この立札の南の橋を渡れば【姫塚】
お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町迫
別 称:儀俄(ぎが)氏城
区 分:丘陵城
標 高:230m 比高差:20m
現 状:山林
遺 構:郭・堀切・土塁
築城期:室町期
築城者:儀俄氏
目標地:真龍寺
訪問日:2013.11.14
お城の概要
姫塚橋を渡りこの道の正面の丘陵が城跡。正面の茶畑の先は丘陵が堀切状にU字切り通しのようになっている。左手坂道は平虎口か?。中に入ると平坦地が、廓の南丘陵にも平削地がある、郭か?。帰りは、先の道を丘陵沿いに少し歩き、丘陵が堀切状に切れている。登ってみると平削地がある、堀切状側には土塁状の盛り上げリガ続く。遺構なのか?。ら馬場橋の先の丘陵先端が城と丘陵先端は畑、休耕地の三段になっていて、休耕地の尾根側には土塁、その先には堀切状になっている。古城との伝承ある。上迫城は東西約70m、東西約45mで東側が凸型に突き出た形をした単郭城郭で、北~西~南には土塁を巡らしている。
特に西側の土塁は高さ7~8mにもおよぶ。北は深さ7~8mの堀切を設け、東は道路まで急斜面で落ち込んでいる。この東斜面は道路を敷く際に土塁等の遺構が削り取られいる。
東側の道路を挟んだ田圃は“的場”の地名が残り、この辺り一帯も城域であったことが窺える。また、北側を流れる川に渡した橋は"馬場橋"、近くの田圃には"門の裏"等と名が残っている。
上迫城は、菖蒲谷の西側に北東に伸びる尾根先端に築かれ、東西約30m、南北約70mの城域に三段の削平地が設けられている。上段が主郭で東西約30m、南北約35mに及び、南背後は巾約6m堀切と高さ約4mの土塁で遮断されている。主郭の北に二段の小郭を設け、その先は約8mの絶壁となっている。
なお、遺構は、後年の耕作により相当な改変を受けているように思える。
馬場橋の袂の姫塚には案内板が建てられており以下の内容が書かれている。
この姫塚は伝説の塚である。戦国時代の昔、すぐ西側にあった上迫城で合戦があって城が落城したとき、城の姫がこの場で自害したので、村人が葬ってやりダマの木を植えて姫塚と称した。
後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えた。
昭和34年の町道修復で姫塚が消滅することになったので、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立した。(日野町観光協会・南比都佐公民館)
お城の歴史
『近江蒲生郡志』には、儀俄氏城 「儀俄氏の城郭は南比都佐村大字上迫に在り、蒲生氏の支流にして始め藤原氏の観学院領たりし甲賀郡嶬峨庄に下司職となり依て姓を儀俄と称す、後ち梶井宮門跡領の下司を兼ね依て此地に邸宅を構へたり、丘上の一区の要地を占めし遺跡現存す。(蒲生氏支流誌参照)を記す。
<姫塚>
上迫城が落城した時にこの場所で姫が自害しました。村人は姫を葬りダマの木を植えて姫塚としました。
後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えました。
昭和三十四年の町道改修で姫塚が消滅することとなり、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立しました。<現地案内板より 日野観光協会・南比郡佐公民館>
日本城郭全集によると、「蒲生氏の支流儀俄氏の在住した所である。儀俄氏は藤原氏の勧学院領である甲賀郡嵯峨荘に下司職となったことからその名を称し、のち梶井宮門跡領の下司を兼ね、この地に居を構えた」とある。
永禄9年(1566)7月、梶井宮応胤より儀俄中務丞秀連の「迫上下の郷地頭職ならびに闕所検断神社山内」の知行が認められたとの記録が残っている。
正面の林を左に巻き60m程進むと右手に丘陵上の畑に登る道があり、その道を尾根まで登ると城跡である。
なお、姫塚橋の袂に姫塚があり、次のような説明がなされている。
<姫塚>
上迫城が落城した時にこの場所で姫が自害しました。村人は姫を葬りダマの木を植えて姫塚としました。
後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えました。
昭和三十四年の町道改修で姫塚が消滅することとなり、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立しました。<現地案内板より 日野観光協会・南比郡佐公民館>
堀切郭跡も茶畑に!
虎口の堀切右手に丘陵上の畑に登る道があり、その道を尾根まで登ると城跡である。
郭跡も茶畑に!郭跡も茶畑に!郭跡も茶畑に!上迫城遠景
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、近江蒲生郡志
本日も訪問、ありがとうございました。