城郭探訪

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速水城(西の宮館) 近江国(湖北町)

2016年03月21日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町速水  map:http://yahoo.jp/1W7tHj

別 称:西の宮館

現 状:神社

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:速水氏

遺 構:土塁・堀

標 高:98m 比高差:ー

目標地:伊豆神社

駐車場:伊豆神社前駐車場

訪城日:2016.3.20

お城の概要

速水は、近世には旧北國街道に沿った宿場町として栄えた。

速水城は、国道8号線沿いに高さ50㎝程の土手と竹藪がある。伊豆神社一帯に築かれていたという。 伊豆神社の旧社は集落の西で、圃場整備の済んだ田の中にあった。

お城の歴史

築城年代は定かではない。速水氏代々の居館で、六角氏、浅井氏に仕え羽柴秀吉に仕えた。秀吉に仕えて黄母衣衆の一人となった速水守久が著名である。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 速水 住 佐々木隋兵山本源氏 速水右馬介 速水冠者頼信ヲ元祖トス

                   速水 住 渡辺勘兵衛   同 渡辺甚介

                   速水 住 今井林右衛門       と記す。

築城年代は定かではない。速水氏代々の居館で、六角氏、浅井氏に仕え羽柴秀吉に仕えた。秀吉に仕えて黄母衣衆の一人となった速水守久が著名である。

『淡海木間攫』には、速水村

 「当所ニハ七十二門トテ名家七十二家アリシト云、速水氏ハ根本山本源氏ノ一族ナリ、佐々木六角ニ属シテ京極家ニ属セス、後江南ニ住ス、速水右馬介実枝・速水勘六左衛門ハ六角高頼・定頼二代応仁の乱甲賀ノ砌軍功アリ、其後秀吉公長浜在城ノ比仕官立身ナリ、速水甲斐守ト号シ処々ニ働アリ、記ニ出ス、速水右衛門尉景益ハ公方方ニ出ツ、息信益ハ義直将軍軍ニ仕官、長享二年廿八日討死スと云、今井氏ト云者土俗ニアリ、慶長五年九月一六日東照宮ヨリ御朱印ヲ頂戴セシ由、今猶所持セリ、右関ケ原御合戦ノ時石田治部少輔光成敗軍此処へ逃隠レシヲ、田中兵部今井ノ家ニ有ヲ捜シ求メタリト云、又渡部監物ト云武士当村ニアリ、京極家ノ物頭ナリ、秀吉公横山・長浜等に在城ノ砌、息助兵衛処々軍記ニ出タリ、珠更賤ヶ嶽ニテ名誉アリ、其後伊豆ノ国韮山ニテ大功アリト云、息勘兵衛大阪ノ陣ノ時藤堂高虎ノ手ニテ軍功アリ、二万五千石ヲ拝知セリト云、又藪田与左衛門在住セリト云、秀吉公長浜在城之頃出テ仕官ス、立身シテ後伊賀守と云、諸記ニ出タリ」、と記す。

速水氏 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

速水 守久

はじめ近江国浅井郡の土豪であり(速水城)、浅井氏に仕えた。滅亡後にお市の方の子お茶々らの家臣として主従、羽柴秀吉に仕え、近習組頭、黄母衣衆となる

小牧・長久手の戦い、小田原征伐などに歴戦し、朝鮮出兵では肥前国名護屋城本丸広間番衆六番組頭を務めた。

平時には秀吉の身辺警護にも当たった。奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。

秀吉死後も秀頼に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。旗本部隊の中核を担った七手組の筆頭となる。

慶長19年(1614)、方向寺鐘銘問題が起こり、和平交渉に奔走した片桐且元が逆に内通を疑われるようになると、その調停に尽力する。結局且元は大阪城を退去させられ、その後も続いた豊臣家中の調停に努めた。

大阪冬の陣が始まると、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。同様に夏の陣では天王寺の戦いで真田信繁らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍したものの、衆寡敵せず大阪城に退却した。

千姫教育係であった守久は千姫を無事に徳川陣屋に送り届けた。徳川家康に秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられることはなく、自害する秀頼の介錯(毛利勝永とする説も)を務め、殉死した。武将、大名。豊臣氏の家臣。幼名は勝太。通称少太夫。名は他に時久・種久・時之・種之など。甲斐守。祖父速水寛政。父速水時久、子に守治・宗久・保久・貞久。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『ウィキペディア(Wikipedia)』

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新庄寺城(神照寺陣所) 近江国(長浜)

2016年03月21日 | 城郭寺院

お城のデータ

所在地:長浜市新庄寺町  map:http://yahoo.jp/vDDo-I

別 称:神照寺陣所

区分:城郭寺院

現状:神照寺

築城期:織豊期(城郭寺院化)

築城者:神照寺

遺 構:曲廓・土塁・空堀

目標地:神照寺

駐車場:神照寺の参拝者用無料駐車場を利用

訪城日:2016.3.20

お城の概要・・・萩の寺として有名な古刹がお城跡。

新庄寺城(神照寺:新庄寺町/神照町 )と神照寺城(田地:新庄中町小太郎 )とは、別で混同されているか?

 新庄寺城は、その名の通り神照寺が城郭化したものである。鎌倉期には足利尊氏と直義との対面が、また室町期には京極氏の陣所であったり、浅井氏に属し姉川の合戦時に信長によって焼き討ちにあうといった実に多くの戦火を見てきた寺院であった。

 寺の東側の稲荷神社・県営住宅も含めた長方形の曲輪であったと推定される。資料によれば、寺の南にある般若院から東の熊野神社境内を結ぶラインを内堀が巡らされ、その外側に更に外堀があったとか。

お城の歴史

 神照寺は、寛平七年(895)第五十九代宇多天皇様の勅命により、益信僧正(本覚大師)様が、初代の住職となり、七堂伽藍の具わった古刹を建立したのがおこりである。のち、兵火天災等の為、一衰一興する。
 花園天皇様の御代に、足利義政が、堂舎を修補し、中興開基の實雄僧正と共に寺門を興隆し、法流神照寺流を創始する。(寺運の隆盛、三百余坊の堂舎。寺門盛観を極める)
 観応二年(1352)九月下旬、足利尊氏公と実弟直義との和解の為、11月2日浅井郡錦織興福寺にて兄弟対面ののち、神照寺に仮泊して帰る。(このとき尊氏公が境内に萩を植えたと伝わる。)
 貞治年間 住僧菩提坊隆信本堂を再建企画。新造するが、天災にて焼失
 康暦二年(1381)隆信本堂を再建(京都嵯峨天龍寺より、本尊を迎える、入仏落慶は30年後(応永十七年二月五日)執行。
 大永三年(1523)京極氏の陣所となり兵火で山内が荒廃、焼失した。のちに、浅井氏が旧観通りに再建、天文年間(1533~1554)に浅井氏が中心となり正月三日に新年茶会を催していた。
 元亀元年(1570)姉川の戦いによる兵火で焼失した。
 天正元年(1573)小谷城の落城と共に兵火に遭い一時衰退した。
 天正十一年(1583)秀吉公が天下を統一すると、安堵状を頂き伽藍の大改修を行った。
 徳川の時代に朱印状を賜った。天阿上人が京都の愛染寺より住職となり、寺運の興隆に尽くした。(真言宗醍醐派)。
 明治時代中ごろ智山派に転派して今に至る。かつては神照寺流という雅楽の吹奏があり、毎年3月15日の涅槃会に吹奏されていた。

 秋には萩咲き乱れる「萩の寺」として有名。『神照寺案内板』より

 萩の寺で有名な神照寺は、

土塁西角の竹藪に残る土塁西から北へと土塁が残存駐車場から入った所に低土塁

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、遺跡ウォーカー

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大井城 近江国(虎姫)

2016年03月21日 | 平城


お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡虎姫町)大井町 map:http://yahoo.jp/5nFW0N

現 状:ケアセンター姉川

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:小野義教(大井兵庫頭)

城 主:大井兵庫頭(小野義教)・鈴木三右衛門

目標地:ケアセンター姉川

駐車場:城跡碑・説明板前に路上駐車

訪城日:2016.3.20

お城の概要

現在はケアセンター姉川の東側の道路に面して石碑と案内板が設置されている。

大井城は小字「竹之鼻」の辺りに築かれていた。この場所は「三右衛門屋敷」・「三右衛門淵」の名が残る。

 高樫三右エ門屋敷跡の30年ほど前まで、石垣を巡らした川や堀が残っていたが、整地され消失、屋敷の一角に石碑と説明板が設置されている。

大日孁貴(おおひるめむち)神社は、
古くは大井神社の境外社としての八幡社であったが、太政官布告によって大井村から分村するにあたり、八幡社は大井神社に合祀し、新たに大日孁貴神を勧請して氏神としました。本殿の四方には、逆立ちしたしゃちほこが神社を守っています。

 


お城の歴史
「近江佐々木南北諸氏帳」に「東浅井郡 大井 城主 佐々木隋兵 高橋越前守 同源左衛門 浅井隋兵 大井新左エ門 鈴木三左衛門」の記録が残る。

築城年代は定かではないが鎌倉期には大井城はあった。高橋備中守秀高の女が、犬上郡高宮城主高宮宗忠の室になった記録もも凝る残る。佐々木京極道誉の四男秀高が高橋氏と称したのは、高橋秀高の名称を継いだ。

小野義教が当地に住んで大井兵庫頭と名乗り居城とした。

浅井氏が台頭すると、大井氏は美濃国北方へ逃れて小野姓に復した。

その後、浅井氏の家臣鈴木三右衛門が城主となった。浅井長政の時、小谷城の支城である大井城は、戦いが始まってから真っ先に信長名攻め落とされた。

大井城最後の城主は岐阜県本巣郡北方の城主に着任したときに、その地に「大井神社」と大井と同じ聖観音を有する観音堂を建てたことが近年判明した。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板

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