城郭探訪

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佐生日吉城(佐野山城・佐生城) 近江国(能登川)

2016年03月07日 | 丘陵城

 

 ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤氏館 佐生日吉城 北向観音 仮称)伊庭山城 仮称)北須田山城 仮称)石馬山城 見学会に参加

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡)五個荘町下日吉~佐野町  map:http://yahoo.jp/88pj-6

別 称:佐野山城・佐生城

区 分:丘陵城

現 状:山林

遺 構:曲廓・土塁・堀・石垣・虎口・竪堀・城跡碑・案内板

築城期:室町期

築城者:後藤氏

標 高:160m 比高差:60m

目標地:北向観音又は佐生町佐生橋

駐車場:佐生橋の空地

訪問日:2016.2.20

お城の概要

基本的には単郭の城が。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと西側に2カ所に10mほど、

 東側に虎口の大石の石垣が残ります。南西隅は算木積みもしっかりとした石垣です。

主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑があります。

城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址碑」と刻まれています。

佐生城は六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城で、観音寺城が築かれている繖山の南東尾根の先端、比高約60mほどの尾根上に築かれており、観音寺城の東端の防御拠点であるともいえる。
 地形的には、繖山に沿って東西に流れていた瓜生川が、山塊がとぎれるこの地点で流れを北に変える。この地形を利用して、南側と東側は瓜生川が堀の役目を果たしている。

 大手道は東近江市佐生町の瓜生川に掛かる新浄土橋南側から登るルートで、約15分ほどで佐生城に至る。
もう一つのルートは能登川高校の前から北向十一面岩屋観音への石段下まで車で乗り付け、案内板に沿って尾根を東に下れば10分足らずで佐生城に至る。こちらが搦手道で、北向岩屋観音から尾根を西に登れば地獄越えを経て観音寺城の沢田邸に至る。

 佐生城は35m×25mほどの主曲輪を中心に北の支尾根に2段、主曲輪東側にも曲輪を配している。曲輪の削平状態はお世辞にも良いとはいえないが、主曲輪西面と南面には石垣が積まれている。
 特に西面の石垣は巨石を4mほどの高さに積み上げ、隅角は算木積みがなされ、スケールや技法的にも観音寺城の石垣と比較しても遜色がない。
ただ、長さ35mほどにわたって築かれた石垣は山の地形に沿って湾曲しており、また曲輪の削平状態からも本格的な城つくりがされているとはいい難い。
 主曲輪の西と東には平虎口が設けられ、主曲輪西側と南側には1mほどの低土塁が確認できる。

お城の歴史

観音寺城の支城。 六角氏の重臣後藤氏が城主の城ですが築城時期は定かではありません。永禄六年(1563年)に後藤堅豊親子が六角義弼に謀殺された事に端を発した観音寺騒動が起こっています。

佐生城は中羽田に後藤氏館(居館)を構えていた六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城であるが、築城時期は定かではない。

 後藤氏は代々六角氏の宿老を勤めた一族で、進藤氏とともに“六角氏の両藤”と呼ばれて重用されたが、永禄6年(1563)六角義賢(六角承禎)から家督を継いだ当時18歳の六角義治(後の義弼)は、ことごとく義治の采配を批判する執権・後藤但馬守賢豊の存在が邪魔になり、種村三河守、建部日向守等に命じて嫡男の又三郎と共に誅殺させた。

 義治の理由なき後藤父子の誅殺を進藤、目賀田、三井、馬淵、楢崎、伊庭、平井、永原、池田、横山、三雲、木戸、荒井など六角家の主だった家臣達は批判し、後藤父子と最も親しかった永田景弘、三上恒安、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛らの5人は、対立していた江小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城のある撒山を囲み、城へ攻め上った。

 手勢わずか三百余の義治は観音寺城を支えきれず、蒲生賢秀を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立した。
 和議にあたって出された条件によって義治は隠居し、六角氏の家督を弟高盛(承禎次男・義定)が相続、更に「六角氏式目」に署名して、六角氏の当主としての権限の縮小を余儀なくされた。
 後藤氏は賢豊の家督を次男高治が継ぎ、旧領を回復した。

 これを観音寺騒動(後藤兵乱)といい、この兵乱を機に六角氏内部の団結は瓦解し、5年後の永禄11年(1568)には織田信長の入洛を阻止することができず、六角氏は没落していくことになる。

 六角氏が織田信長に滅ぼされた後、後藤氏は蒲生氏に仕えた。なお、この観音寺騒動によって浅井長政は漁夫の利を得て、労せずして愛知川北岸までの支配権を得ることになる。

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参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、『ウィキペディア(Wikipedia)』 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 

 


後藤氏館  近江国(八日市)

2016年03月07日 | 居館

ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏

  後藤但馬舘 佐生日吉城 北向観音 伊庭山城 北須田山城 石馬山城 見学会参加しました

門跡石垣 

お城のデータ

所在地:東近江市(旧八日市市)中羽田町   map:http://yahoo.jp/XBTctB

区 分:居館

現 状:田地・宅地

遺 構:土塁・堀・石垣・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:後藤氏

標 高:111m 比高差:-

目標地:雪野山トンネル東側出口

駐車場:児童公園(神社御旅所)

訪問日:2016.2.20

後藤館跡

Ⅼ型の土塁 詰め城「雪野山城」・・・遠景

お城の概要

後藤館跡(滋賀県東近江市中羽田町)は、近江守護・佐々木六角氏の重臣・後藤氏の在地居館。
後藤氏の名は室町時代前期にあらわれ、六角氏の宿家の位置にあった。

後藤氏館跡は、周囲に基底幅約11m、高さ約3mの土塁を築き、その外に堀を穿った単郭構造の館跡で、東西幅、東辺の長さ約100m、西辺の長さ約120mの変形四辺形プランを呈し、西辺土塁の中央部に正門が存した(『現地案内板』)。

当時の在地領主の館は、非常時に備えて土塁、板塀などの防御施設が設けられ、敷地内には主屋、納屋、蔵、厩などの建物が存した。当館跡の建物配置は定かでないが、昭和56年の発掘調査で井戸跡、厠跡、柵跡などが検出され、その位置から主要な建物は敷地内北部中央付近に存したと推定される(『現地案内板』)。

六角重臣の居館跡ということだが、水田にぽつんと石垣と土塁が残る。しかし、大規模な遺構で、観音寺城と類似する貴重な史跡である。

歴 史

後藤 賢豊 は、戦国時代の武将。佐々木六角氏の重家。

生涯

主君である佐々木六角義賢の(「賢」の字)を受け、賢豊と名乗った。

賢豊の後藤氏と進藤貞治・新藤道賢盛の進藤氏は「六角氏の両籐」と呼ばれる六角氏の宿老であり、賢豊は智勇に優れた武将で、義賢に従って浅井攻めなどに活躍した。

永禄2年(1559年)、蒲生氏と共に恩賞条奉行を務める。

永禄5年(1562年)、佐々木六角義賢の上洛に従い、大徳寺警護を務める。

永禄6年(1563年)、佐々木六角義賢の子・六角義治の起こした観音寺騒動により観音寺城内で子の壱岐守(名は不詳)らとともに殺害された。(後藤但馬守賢豊は六角義賢の信望を受けて権勢をふるったが、永禄六年(1563)義賢の子・義弼に謀殺された。)

これが観音寺騒動の発端となり、六角氏は家臣団の信望を失い、やがて織田信長に滅ぼされる。『現地案内板』

後藤氏の家督は賢豊の次男・後藤高治が継いだ。

後藤高治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
後藤 高治(生年不明 - 17年天正(1589))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。別名に定豊、高安。通称は喜三郎。兄に後藤壱岐守。子に千世寿(後に蒲生三郎左衛門)。

生涯

 佐々木六角氏の重臣・後藤賢豊の次男として生まれる。永禄6年(1563)の観音寺騒動で父・賢豊と長兄・壱岐守が主君・六角義治によって討たれたため、後藤家の家督を相続する。その後は父・兄の仇として六角氏と敵対したが、永禄10年(1567)に和睦し、同時に六角氏式目に連署して義治の専制に歯止めをかけた。しかし永禄11年(1568)に織田信長の上洛で六角氏が滅亡すると、信長に降伏して臣従する。

信長のもとでは近江衆の1人として仕えた。天正6年(1578)に信長が安土で相撲大会を開くと、その奉行を務めた。天正10年(1582)6月に本能寺の変が起こると、明智光秀に与したために所領を追われている。後に蒲生氏郷に仕えた。

この蒲生氏仕官時代に「戸賀十兵衛尉」と名を改め(氏郷記)、九州征伐にも参陣している。天正17年(1589)、京にて死去。知行3000石は11歳の子・千世寿が継いだという(氏郷記)。

後藤氏

 藤原秀郷流の後藤氏(佐々木六角氏家臣の一族、後藤但馬守など)、伊達氏家臣の後藤氏(後藤信康、ただし信康は湯目氏からの養子)、土佐藩重臣の後藤氏(後藤象二郎)などが存在する。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』、見学会資料 

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