城郭探訪

yamaziro

関津城(宇野城) 近江国(大津)

2013年11月20日 | 平城

 発掘調査で全容が明らかとなった中世館城、関津城。

承久の乱の際、戦功のあった宇野源太郎守治が恩賞として鎌倉幕府から与えられたと伝わっており、城郭の遺構としては曽根池に入る谷の南北の尾根上に約10ヶ所の曲輪と空堀・土塁を残し、特に最大の曲輪は30×26メートルの規模を持っています。

虎口付近は複雑な構造も見受けられ戦国末期の縄張りの改修もなされていたようです。(現地説明会資料より)

関津1関津城遺跡を上空から見る

城郭の概要 

所在地 : 大津市関津三丁目 マップhttp://yahoo.jp/ZoflXW

形  式 : 山城(標高110m)

遺  構 : 土塁、堀、竪堀、堀切、虎口、

訪城日 : 2013.11.19

真ん中を国道422号大石東バイパス道路改築工事中!

北側郭跡

残された西側の郭・土塁・堀

 

 

(北裾の郭) 関津1発掘調査中、関津城遺跡を上空から見る

歴   史

承久の乱の際、戦功のあった宇野源太郎守治が恩賞として鎌倉幕府から与えられたと伝わっており、城郭の遺構としては曽根池に入る谷の南北の尾根上に約10ヶ所の曲輪と空堀・土塁を残し、特に最大の曲輪は30×26メートルの規模を持っています。虎口付近は複雑な構造も見受けられ戦国末期の縄張りの改修もなされていたようです。(現地説明会資料より)

関津城城主とされる宇野氏は、佐々木六角氏の旗頭青地氏の家臣であり、承久3年(1221)の承久の乱の際に清和源氏の流れをくむと云う宇野源太郎守治が戦功をたて、恩賞として鎌倉幕府から関津城を賜り、子孫が代々関津城城主を務めている。しかし、いつ築城され、いつ頃まで存続したのかなど、詳細は不明である。
なお、大石龍門の八幡神社には、天文9年(1540)の棟札に「田上関津宇野美濃入道」の名が伝わっている。また、関津の称名寺には、宇野氏の墓と伝えられる五輪塔が残されている。 

 (西裾郭の土塁) →

関津城は、穏やかな流れの瀬田川が急流となって山城国に流れ降る境目の丘陵端に位置する山城で、近江の南の玄関口である瀬田川や関津峠を眼下に見下ろしている。

縄張りは、太神(田上)山山系から北に派生する、地元で「源太郎山」と呼ばれる低丘陵の先端頂部に築かれた方形の土塁と堀に囲繞された主郭を中心に、その北裾と西裾に土塁で囲まれた屋敷地が配され、複雑な構造の虎口を伴っている。さらに西側切岸の中段には土蔵建物が建っていた。

しかし、裾部の防備に比べ背後の尾根続きは主郭に土塁と空堀を設けただけで、尾根の断ち切りが行われておらず、領地・領民に領主権力を誇示する性格の強い城郭でないかと推測されている。

西側の一部

関津自治会館から工事中道路を通り城跡まで行った、道路完成後も北裾の郭が1/3、西裾の郭が2/3程は残る。

南の郭・土塁・堀の遠景

なお、関津城は、滋賀県が施工する国道422号大石東バイパス道路改築工事により城域の大半が消失する運命にある。平成21年8月から平成23年3月までの間に消失範囲約4,700 ㎡の発掘調査が行われ、城郭の空間利用として「戦闘の空間(櫓台・切岸・虎口)」、「褻[ケ]=日常の空間(今回見つかった礎石建物群、井戸)」、「晴[ハレ]の空間(威信、饗応財を用いた空間で未調査部分に想定)」の使い分けがなされていたことが明らかになったとしており、また、城郭内の空間利用や建物の用途を遺構(礎石建物や井戸)と出土遺物の両面から復元できる事例はほとんどなく、この点においても貴重な調査であったと解説される。消失の運命は、いかにも残念でならない。

発掘後風景 (現地説明会の掲示写真)


発掘後風景 (現地説明会の掲示写真より)

 (右下写真は西裾の郭、水路奥の穴は排水口)  →

上の写真は北裾の郭虎口、門の礎石

砕石・ノミ跡(石工の仕事) 

2013年11月20日 | 番外編

(石工の仕事http://www.ishikumi.com/about.html)

 

 

八幡山城へのハイキングコースにノミの跡が

 

三井寺(園城寺) 滋賀県大津市

ノミ跡削岩の跡

 

 

観音寺城祉の伝池田丸の大石垣の【石工の仕事】

伝池田丸下の大石垣の【ノミ】の跡が、石工の砕石の石積みが・・・!

砕石ノミ跡が、はっきりと

希望ヶ丘の古城山に

ノミの跡が上4つ、下に1つははっきりと
 
愛奏町蚊野 軽野神社の敷き石に
ノミの跡
 中山越えの林道脇の削岩ドリル跡
 滋賀里 中山越えの林道脇の削岩ドリル跡
 
 今日の訪問、ありがとうございました。

建部氏館(松尾神社庭園)・東近江市八日市松尾町

2013年11月20日 | 館跡

~複雑な石組みが織り成す枯山水庭園の妙~ 

作庭当時は、ここにこの辺りの領主であった建部氏の屋敷があったともいわれる

 広大な市域をもつ東近江市の行政の中心地、八日市の街の中心部に、「こんなところにこんな素晴らしい庭園が・・・」と驚いてしまうような見事な枯山水庭園がある。近江鉄道八日市駅のすぐ裏手、延命山と呼ばれる小高い丘のような山の麓にある松尾神社庭園だ。
緑深い木立に包まれた松尾神社の境内。ごつごつとした自然石を多用した庭園は、松尾神社の鳥居をくぐってすぐのところ、拝殿の左脇に静寂とともにたたずんでいる。


鶴島と亀島の間にかけられた一枚の大石の橋

 神社の前を通る道は多くの人や車が行き交うが、そのすぐ傍らにあるこの庭園を観ようとする人の姿はあまり多くはない。だが、松尾神社庭園の由緒を知れば、この庭が思いのほか深い歴史とエピソードを秘めた名庭だということがわかってくることだろう。
 松尾神社は、八日市の背後に控える山、延命山の麓にあり、古文書によれば、この山を北へ尾根伝いに行ったところにある、聖徳太子が創建したと伝わる瓦屋寺の別院、延命山尊勝寺(えんめいざんそんしょうじ)の鎮守としての神社だったという。尊勝寺は奈良・東大寺の管轄であったということから、このあたりでも重要な役割を担っていた神社であったことが想像できる。
中央にある須弥山。須弥山は仏教などで世界の中心を表すもの。庭園は昭和46年に旧八日市市の文化財に指定された(現・東近江市指定文化財)

 松尾神社庭園は、桃山時代初期の作庭とされ、寺院か武家の書院に付随した庭園だったと見られている。だが、一説には、奈良の興福寺一乗院に身を寄せていた室町幕府最後の将軍、足利義昭が、永禄9年(1566年)に南近江の守護を担った後に隠居していた佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、義賢が将軍のために作庭したともされる。



永禄11年(1568年)信長が佐々木氏を攻めた折、佐々木氏の配下であった建部氏の館も庭園だけを残して灰燼に帰し、その跡に松尾神社が建てられたともいわれる

 大小さまざまな石で組まれた庭園は、「蓬莱式枯山水」と呼ばれる庭園様式で、山際に蓬莱連山を思わせる石組みが、中央に須弥山(しゅみせん)と鶴島・亀島が配されている。複雑な石組みに用いられた石は背後の山から採取された花崗岩質のもので、その岩質の風合いもあいまって、豪快でどっしりとした武家好みの趣を醸し出している。
 はっきりとした庭園の由来は定かではないが、乱世の時代につくられたことを思い起こさせるその荒々しくも迫力のある作風から、湖国の名庭の一つにあげてもよいだろう。