉院境内には、織田淡水の墓とともに「鳩塚」なるものがあります。これは、旧陸軍によって飼育されていた伝書鳩の墓のようです。軍隊によって用いられていた伝書鳩のことを「軍鳩(ぐんきゅう)」とも言い、日本には明治年間に入ってきたそうです。野村町に隣接する沖野には、かつて旧陸軍の飛行場があったことから、その関係で陽泉院境内に「鳩塚」が建立されたのでしょうか。この「鳩塚」ですが、わかりにくい場所にあります。境内は広くないので、じっくり探してみてください。なお、彦根市にある護国神社の境内には、軍によって使われた馬や犬・鳩のための慰霊碑が昭和60年(1985)に建てられています。

 

 

本日も訪問、ありがとうございます。


黒川村と天智天皇

2013年11月03日 | 遺蹟

~燃える水発祥の地、日本最古の油田~

胎内パークホテル

胎内パークホテル
豊かな自然が地域の産業と結びついてる胎内パークホテル

 新潟県はわが国において最も歴史のある石油産出地域です

日本書紀」によれば、天智天皇の7年(668)に、「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されています。これは燃える水すなわち臭水(くそうず)と呼ばれていた原油を天皇に献上したことを記したものです。この燃える水こそ、黒川村の地から採取されたものであるといわれています。

 現在でも黒川村下館の塩谷地内には油坪が多く残っていますが、このように早い時代に発見され献上されたのは含油層が浅くて、自然に原油が湧き出る状態になっており、人目につきやすかったからでした。


 燃える水の発見という珍しい出来事でしたが、都から遠く隔たった北陸の一地方でのこと。通信手段もない古代においてはなかなか都までは伝わりにくいはずなのですが、燃える水が献上される20年前の大化4年(648)には越の国に磐舟柵がつくられ、都との往来も頻繁にあって、この珍しい燃える水のことは早くから知られていました。

 


「水が燃えるなどということは、一体有り得ることなのだろうか」
おそらく当時の都ではこんな思いを抱いて不思議がったのではないでしょうか。黒川の燃える水を見たい。それで天智天皇の即位に合わせて献上されたということなのでしょう。

 時代は下って江戸時代、「北越雪譜」で知られる鈴木牧之も、その著述の中で石油のことを臭水とよび、越後七不思議の一つとして紹介しています。
 黒川村の地名は、古くから黒い原油が流れていたことから黒川という地名がつき、中世においてこの地域を支配していた和田氏も、黒々とした燃える水が流れる川から姓を改めて黒川にしたと伝えられています。


 この燃える水にちなんだ儀式も、滋賀県の近江神宮と黒川村で毎年行われています。天智天皇を祀る近江神宮では、「日本書記」に記されている燃える水の献上地は黒川村であるとして、毎年7月7日に燃水祭を行っています。また、黒川村でも献上の故事にならって7月1日に燃水祭を催し、日本で最古といわれる油坪から採取した臭水を近江神宮に献上しています。  

この臭水を採取した油坪は国の史跡に指定されて、その場所である公園の名をシンクルトン記念公園と名づけています。この名は明治6年(1873)に黒川村に来て、原油の採掘技術を指導したイギリス人医師の名をとったものです。

 

 

本日も訪問、ありがとうございました。

http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/culture2.html