城郭探訪

yamaziro

立入城 近江国(守山)

2013年12月06日 | 平城

 

 

 

城域の(東福寺の土塁より、新川神社)遠景

お城のデータ

所在地:守山市立入町 マップ:http://yahoo.jp/AWGEqj

現 状;集落

遺構 :土塁・堀跡

形式 :平城(居館)

築城者 :立入(松田)秀興

城 主 :立入宗継

築城時期 :文明年間(1469-87)

訪城日:2013.12.5

お城の概要

 立入城は、野洲川の左岸にあった平城です。南西500mほどのところに浮気城があり、立入宗継は、朝廷と信長の間で奔走した皇室の忠臣であり、またそうした諸大名との関わりの多さから重要な一次資料とされている『立入左京亮入道隆佐記』の著者として知られています。しかし、宗継の事跡に比して立入城の残存状況は良いとはいえません。集落内の新川神社・東福寺に土塁の痕跡が散見される。

立入城は、野洲川西岸の立入集落南方にあった。新川神社の南側に口屋敷、さらに南側に奥屋敷の字名が残り、この付近一帯が立入城であったと考えられる。
現在は旧宅地に加え、新興住宅地も造成され年々面影は消えつつあるが、西方と南方には堀跡と思われる比較的広い水路が残り、周濠集落の様相である。堀跡の他に土塁の残片が2ヶ所、櫓台風の高まりが1ヶ所確認できる。
昭和期の遺跡調査時点では、Cの高まりに延長上の西辺・南辺水路内側に平行して土塁およびに付随する堀が残っていた。南辺の土塁は途中で直角に折れB土塁へ至ったと考えられ、奥屋敷は少なくとも3辺が土塁と堀に囲まれた方形館であったと思われる。

また消失したが、A土塁のすぐ北西付近にも土塁が残っていたという。北端の新川神社境内にも土塁が見られるが、城遺構なのかは不明である。

 隣町の岡町に立入氏の菩提寺西隆寺がある。立入城は、文明年間(1469-87)松田丹後守秀興によって築かれたとされる。松田氏は相模国足柄上郡松田郷波多野氏の一族で、いくつかに分派した松田氏の中で、諸説あるが、室町期に幕臣として京都に存在した家系ではないかと考えられる。松田秀興は、江南守護六角高頼の配下となり、立入城主として野洲郡8万石を領して立入氏を称した。

歴 史

  松田秀興がこの地に城を築き、立入氏を称したとされる。秀興については、『守山城物語』では飛騨高山の出身としているが、詳細は不明である。また、室町幕府の奉行人に同名の人物がおり、秀興の子立入宗康の活動時期から鑑みて年代的にも妥当している。宗康は、皇室の食料や費用を預かる御倉職(みくらしき)となった。

  立入氏については、別に六角氏が家臣高瀬氏の一族の者に立入因幡守清直と名乗らせ立入城主としたとする異説がある。しかし、清直という人物と宗康らとの関係を含め、詳細は不明である。御倉職は、宗康の子宗長、宗長の子宗継と受け継がれた。宗継は、皇室の財政窮乏に瀕して、永禄五年(1562)ごろから織田信長への接近を説いた。宗継自身同七年(1564)には清洲城へ、同十年(1567)には岐阜城へ正親町天皇の勅旨として信長を訪ね、朝廷への支援と上洛を促した。翌十一年(1568)に、信長は上洛の軍を興して近江の六角氏を追い払い、入京した。その後宗継は、信長や諸大名と朝廷の間の交渉係として活躍した。

 松田氏は代々朝廷の禁裏御蔵職として公武の橋渡しをしてきた家柄で、立入氏となっても御蔵職は受け継がれた。立入家は秀興-宗康-宗長-宗継と世襲した。

宗継の時、正親町天皇の勅使として応仁の乱以降荒んだ御料所の回復や、京都御所の修繕を依頼するため、永禄7年(1564)と永禄10年(1567)の二度に渡り、織田信長と会見し上洛を促す。
永禄11年(1568)信長の上洛時には天皇の命を受け粟田口にて出迎え、信長に急接近する。

元亀騒乱(元亀元年1570)での野洲川の戦いにおいて織田軍(柴田・佐久間・稲葉)と六角軍が戦った時は立入城は織田軍の前線基地となった。
信長死後は美濃岐阜城主織田信秀、近江八幡城主豊臣秀次に属したのち、立入氏の動向が判らない。宗継は長命で、元和8年(1622)94歳まで生き、墓は京都清浄華院にあり、明治期になって政府から朝儀復興に尽力した功績を称えられ、同寺に『立入宗継旌忠碑』が建てられた。京都時代祭には、現在でも立入家当主が『織田公上洛列』の先頭で馬に乗り登場している。

『日本城郭大系』によれば、『四月録』に元亀元年(1570)に立入城が六角義賢(承禎)によって使われたことが記されているという。おそらく信長包囲網形成期における六角氏の蜂起で、一時的に奪われたものと考えられる。宗継は元和八年(1622)まで生きたが、立入城の廃城時期については不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭大系、守山の城

  本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 

 


弓削城 近江国(竜王)

2013年12月06日 | 平城

現在、宮本氏のお宅が弓削城の跡といわれており、周囲の水田は堀の跡だというが、遺構などは残っておらず、頷くしかない。

 お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町弓削   map:http://yahoo.jp/zgpkMn

区 分 :平城

築 城 : -

初城主: -

遺 構 : 消失

現 状 :集落

訪城日:2013.12.6

 お城の概要

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)は、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。

また東南に位置する葛巻は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。

南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷(せっか)派の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。

弓に関する地名では「弓削」と言う字が竜王町には残っています。

また、弓道発祥の地であることが伺える行事に、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が今も残っています。

歴 史

『江濃記』に、弓削城(竜王町) 六角京極合戦事 「応仁二年十月三日山内政綱下向し、弓削と云所に馳向ひ責戦ひれけば」と記す。

弓削城は滋賀県蒲生郡竜王町弓削にあり、東山道の近江になります。

  近江天保一揆は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。蒲生郡弓削村(現蒲生郡竜王町)の庄屋松瀬伊兵衛は村中に諮り440余両を贈賄し、新開場の査定を有利に値切ることができた。

弓削村地籍図【縦156.0㎝×横118.7㎝】

 

 弓削村地籍図からは整然と並ぶ正方形に近い条里制(じょうりせい)による地割が読み取れる。当地域の条里の南北方位軸線は、正南北よりも北が若干西方向にふれているのだが、集落周辺の地割はほぼ正東西南北を指向し、周りの条里制地割の規則性とは違う方位を持っている。実は弓削集落は、古代寺院「満願寺廃寺(まんがんじはいじ)」跡に立地しているのである。そのため、古代寺院が築かれた時の正南北東西地割が、連綿とその後の土地利用時にも踏襲(とうしゅう)され、明治9年(1876)に作成されたこの絵図にも反映しているのである。同廃寺の創建(はいぜつ)・廃絶時期は、本格的発掘調査がなされていないため不詳ではあるが、付近から出土した瓦の様式などから、奈良・平安期に存在していた寺院であると推定されている。寺名は付近の小字名「万願寺」に由来しているが、これは後世の人々が付けた名であって、この寺院が存在していた時代に呼ばれていた名は伝来していない。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、江濃記、近江の城郭

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大原氏館 近江国(山東)

2013年12月06日 | 館跡

三島池より 

 

所在地:米原市本市場  マップ:http://yahoo.jp/FJFl0f
初城主:大原重綱
区 分 :平城(館)
遺 構 :堀,土塁
城 域 :80m×60m

 

大原氏の館は初代・重綱から始まった大原氏の代々の居館である。館跡は竹林の中に東西約60m、南北約80mにわたって掘と小高く築かれた土塁が残る。


 それにしても、二男高信(高島氏)の清水山城、三男泰信(六角氏)の観音寺城
、四男氏信(京極氏)の柏原城など比べると、この大原氏の館はいかにも小さい。
 佐々木信綱の嫡男でありながら、大原庄しか相続できなかった重綱の無念さが伝わってくるようである。
 なお、この館の地は現在も小字堀の内と呼ばれ、周辺には堀の西、堀の南、中屋敷などの城館に関連した小字名が残っている。

城郭の歴史 

平治元年(1159)平治の乱では平清盛が勝利し、源義朝は嫡男・義平と共に鎌倉へ落ち延びる途中に捕らえられ殺害さた。
当時13歳だった義朝の三男・頼朝は伊豆の蛭が小島に流されたが、治承4年(1180)8月北条時政の力を借りて挙兵した。
 この時佐々木秀義は定綱,教高,盛綱,高綱,義清の五人の子を率いて頼朝のもとにはせ参じ、平家討伐の貢献により、嫡男定綱は佐々木家の旧領であった近江国を領した。


 その後、佐々木氏12代目の佐々木信綱は4人の子に近江を分割して与えた。長男・重綱には大原庄を与えて大原氏を名乗らせ、二男高信には高島郡を与え高島氏とし、三男・泰綱には愛知川以南六郡(志賀,甲賀,栗田,野洲,蒲生,神崎)を与え六角氏とし佐々木宗家を継がせた。四男・氏信には愛知川以北の六郡(愛知,犬上,坂田,浅井,高島)を与えて京極氏とした。

 大原氏は名門佐々木氏の流れを汲むことから室町時代には将軍の奉公衆に列していたが、11代政重で大原氏の血脈は絶えた。12代,13代と六角氏から入嗣し大原氏の存続を図ったが、骨肉相食む戦国期になると、大原氏の領地は京極氏、浅井氏の領地に次第に組み込まれ、大原氏は滅亡した。

 遠景

 

本日も訪問、ありがとうございました。