城郭探訪

yamaziro

松尾山の砦 近江国(高月)

2013年12月04日 | 

お城もデータ

所在地:伊香郡高月町松尾 map:http://yahoo.jp/ZOjo7s

城 主:磯野丹波守

区 分:砦

現 状:山林

遺 構:削平地、竪堀、堀切

標 高:220m(磯野山山腹) 比高差120m

戦 い:永正14年(1517)
  ○浅井亮政 VS  ●磯野丹波守員栓・赤尾氏

訪城日 : 2013.12.02

お城の概要

斜度40度ほどの急斜面を下る。
下山してみると "急傾斜地崩壊危険区域"の立て札が建てられており、道理で急斜面のはずと納得。

磯野山城の北に走る尾根の斜面に4段ほどの削平地が続く。登るときには気がつかなかったが、急な斜面に竪堀が30mの距離をおいて2本掘られている。
 なお、磯野山城の中腹に「松尾山の砦」(=磯野山城の一部か)は、竪堀と堀切だけを防御施設としており、堀切,竪堀は全部で14条あるという。

歴 史

『江州南北諸士帳』に磯野城主 佐々木浅井随兵 磯野源三朗、伊予守元摂州 磯野伊予守通信、同磯野右衛門太輔、佐々木隋兵磯野末宮沢右衛門」の名が見える。

 磯野山城は京極氏の家臣・磯野氏の居城で、江北で京極氏に替わって浅井氏が台頭した後は浅井氏の家臣となる。

 磯野員昌は浅井氏の家臣の中でも勇猛であったとされ、元亀元年6月姉川を挟んで浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いで、浅井・朝倉軍が小谷城へ向けて退却する際、磯野員昌は手勢五百を率い、敵中突破をして佐和山城に立て籠もっている。
 磯野員昌は、後に織田信長に降り高島郡新庄に封じられ、織田信澄の養父となっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 


磯野山城 近江国(高月)

2013年12月04日 | 戦国山城

お城もデータ

所在地:伊香郡高月町磯野 マップhttp://yahoo.jp/urTKPU

城 主:磯野丹波守

区 分:山城

遺 構:削平地、竪堀、堀切

城 域:210m×75m

標 高:271m(磯野山)

戦 い:永正14年(1517)
  
浅井亮政
     VS
   ●磯野丹波守員栓・赤尾氏

訪城日 : 2013.12.02

お城の概要

斜度40度ほどの急斜面を下る。
下山してみると "急傾斜地崩壊危険区域"の立て札が建てられており、道理で急斜面のはずと納得。

山頂には、長さ30mほどの楕円形の削平地があり、ここが本丸。

 北に走る尾根の斜面に4段ほどの削平地が続く。登るときには気がつかなかったが、急な斜面に竪堀が30mの距離をおいて2本掘られている。
 なお、磯野山城には堀や土塁などは無く、竪堀と堀切だけを防御施設としており、堀切,竪堀は全部で14条あるという。

 

歴 史

『江州南北諸士帳』に磯野城主 佐々木浅井随兵 磯野源三朗、伊予守元摂州 磯野伊予守通信、同磯野右衛門太輔、佐々木隋兵磯野末宮沢右衛門」の名が見える。

 磯野山城は京極氏の家臣・磯野氏の居城で、江北で京極氏に替わって浅井氏が台頭した後は浅井氏の家臣となる。

 磯野員昌は浅井氏の家臣の中でも勇猛であったとされ、元亀元年6月姉川を挟んで浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いで、浅井・朝倉軍が小谷城へ向けて退却する際、磯野員昌は手勢五百を率い、敵中突破をして佐和山城に立て籠もっている。
 磯野員昌は、後に織田信長に降り高島郡新庄に封じられ、織田信澄の養父となっている。

三角点竹生島が!山本山城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 

 

 

 


大森山城陣所(赤尾山城・磯野山城) 近江国(高月)

2013年12月04日 | 戦国山城

大森山の切通し口

所在地 : 伊香郡高月町磯野

磯野・松尾

築城年 : 室町期

形  式 : 磯野山城(標高(330m)上部陣所 マップ: http://yahoo.jp/Dt4uKu

遺  構 : 土壇、堀切、土橋、竪堀

訪城日 : 2013.12.2

磯野山城は磯野氏の居城(詰城)である。
  江北の守護・京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。

大森山陣所跡

浅井三代記

伊香郡磯野山山本山両城合戦の事

 ~~~其上磯野を責るといふとも上平より勢を出され当城へ取掛被レ申候事なるべからず。上平へ押寄なば、山本、磯野は二里間なれば、留守を窺ひ敵可レ来、兎角磯野を可レ攻と宣ひければ、然らば先一もみもんで見給へと評定極りて、永正十五年二月十七日、六百余騎を二手に分、山本へは赤尾駿河守教政を大将にて野村伯耆守、同肥後守、大橋安芸守、海北善右衛門尉、阿閉三河守、西野丹波守、雨森弥兵衛、此人々相添、都合其勢一千余騎さし向らる。我身は舎弟大和守、同宮内少輔、東野左馬助、井口弾正、赤尾筑前守、同孫三郎、今村掃部頭、伊部清兵衛、八木与藤次、片桐右馬允、千六百余騎にて磯野山へ向はる。磯野山には此よしを見るよりも浅井勢当城へよすると見ゆるぞ。

川を前に当て戦ふべしとて源三郎を大将として究竟の射手を三十人一文字に川より半町許手前にひかへ、其の後には右衛門大夫、千田伯耆守、三百余騎にてひかへたり。大森山の切通し口には布施、横山、森、百五十騎にてひかへたり。かくて備前守は磯野の郷のこなた、あやと申所に本陣をすへ給ひ、先陣を伊部に被2仰付1、磯野郷の際まで打入見けれども、敵、川のあなたにひかへさゝへければ、伊部清兵衛、磯野村へ討入放火すべきと思ひ、郷中へかけいらんとせしを、源三郎是を見て、川よりこなたにひかへ勝利十分有といふとも、郷中を放火させては其甲斐有まじきとおもひ三十余騎の射手を引具し、川をさつと渡し、清兵衛が先手の勢へかけ向ひ、指詰引詰射たりけり。源三郎元来精強の大矢にて、向敵五六人目前に射落しければ、寄手しばらく進みかねたり。かゝる処に赤尾孫三郎旗本より三十騎許にて面も振らず馳向ふ。右衛門大夫是を見て源三郎を引連れ川よりむかひに引取けり。~~~

本日も訪問、ありがとうございました。