城郭探訪

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日夏城(山城・詰め城) 近江国(彦根)

2013年12月09日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:彦根市日夏町 map:http://yahoo.jp/Pdoe7u

現 状:山林・荒神山少年自然の家ウォークラリーEコース

遺 構:曲輪、竪堀、土塁、堀切

区 分:山城(詰め城)

築城期:室町期

築城者:日夏氏

城 主:日夏越前守

目標地:唐崎神社

駐車場:唐崎神社 駐車場

訪城日:2013.12.9

お城の概要

日夏城は、荒神山の最北端に位置し、大きな山塊の隅っこの細い山尾根に申し訳なさそうにあった。荒神山は山全体が探索コースとなっていて、日夏城へもはっきりした道がついている。
麓の唐崎神社の裏からは道も広く意気揚々、しかし途中からは突然の急勾配。ロープが張ってあり、それにつかまらないと登り降りできない程で、ちょっとしたアスレチックのようだ。
山道をほぼ登り切ると、左手の雑木林の中に遺構が現われる。道以外は全くの未整備のため判りづらいが、いびつな土塁で3つに仕切られた削平地と頂点に物見台程度の小さな曲輪がある。そこからは急下降するが、更に山の本体方向へ向かうと堀切が認められる。しかし、いずれも雑草に覆われ、写真でははっきり判らないものばかりであった。
城と呼ぶには本当にお粗末なつくりで、砦もしくは荒神山城の一部としか考えざるを得ない。

宇曽川西岸沿いの「唐崎神社」~徒歩で神社裏山を尾根づたいに約500m進む

歴  史

日夏の地を本拠て あったと推測されますが、 土豪化し、城を築いて戦国大名に従化し、戦国大名に従 うよになったのでしょう。

『 江州佐々木 南北 諸士帳』 には 、「日夏庄泉城主  佐々木随兵 日夏越前守」と記されて ます。

地元に残る古文書は、 永禄2年(1559)の「 肥田城水攻め」や、翌年野良田表合戦」に勝利した浅井長政の重臣 磯野員昌が、その勢いで六角方日夏氏を攻めました首尾よく抗戦して難を逃れたこと。その後、 浅井長政配下なった。日夏氏は元 亀4年(1573)の織田信長による小谷城総攻撃により、浅井一族ともに討死しやがて日夏城没落たこなどが記されいる。

唐崎神社横・・・駐車可3台(他に、近くに駐車場あり)

 

日夏城 遠望

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わやしの町の戦国(彦根教育委員会)

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


三上陣屋 近江国(野洲)

2013年12月09日 | 陣屋

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

お城のデータ

所在地:滋賀県野洲市三上 マップ:http://yahoo.jp/TOkW6n

区 分:陣屋(現状個人宅地)

遺 構:堀・石積・移築門

城 主: 遠藤胤親,遠藤胤将,遠藤胤忠,遠藤胤富,遠藤胤緒,遠藤胤城

訪城日:2013.12.5

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

三上陣屋(みかみじんや)は滋賀県野洲市野洲町三上(近江国野洲郡)にあった三上藩の藩庁である。

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

歴史

元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養子とした上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。

その後、遠藤氏は大番頭として、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に移封され、陣屋を構えた。

第5代藩主で若年寄の遠藤胤統は功績を認められて2千石の加増をうけた。第6代藩主の胤城(たねき)の時、明治維新を迎えている。明治3年(1870年)に和泉国吉見に移っている。

遺構

陣屋址は現存しない。滋賀県湖南市岩根の常永寺山門に陣屋表門が移築現存している。また、民家に陣屋裏門が移築現存している。将軍上洛御殿の一つである、永原御殿が草津市の芦浦観音寺書院に移築されている(重要文化財)。

 

歴 史

元禄11年(1698年)遠藤胤親によって築かれた。 元禄5年(1692年)3月郡上八幡城主遠藤常久が7歳で嗣子なく没し、幕府によってお取り潰しとなったが、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に一万石を与えられて存続した。この胤親の所領が近江に移され三上陣屋を構えて三上藩となった。

嘉永5年(1852年)遠藤胤緒のときに二千石の加封があり一万二千石となった。 慶応4年(1868年)新政府に敵と見なされて所領を没収されたが、同年罪は許され領地は返還された。明治3年(1870年)遠藤胤城のとき、和泉国吉見へ移された。

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

現状 

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

 車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)

車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)・・・約10台可

 

本日も訪問、ありがとうございました。


山田城 近江国(草津)

2013年12月09日 | 居館

市立武道館と山田城址説明板。

所在地:草津市南山田町 マップ:http://yahoo.jp/hLxLK1

現 状:草津市立武道館

区 分:平城

遺 構:堀痕(用水路)、説明板

築城期:鎌倉期

築城者:山田氏

城 主:山田左衛門尉秀資

訪城日:2013.12.5 

お城の概要

今は草津市武道館が建っているところが城跡です。

武道館建設前に発掘調査が行われ、二重の堀が検出され、城は円形をしていたようです。今は武道館前に説明板があるのみです。

発掘時:http://www.oumi-castle.net/second_page/yamada/yamada.html

 

歴 史

鎌倉期から室町期まで山田郷を領した山田氏の居城とされます

「江州南北諸士帳」に、南北山田 住 山田幸之進の名が見える。

 山田城は、矢橋・志那と並ぶ琵琶湖の湖港山田港を支配した山田氏の城である。築城は13世紀ごろに遡るとされる。

永禄十一年(1568)、織田信長が上洛の軍を興して近江に進軍すると、城主山田左衛門尉秀資は信長に抵抗し、滅ぼされた。その後の山田城主については不明だが、元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちに際して、信長が一時山田城に入城した。廃城時期については不明である。

 山田城は、琵琶湖の旧湖岸沿いに走る浜街道に面して築かれています。現在、城跡には市立武道館が建設され、遺構は残っていません。建設に先立ち、平成十二年(2000)に発掘調査が行われました。その結果、山田城は2条の円形の堀に囲まれた、単郭の城であったと推測されています。このうち1条目の堀のすぐ外側を同じように囲む2条目の堀は、戦国期に増設されたものであると考えられています。

  円形の縄張り、山田城が13世紀の築城当初から円形であったとすると、非常に貴重な城跡である。
   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 


小谷城 近江国(日野)

2013年12月09日 | 平山城

お城のデータ
  
住所:蒲生郡日野町小谷 マップ:http://yahoo.jp/6-PgFe

目標地:竹田神社・円林寺

区 分:平山城

比高差:10m                                                               

現 況:神社・寺院境内

遺 構:土塁・堀・櫓台・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:小谷次郎三郎

訪問日:2013.12.4

お城の概要

小谷城は、東海道の土山宿と中山道愛知川宿の小幡(五個荘町)を結ぶ脇街道である御代参街道(国道477号線)沿いにあって、小谷地区集落の西、小高い林の中にある竹田神社と円林寺の一帯が小谷城。

お城の歴史

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。

蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。
 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。

土塁切岸櫓台

竹田神社の裏、あるいは円林寺の西側の竹藪には曲輪跡とおぼしき削平地が幾つかあり、円林寺境内に祀られている稲荷大神の一画は周囲よりも一段高く、櫓台とも考えられる。

堀・土塁駐車場5台
小谷城 遠景


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳、蒲生旧趾考

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