ウッデイパル城郭フオーラム 講師:長谷川博美氏
お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)五個荘町下日吉~佐野町 map:http://yahoo.jp/88pj-6
別 称:佐野山城・佐生城
区 分:丘陵城
現 状:山林
遺 構:曲廓・土塁・堀・石垣・虎口・竪堀・城跡碑・案内板
築城期:室町期
築城者:後藤氏
標 高:160m 比高差:60m
目標地:北向観音又は佐生町佐生橋
駐車場:佐生橋の空地
訪問日:2016.2.20
お城の概要
基本的には単郭の城が。但し、石垣の城で、主郭の南側に高さ3m程度で30mほどと西側に2カ所に10mほど、
東側に虎口の大石の石垣が残ります。南西隅は算木積みもしっかりとした石垣です。
主郭には後藤氏の御子孫が建てられた城址碑があります。
城址碑は南側山麓の日吉神社の横(旧五箇荘町側)にもあり、「佐野山城址碑」と刻まれています。
佐生城は六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城で、観音寺城が築かれている繖山の南東尾根の先端、比高約60mほどの尾根上に築かれており、観音寺城の東端の防御拠点であるともいえる。
地形的には、繖山に沿って東西に流れていた瓜生川が、山塊がとぎれるこの地点で流れを北に変える。この地形を利用して、南側と東側は瓜生川が堀の役目を果たしている。
大手道は東近江市佐生町の瓜生川に掛かる新浄土橋南側から登るルートで、約15分ほどで佐生城に至る。
もう一つのルートは能登川高校の前から北向十一面岩屋観音への石段下まで車で乗り付け、案内板に沿って尾根を東に下れば10分足らずで佐生城に至る。こちらが搦手道で、北向岩屋観音から尾根を西に登れば地獄越えを経て観音寺城の沢田邸に至る。
佐生城は35m×25mほどの主曲輪を中心に北の支尾根に2段、主曲輪東側にも曲輪を配している。曲輪の削平状態はお世辞にも良いとはいえないが、主曲輪西面と南面には石垣が積まれている。
特に西面の石垣は巨石を4mほどの高さに積み上げ、隅角は算木積みがなされ、スケールや技法的にも観音寺城の石垣と比較しても遜色がない。
ただ、長さ35mほどにわたって築かれた石垣は山の地形に沿って湾曲しており、また曲輪の削平状態からも本格的な城つくりがされているとはいい難い。
主曲輪の西と東には平虎口が設けられ、主曲輪西側と南側には1mほどの低土塁が確認できる。
お城の歴史
観音寺城の支城。 六角氏の重臣後藤氏が城主の城ですが築城時期は定かではありません。永禄六年(1563年)に後藤堅豊親子が六角義弼に謀殺された事に端を発した観音寺騒動が起こっています。
佐生城は中羽田に後藤氏館(居館)を構えていた六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城であるが、築城時期は定かではない。
後藤氏は代々六角氏の宿老を勤めた一族で、進藤氏とともに“六角氏の両藤”と呼ばれて重用されたが、永禄6年(1563)六角義賢(六角承禎)から家督を継いだ当時18歳の六角義治(後の義弼)は、ことごとく義治の采配を批判する執権・後藤但馬守賢豊の存在が邪魔になり、種村三河守、建部日向守等に命じて嫡男の又三郎と共に誅殺させた。
義治の理由なき後藤父子の誅殺を進藤、目賀田、三井、馬淵、楢崎、伊庭、平井、永原、池田、横山、三雲、木戸、荒井など六角家の主だった家臣達は批判し、後藤父子と最も親しかった永田景弘、三上恒安、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛らの5人は、対立していた江小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城のある撒山を囲み、城へ攻め上った。
手勢わずか三百余の義治は観音寺城を支えきれず、蒲生賢秀を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立した。
和議にあたって出された条件によって義治は隠居し、六角氏の家督を弟高盛(承禎次男・義定)が相続、更に「六角氏式目」に署名して、六角氏の当主としての権限の縮小を余儀なくされた。
後藤氏は賢豊の家督を次男高治が継ぎ、旧領を回復した。
これを観音寺騒動(後藤兵乱)といい、この兵乱を機に六角氏内部の団結は瓦解し、5年後の永禄11年(1568)には織田信長の入洛を阻止することができず、六角氏は没落していくことになる。
六角氏が織田信長に滅ぼされた後、後藤氏は蒲生氏に仕えた。なお、この観音寺騒動によって浅井長政は漁夫の利を得て、労せずして愛知川北岸までの支配権を得ることになる。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、見学会資料、『ウィキペディア(Wikipedia)』
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!