城郭探訪

yamaziro

赤尾城・丸山城 近江国(木之本) 2013.12.07

2013年12月10日 | 平山城

 赤尾城

西徳寺(真宗大谷派)は、磯野氏の一族の者が文明5年、蓮如に帰依したことから始まるが、宝永6年に現在の地(龍泉寺跡)に移った。

旧地籍図では、現在の西徳寺の西南にある竹藪描かれ、一方、字堀内の西南に三方を竹藪で囲まれた宅地が表現されており、江戸時代を通じて地侍の屋敷であった伝えられている

字堀ノ内、西徳寺の門前

字「堀ノ内」・(滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡)220p)・・典型的な中世城館地名

赤尾城伝承地?・・・中世城館の構えに地勢は適さず、後方の山には、亥止め・馬止めの猪垣(土塁・石積・木棚)が残るが・・・江戸時代の猪穴・猪垣を設置(江戸時代中期・宝永年間から盛んに)・・・食用大型獣(猪・鹿)・農作物の食害防止。(講師の解説)

堀(現状:用水路)

所在地 : 伊香郡木之本町赤尾 マップ:http://yahoo.jp/2q4EkR

築城年 : 不詳

形  式 : 平山城

遺  構 : 土塁、横堀、池

訪城日 : 2013.12.7

 赤尾の丸山・・・赤尾館の見張り砦?

地名【丸山】・・・古墳・城郭に多い地名。

赤尾丸山砦は、典型的な円錐台形(プリン型)、後方に本格的な深い堀切や土橋が確認できる。

西徳寺

赤尾城小字丸山城や山麓居館は真宗教団の城郭や宗教施設の可能性。

赤尾小字丸山に関して、伊香郡誌の言う赤尾城近隣に、伝承が残っている。「赤尾城の西隣の念仏道場(西徳寺の前進)の磯野信受は後改名して「教善」当時五六歳とあり、赤尾に在住し本願寺顕如に呼応して、情報収集に当ったとされる。今後、真宗道場と「門徒の城」の研究分野の進捗の可能性が期待されるが問題も残る;

 寺伝、伝承縁起に注意すべき事は?また長谷川講師の調査見学の地域や意図がありますが真宗教団の伝承記録には門徒の殉教を強調としたものもあり注意が必要、南津田道場と南津田城の長谷川の発見、田畑多賀町会議員様支援による真宗佐目道場背後の山砦発見、多賀仏後道場の山砦発見、多賀後谷道場近辺の大城の発見、そして今回の赤尾道場の「丸山城」も真宗系道場の山砦の可能性もあろうか?、やはり驚くべき事は、多賀後谷に長浜榎木湖北十ヶ寺浄願寺の疎開を物語る「浄願寺淵」の地名がある事や、その南の山中に多賀「丸山城」が存在し既に見学している事に驚嘆せずにはおられない、そして更に驚くべき事は9世、実如上人が逗留された多賀後谷にも小字丸山があり、赤尾と同じ「猪垣」が存在する事である。これ等は偶然の一致ではすまされない、未知の歴史「真宗史が潜在」する事を物語っていると言えよう。湖北十ヶ寺の有力真宗寺院「称名寺」が天正10年秀吉の母と妻を案内避難保護して秀吉に見事、水谷から浅井郡尊勝寺の「称名寺」に還住を認められ木下姓が下賜されている、我々は秀吉の母と妻が暫し逗留したとされる、小津原にある治山城を既に見学している。この様な見学計画は田畑、長谷川党で、真宗の裏の歴史を検索し学ぶ為に、歳月と時間を掛け見学地を選定している事に充分留意願いたい「物見遊山」で無く用意周到な関連学習会を計画している事をお含み頂きたい。南津田道場の後身は今も南津田にのこる、これ等も南津田の皆さんと見学学習している。

 

切岸

堀切

土橋

木之本赤尾の丸山砦、(紅葉の下に)堀切・土橋~~更に登ると円墳が堀切・土橋も、中世の一時砦に使われたカ?

本日も訪問、ありがとうございました。


荒神山城 近江国(彦根)

2013年12月10日 | 戦国山城

 

 山頂までトライブウェィがつけられており、楽々登城できる。

山頂には荒神山神社が祀られており、神殿の裏手に廻ると見事な石垣を観ることが出来るが、この石垣は城とは無関係である。

お城のデータ

所在地:彦根市清崎町初  map:http://yahoo.jp/oC699G

現 状:荒神山古墳       

区 分:山城

遺 構 :石積み・竪堀・曲輪

築城期:南北期

築城者:日夏安芸守

城 主:日夏安芸守

廃 城:織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して焼き払われたとある

標 高:262m 比高差150m

目標地:NHKの中継電波塔(荒神山神社)

駐車場: NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場

訪城日:2013.12.09

NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場を背に「荒神山歴史めぐり」コースを100m

土塁(植栽:獣害防止ネットで囲われて)

後円墳が主郭

後円墳が主郭主郭へ主郭の東側

東側の切岸に、石垣が北側・・・物見櫓か?物見櫓か?・・・琵琶湖・多景島三角点

お城の概要

山頂までトライブウェィがつけられており、楽々登城できる。

山頂には荒神山神社が祀られており、神殿の裏手に廻ると見事な石垣を観ることが出来るが、この石垣は城とは無関係である。

荒神山城は 宇曽川の左岸、標高262mの荒神山の山頂付近に築かれた城である。南方約3kmには山崎山城もあり、琵琶湖岸の街道監視の城である。

 荒神山城は、神社から北方尾根を100mほど歩いた所に位置している。饅頭型の東斜面と北斜面に小曲輪を配し、東斜面には石積みがみられる。また、荒神山神社の背後にも階段状の曲輪が認められる。

荒神山城は、彦根市街の南方に大きくそびえる荒神山山頂付近にあった。現在山頂には荒神山神社が建ち、東西から車道が通っていて容易に訪れることができる。

 荒神山は、山全体に整備されたハイキングコースがある。残念ながら荒神山に城跡だと、地元の人も知ろ人は少ない。

しかし、この山塊には荒神山城の他に、北に日夏城、西に山脇古城山城、南に山崎山城と実は城跡の宝庫なのだ。

城域は山頂の神社東側、荒神山神社の裏から北東に少し下ったところに古墳があり、その古墳が主郭・城域である。

古墳跡があり、直下には県教委の石碑が建っている。頂部の北側の墓地あたりは広い削平地になっている。東斜面の腰曲輪形状付近には石垣も。この頂部と神社の間には何段かの削平地や竪堀があるが、これも城遺構である。

お城の歴史

荒神山城は、築城年代は定かではないが、観音寺城主六角氏の重臣・日夏安芸守が荒神山城(日夏氏[六角氏の庶流]居城)を築く。

荒神山神社は由緒書きによれば、慶応4年(1864)神仏混淆を廃止となるまでは、お寺と神社が同居していたとのことである。

山頂にある荒神山神社は、明治維新までは奥山寺といい、宗派は天台宗で織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して奥山寺も焼き払われたとある。。

神社が城域であったならば、信長の近江侵攻までには廃城になっていたという。

関ヶ原合戦後、井伊氏が近江に封ぜられた際に、佐和山・磯山とともに新たな築城の候補となったとされるが、最終的には金亀山(彦根城)に築城された。

 

 また、井伊直政が近江に封ぜられた時に、佐和山,磯山と共にこの山が築城の候補となっていたが、最終的には金亀山(彦根城)に築城された。

秀吉が寄進したという石灯籠

天正12年に秀吉が寄進したという石灯籠

なお、庭園には天正12年に秀吉が寄進したという石灯籠が今も残っており、灯籠には「天正十二年二月吉日」と彫られている。

NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場,帰りもトライブウェィ

滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!