城郭探訪

yamaziro

田上城(里城) 近江国(大津)

2013年11月21日 | 平城

城郭の概要

別 名 :里城

所在地:大津市田上里町 マップ:http://yahoo.jp/cOzpab

築 城 :天正年間(1573~1592)か

初城主:多羅尾光俊

区 分 :平城

遺 構 :曲輪・石垣

訪城日:2013.11.19

小学校正門前の削平地の石垣小学校正門前の削平地の石垣

田上山から、琵琶湖に向かって延びる丘陵地の先端に位置する、大津市立田上小学校の敷地一帯が田上城である。

 前面(北)は瀬田川沿って広がる平地を見下ろす高台に築城されているが、北~東にかけては宅地化がすすみ、遺構は消滅し、どこまでが城域なのか定かではない。

 一方、西から南にかけては自然地形がわずかに残されており、田上小学校の玄関前の斜面の竹藪には2段の削平地が残り、下段の削平地切岸には長さ20mにわたって石垣がある。果たして当時のものか・・・。
また、西斜面には堀状、あるいは虎口状の遺構らしきものもあるが、確信をもつに至らず

また昭和五十七年、東急不動産の宅地造成工事にともなう大津市教育委員会の発掘調査が、城跡に隣接する字池ヶ谷で実施された。この調査で、人工的な平坦面やピット(穴)の列が発見され、城に関連する施設の一部かとも考えられている。

田上城遠望

田上城跡(現田上 小学校) 小学校の敷地のことを地元では「テンシ」と呼ばれていた。

歴 史

享保十九年(1734)の「近江輿地志略」には、里村(田上里村)に「古城跡」が今も残り、これは「多羅尾道可(道賀)」の城であると記されている。多羅尾氏は、その家譜等によると、近衛家の流れをくみ、甲賀郡の多羅尾(信楽町)を本拠地としていた。多羅尾道賀は、実名を光俊といい、甲賀郡信楽の小川に住んでいた。 
当初は六角氏に属していたが、天正年間(1573~92)織田信長に仕え、同九年、信長の伊賀攻めには、堀秀政とともに従軍した。
そして天正十年、信長が京都本能寺で明智光秀に討たれるや、その翌年には、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、秀吉の配下の武将浅野長吉(長政)の与力となっている。
田上城の位置は、同町の市立田上小学校敷地内の一帯と伝えられている。(『近江栗田郡志』)同地は、全体が小高い丘陵地になっておりその丘陵の西方は、「城の下」、南方は「堀切」という城に関係するかと考えられる小字名が残っている。地元では、この田上城を多羅尾城とも呼んでいるが、丘陵上の小学校の敷地を、かつては「テンシ」と通称していたようで、これは天城の転訛といわれている。

 田上城は甲賀郡の甲賀五十三家の一家である多羅尾氏がこの地に城を築いたのもで、このあたりは近江国から伊勢・伊賀両国、および大和国に至る信楽街道の要所にあたるためとされている。

 この地は多羅尾の居城・多羅尾屋敷(甲賀市信楽町多羅尾)から約20kmの距離にあり、多羅尾氏が相当な勢力をもっていたことが窺える。

里公民館に駐車可。 

 

 

 


大石久右衛門良信館(大石東館) 近江国(大津)

2013年11月21日 | 居城

別  名 : 大石東館

所在地 : 大津市大石東一丁目 マップ:http://yahoo.jp/sXHXjP

形  式 : 居館

遺  構 : 削平地、井戸、石積み、

目標地:大石 浄土寺

駐車場:浄土寺の参拝者駐車場

 訪城日:2013.11.19

「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑

お城の概要

浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っている。さらに石段を登り切ると大石家祖先の墓が4基並んでいる。この右手奥上方に大石久右衛門良信邸址の石碑が建つ広い削平地がある。この削平地の一段下には帯郭が設けられている。なお、右手背後の山林の中には井戸跡も確認できる。

なお、浄土寺は大石氏の菩提寺で、大石家先祖の墓や本堂には大石家持念仏と伝わる千手観音坐像や良信の室をはじめ赤穂四十七士の位牌が安置されている。

井戸画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然大石久右衛門良信邸址画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然

お城の歴史

大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。応仁の乱(1467~77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。

天文、永禄の頃(1532~69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続したようである。ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。

朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。弟の大石久右衛門良信は八幡山城城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である。

お城の概要

浄土寺の墓地を抜けて石段を上がると大石氏の館跡を示す「内蔵助祖先館並大石家菩提寺旧跡」の石碑が建っている。さらに石段を登り切ると大石家祖先の墓が4基並んでいる。この右手奥上方に大石久右衛門良信邸址の石碑が建つ広い削平地がある。この削平地の一段下には帯郭が設けられている。なお、右手背後の山林の中には井戸跡も確認できる。

なお、浄土寺は大石氏の菩提寺で、大石家先祖の墓や本堂には大石家持念仏と伝わる千手観音坐像や良信の室をはじめ赤穂四十七士の位牌が安置されている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

 本日の訪問ありがとうございす。

 

 


大石城(大石次邸) 近江国(大津) 

2013年11月21日 | 居城

お城のデータ

所在地 : 大津市大石中7丁目、大石龍門2丁目 マップhttp://yahoo.jp/nZKOgL

形  式 : 平山城

遺  構 : 土塁、堀、堀切、石碑

城日 : 2013.11.19

大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。

また、細い道の西側にも土塁と堀の残片が残されているが、縄張りを想定することは難しい状況である。西の郭入り口

お城の歴史

大石城は、嫡流が絶えたのち本家となった中家の居館跡。
大石氏は、平安時代前期の鎮守府将軍の藤原秀郷の末裔と云われ、もと小山氏と云ったが栗太郡大石庄の下司職となり、大石氏を称した。
応仁の乱(1467~77)によって一族が討死し、家名が絶えようとしたが、遠縁の小山朝重が大石豊後守良人と改名して跡を継いだ。

天文、永禄の頃(1532~69)一族は数家の分家を出し繁栄し、大石党と称していたが、織田信長の近江侵攻で嫡流は領地を没収され絶え、かろうじて中家(中村)、西家(淀村)、新家(竜門村)の三家が存続し、中家が本家となったようである。ところで、「大石小山系譜」に大石家新祖は、在地の大石弾正衛門朝良とあるようだが、どこの家に属していたか不明とされる。朝良には二子がいて兄の大石平左衛門良定は朝鮮出兵に従軍し功をあげたのち大石村に帰住。

 弟の大石久右衛門良信は

八幡山城主豊臣秀次に仕え、次男大石内蔵助良勝は慶長9年(1604)下野国浅野采女正長重に出仕し小姓役をつとめ、そして元和元年(1615)の大坂の陣で活躍したのち、家老職につき1500石の封禄を得た。

良勝の兄大石茂衛門良照が本貫地の大石家本家を守ったと云われている。
なお、良勝の曾孫が赤穂浪士で有名な大石内蔵助良雄である
西土塁上の城址碑

 東郭入り口

東郭「主郭」の遠望・・・茶畑より

西の郭遠景

駐車スペース2台

道案内

瀬田川を渡り直ぐの大石東六丁目交差点を右折する。県道783号線に入り、南に道なりに770m程行った大石中町南交差点で「大津クリーンセンター方面」左折する。東に60mで右折し団地内に入り、道なりに100m進み道路が狭くなる所で駐車し、細い道を30m入り左手奥50m程の所が城跡である。茶畑の北隣りに位置する。

本日の訪問ありがとうございす。