城郭探訪

yamaziro

里根山城 近江国(彦根)

2013年12月24日 | 戦国山城

里根山城

所在地:彦根市里根町 マップ:http://yahoo.jp/94WPIn

区 分:山城

 信長公記:里根山には水野信元が布陣した

遺 構:不明

現 状:山林・ゴルフ場(彦根カントリー)

天寧寺の裏山あたりが城跡

 

 歴 史

信長の佐和山城攻囲網

里根山城は佐和山城の南に位置する山城だったようだが、その歴史についてはよくわからない。

 元亀元年(1570)に織田信長は浅井長政の重臣磯野員昌が籠る佐和山城を攻囲しているが、そのときに織田勢は佐和山城を四方から囲むように陣城を構えている。

 北の山に市橋長利、西の彦根山に河尻秀隆、東の百々屋敷に丹羽長秀、そして南の山には水野信元が布陣した。このうち信元の本陣となった南の山が里根山城。南の山を平田山城とする考察もあるようだが、他の陣城と比較してやや距離が離れているので信元の本陣は里根山城と考える

 

 元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井の重臣・磯野員昌が佐和山城に籠城した際に、信長が佐和山城に対して築いた四つの付城のひとつで、東の付城とされる。

  ---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
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現 状
 彦根駅の東に彦根カントリークラブがあるが、里根山城はこの丘陵上にあったようだ。所在地でいうと里根町なので、ゴルフ場の南西にある天寧寺の裏山あたりが城跡。滋賀県は城館の調査をかなり熱心に行っているが、里根山城の遺構はないようだ。

≪参考≫
日本城郭大系/新人物往来社
佐和山城/彦根市教育委員会

 

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


探訪【近江水の宝】大宮人船待ちの里をゆく-唐崎神社-

2013年12月24日 | 探訪「近江水の宝」

「唐崎の夜雨(からさきのやう)」は近江八景のひとつです。笠のように、大きく枝を広げた「唐崎の松」、夜間この松に降りそそぐ雨の情景が主題となっています。「唐崎の松」は唐崎神社のご神木であり、明治初期の由緒書によると、現在の松(昭和4年・1929年植樹)の先代は高さ27 m、幹廻り11 m、枝東西72 m、南北86 mという巨木であった
ことがわかります。

唐崎は、ふるく大津宮(667年~671年)のシンボルともいうべき景勝の地であり、柿本人麻呂は「楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(万葉集)」と歌い、815年(弘仁6年)嵯峨天皇は当地で船遊びに興じています。平安時代には七瀬之祓(ひちせのはらい)の一所に定められ、朝廷の夏越の祓をはじめ、国家の大事にあたっての祓がおこなわれました。現在も毎年7月28日・29日におこなわれる唐崎神社の「みたらし祭」は、この唐崎祓所の伝統を受け継ぐとされています。

今回の探訪では、唐崎学区文化協会のみなさんや県の文化財専門職員が同行案内し、唐崎神社を中心に唐崎一帯を詳しく訪ねます。

チラシ(PDF:643KB)

JR唐崎駅→唐崎神社→白髭神社道標→メリノールガーデン→穴太廃寺→穴太地蔵・足利義晴供養塔→高穴穂神社→宝光寺→盛安寺→穴太野添古墳群→伝仲哀天皇産湯の泉→(京阪穴太駅)→JR唐崎駅