城郭探訪

yamaziro

三上館下屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

 三上城(妙光寺山頂に)

 

  『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

 ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

 また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

 三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

 三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 

  三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

下屋敷

見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷

虎口は南に、石垣・土塁と水濠には(蒲カ?)が巡っている下屋敷

 

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

下屋敷遠望

三上城出城遠望

 

 本日も訪問、ありがとうございました

 


三上館上屋敷 近江国(野洲)

2013年11月22日 | 館跡

三上城(妙光寺山頂に)

 『日本城郭大系』によれば、三上政実によって享年間(1429~41)に築かれたとされる

ただし、三上氏は近江国三上郷に発する氏族であるが、政実は因幡国に所領をもつ人物である

また、政実は長享元年(1487)の鈎の陣に参加している六角氏征伐の親征である鈎の陣に、六角氏家臣とされる三上館三上氏が参加していたとは考えにくいまた、享年間とは年代的にやや離れすぎていることからも、政実が三上館を本拠としていたかどうかは疑わしい三上館が三上氏の居城、政実と三上館三上氏はどちらかが本流でどちらかが分流であると考えるのが妥当と思われる

三上館の三上氏は、六角氏家臣としてはたらいたとされるが、その後の動向は不明である

元和元年(1615)時点で、三上季正が三上館にあったことが確認されている季正は、寛十七年(1640)の人吉藩での「お下の乱」において幕府の上使として派遣されたことが、細川家史料にみられる三上館は、旗本三上氏の屋敷として存続したものと思われる

三上館は三上山ではなく、その北隣の妙光寺山の麓にあります妙光寺山には三上氏の詰の城があったとみられていますが、明確な遺構は見つかっていないようです『近畿地方の中世城館』では、三上城と三上館を峻別していますが、『大系』では三上城に統一しているようです

 三上館周辺には、東から上屋敷・中屋敷・下屋敷の3つの小字があり、それぞれに館があったものとみられています

上屋敷

西側の土塁

虎口?カ・・右側は西土塁

上屋敷の南側

上屋敷は南側は、土塁は無く圃場に開墾れたのでしょう

所在地滋賀県野洲市妙光寺

遺 構三上館 土塁、堀

形 式居館

築城者三上政実

築城年代享年間

訪城日:2013.11.22

上屋敷 遠望

現在は、このうち中と下の2つの屋敷跡に、今も三上氏のご子孫が住んでおられる
  両屋敷とも民家の敷地であるため、外側から眺めるだけですが、より見ごたえがあるのは、土塁と水濠が巡っている下屋敷の方と思われます

おそらく近世まで旗本屋敷として使用されていたのだと思いますが、明瞭に遺構が見られる貴重な史跡

 

 本日も訪問、ありがとうございました


桜生城  近江国(野洲)

2013年11月22日 | 平城

  

    

お城のデータ

所在地 : 野洲郡野洲町小篠原字桜生 マップ:http://yahoo.jp/4X3MTy

遺  構 : 土塁、土橋、虎口、空堀、水濠、曲郭

区 分:平城

築城者:澤弾正少弼清光

築城期:永禄年間

初城主:澤弾正少弼清光

訪城日 :2013.11.22

お城の概要

 桜生(さくらばさま)城は、桜生城の出城が築かれた小高い山の麓に築かれた城だ。

 一辺が約50m程の方形の縄張りで、周囲に土塁と堀が残っている。 堀は、西側の堀は水堀、他の三方の堀は空堀となってる。

 城の廻りに廻らされた土塁は、特に東側(山側)の土塁は約5m程の高さがあり、ここには虎口が設けられている。 平城でなかなか見応えのある遺構だ。(北側は、大きく開削されている)

桜生城は、単郭方形の館城である。周囲は土塁と堀が囲繞し、西側の堀は水堀になっている。また、中程から北東側の土塁は分厚く、高さも 5~6mあり見応え十分である。

北西面の水堀に土橋が架かり門が構えられているが、土塁の折れから北東面に開く虎口が本来の虎口でないかと思われる。

現在も澤氏の子孫が住まいされている中で、見事な遺構が残されていることに感謝である。今後も守り伝えてほしいものである。

 

 

 

                 

歴   史

「桜生城に澤弾正少弼清光が在城した。と記されており、澤氏の居館とされているが、詳細については不明である。

桜生城の築城年代は定かではないが、永禄年間には澤清光が入城しており、文禄2年に廃城となった。

なお、当城の死角を補うため桜生出城は築かれたとされ、丘陵の先端にあり、東山道を見下ろす位置である。

                     

 

 

   

 

国道8号線へ(信号なし)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!