城郭探訪

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南速水城(伯母屋敷) 近江国(湖北)

2016年03月25日 | 平城


お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町南速水 map:http://yahoo.jp/fqYU0K

別 名:伯母屋敷

区 分:平城

現 状:宅地・竹藪

築城期:

築城者:

遺 構:土塁、横堀、

標 高:93m  比高差:ー

目標地:熊野神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.3.20

お城の概要

南速水城は南速水集落の北側に遺構が残る。熊野神社から少し東へ進み集落の東端付近に北側に無線塔が建っている。この西側の竹藪の中に土塁の遺構が残存する。

集落の北側に東から西に字伯母屋敷は竹藪、奥屋敷は畑、北屋敷は明善寺が並び、

伯母屋敷には、今も土塁と堀が残り、複数の土塁囲いの屋敷跡の存在する。群郭式平地城館であった。竹藪の中に残る土塁や堀は明瞭である

「滋賀県中世城館調査報告」によれば北東隅部と思われるL字の土塁が二つ、北西隅部と思われるL字の土塁が一つあり、少なくとも三つの区画があったことが確認できる。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、浅井郡 速水 住 佐々木隋兵山本源氏 速水右馬介 速水冠者頼信ヲ元祖トス

                   速水 住 渡辺勘兵衛   同 渡辺甚介

                   速水 住 今井林右衛門       と記す。

渡辺勘兵衛 (石田家臣)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
渡辺 勘兵衛(わたなべ かんべえ)は、石田氏の家臣。別名で新之丞(しんのじょう)とも書かれ、こちらの表記で書かれることが多い。『佐和山落城記』に、石田三成に付き従った家臣の一人としてその名が見られる。

南速水集落には、小字「伯母屋敷」、「奥屋敷」、「北屋敷」といった地名があり、このうち「伯母屋敷」は石田三成の伯母の屋敷跡とか。

奥屋敷

伯母屋敷

北屋敷 

伯母屋敷南速水城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「伊香郡・東浅井郡の城」、『ウィキペディア(Wikipedia)』

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須賀谷館    近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

片桐市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)須賀谷町 map;http://yahoo.jp/WtDg-O
区 分:居館
現 状;山林
 
築城期:織豊期

築城者:片桐直貞
標 高:140m 比高差:20m
遺 構:郭・(石垣)・石碑・説明板

目標地:須賀谷温泉
駐車場:須賀谷温泉の奥の神社前空地駐車

訪城日:2016.3.20


お城の概要

小谷城主浅井久政の時代には、この一帯に家臣屋敷が造営され、鷹が巣を作る岩があったことから「巣ケ谷」と呼んだ。「巣ヶ谷」が「須賀谷」へ。

小谷城の南の麓に位置し、須賀谷温泉から上の斜面に郭跡らしき削平地が何段かある。浅井氏の家臣団の居館があったようで、その一角に片桐氏の須賀谷館があり、石碑が建つ。

観音堂は小谷城落城に際し、館の南側には小谷城の守り本尊観音像を移して祀ったとされ、その観音堂の石垣が残る。

お城の歴史

『淡海国木間攫』には、巣ヶ谷村「浅井家小谷山ニ城ヲ築、此地ヲ家士屋敷地トス、往古ヨリ片桐氏居セリ、浅井家士片桐孫右衛門ト云人、此谷ニ鷹ノ巣ヲ懸ル岩アル故。苗字ヲ巣ヶ谷ト改シ由、此人片桐市正カ親ナリト云、今樽片桐ノ末葉此村ニ住ス、即村役人庄屋作左衛門是ナリ、彼カ家ニ浅井城門ノ扉今ニ所持セリト云、鷹ノ巣ヲ懸シ岩、今ニ小谷ノ城京極丸ノ東谷ニ有ト云、

片桐下総守ハ義政将軍ノ直参ニテ、嘉尚卿御任官ノ時ノ役人ナリ、同備後守寛光・同備中守実方・同土佐守実貞・同若狭守実時何レモ記ニ出ス、同市正ハ賤ヶ岳七本槍ノ一人ナリ、英雄ノ名ヲ得タル人ニテ、世上専賞誉セリ」と記す。

片桐氏は信州伊那谷の名族片桐氏の一族。須賀谷館は、戦代に片桐直貞によって築かれた。 

片桐直貞は、信濃伊那谷の船山城主であった片桐氏の一族で、浅井氏仕えた。 直貞の子、且元は秀吉に仕え茨木城主となり、関ヶ原の役後は豊臣家家老職を務めた。 且元弟貞隆は、大和小泉で1万石を領して明治まで続いている。

 片桐孫右衛門(且元の父)も居住。 片桐且元は弘治二年(1556年)に生まれ、羽柴(豊臣)秀吉に小姓をとして仕え、その後、天正十一年(1583年)の賤ケ岳の戦いでは七本槍に数えられます。<現地案内板より> 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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東出館 近江国(浅井)

2016年03月25日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡浅井町)内保町東出  map:http://yahoo.jp/2WMS8T

区分 :居館

現 状:宅地・寺院

築城期:

築城者:

標 高:106m  比高差:-

目標地:内保農政会館・成満寺

駐車場:内保農政会館

訪城日:2016.3.20

お城の概要

 内保集落の小字東出が比定地。そこに成満寺と誓順寺があるが。東出は草野川の北西岸で両寺は東西に並んで建っている。

 成満寺の本堂裏には南北に58mの土塁痕と、その外側に平行して溝(堀)が確認できる。この土塁の上部がかなり削られていて、南部は平地と化している。石碑の建っている北端(道路添い)は寺庭の築山を兼用している高さは1m程あり、外周に堀が有ったようだ。

 誓順寺は成満寺の東に接しているが、明治期の地籍図によれば、成満寺付近に鍜状の藪地がみえ、残存する土塁の南北両端から西に伸びている。しかも、南面ののものは寺城方向にL字状に折れており、屋敷地の正面でった可能性が有る。尚、誓順寺の敷地付近には遺構らしきのもはないが、土塁で囲まれた敷地とほぼ同規模で四方に堀のある一角が見える。

お城の歴史

城郭歴史の築城期や築城者・領主など詳細不明。

 織豊期は、浅井長政の領地であったことから浅井氏の隋兵の居館か?

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 内保 」の記録はある。

内保集落の西出には、城郭化した寺院で、戦国期の湖北(湖北10ヶ寺)の一向宗の中心寺院一つ誓願寺(内保城)が存在し、成満寺・誓順寺の付近には僧坊や在地豪族の屋形群あったか?。

道路から土塁

成満寺の庭園

成満寺

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査「伊香郡・東浅井郡の城」

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疋壇城(疋田城)    越前国(敦賀)

2016年03月25日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地:敦賀市疋田  map:http://yahoo.jp/cBE5G0

別 名:疋田城
築城期:室町期・・・文明年間(1469~1487)

改築期:織豊期
築城者:疋壇対馬守久保

改築者:柴田勝家?織田信長?

区 分:平山城
遺 構:空掘・土塁・石垣・天守台(櫓台)
城 域:130m×300m
標 高:90m    比高差:20m
 福井県県指定史跡

目標地:西徳寺・疋壇城の案内ポール

駐車場:疋壇城の案内ポール横

訪城日:2016.3.23

お城の概要

国道8号線から疋田の集落に旧道に疋壇城の案内ポール建っている(ここに駐車)、集落とJRの線路の間一帯が疋壇城の城域。
 車で本丸下の登ることが出来るが。この空地は小学校の跡地で、小学校が建設されたことで疋壇城の約1/3に遺構が失われているが、小学校跡地から北側一帯には良好に遺構が残されている。

 この地は柳ヶ瀬越,塩津越,海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたものと思われる。

元小学校跡の空地から比高差5~6mの高台が本丸櫓台で、広さは10m四方。中央部に疋壇城址の石碑が建てられている。櫓台から北側に曲輪が広がるが、大部分は畑地として利用されている。
 この曲輪の西側に空掘が残り、空掘は北側では曲輪とも見える大堀切と繋がっている。堀切の北側には更に曲輪が続き、北麓の日吉神社まで遺構は広がっている。

 

お城の歴史

 疋田は、西近江路と東近江路が合流する交通・軍事上の要地であり、恵美押勝の乱でも有名な古代三関の一つ愛発(あらち)関の有力此定地でもある。
 疋壇城は文明年間(室町時代1469~1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保に築かせた城であり柳ケ瀬越え,塩津越え,海津越えの主要近江路が集まる要衝の地に、越前最南端の要衝を守る重要な拠点であった。 疋壇久保は西福寺宛て安堵状が残るので実在が確認されている。
現在も畑地の中のあちこちに石垣が残る。(福井県指定史跡)

 歴史的には、天正元年(1573)の織田信長により越前攻めの後、疋壇城は破却されたとされるが、疋壇城のあちこちに残る石垣や堀の土止めの石積み等は朝倉氏の城では見ることは出来ず、朝倉氏のものでない。

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の沓掛周辺に構築された諸砦の存在。

 

 朝倉氏を滅ぼした後の織田方による改修も考えられるが、朝倉始末記によれば、「元亀元年、信長によって平定された越前は、天正3年には“一揆持ちの国”となり、信長は天正3年8月に約5万の軍勢を仕立て、徳川軍1万3千、柴田勝家軍1万2千の他、合わせて約10万の軍勢で越前攻めを行う」とある。
 当時これだけの大軍を仕立てることの出来た信長が、わざわざ一向一揆衆を相手に疋壇城を改修するとは考え難く、残る可能性としては賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家によって改修されたことが考えられる。

 天正10年、清須会議後、湖北三郡と長浜城を手に入れた柴田勝家は、江越国境に玄蕃尾城を築き、玄蕃尾城と北庄城のほぼ中間地点にあり、交通の要衝の地にある疋壇城を対秀吉戦に向けて改修か?。

 (現在疋壇城の中核部東西に残る横堀も、玄蕃尾城に残る空掘と規模的にも同程度で、櫓台を主曲輪の隅の置く思想も玄蕃尾城と同じで、そんなところにも柴田勝家による改修か?。)

 信長軍の撤収後にいったんは修復されたらしく朝倉の臣・栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃により城主・疋壇六郎は討ち死にし、城は完全に破却された。

 

信長公記 巻三 元亀元年(1570) 金ヶ崎  越前手筒山攻落されの事

 信長公は越前の地へ足を踏み入れた。敦賀まで進んだ信長公は馬を懸け回して付近の地勢を検分し、手筒山城①を標的に定めるとすぐさま旗下の将士に攻撃を命じた。手筒山は金ヶ崎南東に屏風のごとくそびえ立つ高山であったが、将士たちは信長公の命が下るや一命を顧みずに坂を駆けのぼり、千三百あまりの首を挙げて一気に城を陥れた。
 手筒山に近接する金ヶ崎城には朝倉中務大輔景恒が籠っていた。手筒山を落とした翌日、信長公はこの城にも攻撃の手を向けた。刃向かう敵は殲滅する勢いで攻め寄せた織田勢の前に城衆は戦意を失い、まもなくして降伏した。
 つづいて疋田城も開城した。信長公は滝川彦右衛門・山田左衛門尉の両人を疋田に遣わし、塀を倒し櫓を降ろさせ、城を破却した。ここまではまさに破竹の勢いであった。

ところが四月二六日、突然浅井長政が離反したため、信長は敦賀を脱出し京都を経て岐阜に帰還した。
 この後、朝倉氏は当城を修築し、栂野三郎右衛門尉景仇・藤田八郎左衛門尉の諸将も置き防備を固めた。-----

巻六 元亀四年(1574)刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事

-----この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----敵勢は、中野河内口と刀根山口の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
----討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。----

  その後姉川の戦いを挟んで、天正元年八月十三日朝倉義景は刀禰坂戦いで大敗し兵力の大半を失う。朝倉軍は、織田軍の追撃にあいながら一旦この疋田城に篭るも、一四日早朝よりの猛攻に支えきれず落城し、朝倉氏の滅亡を招いた。この時 疋壇氏の将兵五百余人を始め朝倉軍三千余人が討死したとされる。---

 甫庵太閤記巻第六丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表(愛発・疋田)に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

ここに駐車。

天守台へ

南側の空堀

広場かた天守台

北側の空堀

大手道か?桝形虎口か?

 

虎口から天守台

北側の空堀

大手道?を集落へ 

旧道街道沿い

菩提寺へ 宗昌寺:福井県敦賀市奥野23-11

正面の林の中に疋田氏の墓

参考資料:越前若狭歴史回廊、信長公記、甫庵太閤記

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沓掛南砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月25日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市西浅井町沓掛(旧西浅井郡西浅井町沓掛)

区 分:山城

築城期:室町期   

改築期:織豊期(天正11年期の賎ヶ合戦)

築城者:熊谷氏   

改築者:丹羽五郎左衛門尉長秀

城 主:熊谷下野守直房

陣 主:丹羽五郎左衛門尉秀長

標 高:176.5m 比高差:40m

遺 構:櫓台、堀切、土橋、

目標地:集福寺バス停

駐車場:集福寺バス停の横空き地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

下沓掛バス停を過ぎた左手側に八幡神社が鎮座している。その一つ南東側の細尾根上が城跡。

獣除けの柵で、城山に入れない。集福寺若山城から大川沿いに登城、帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

日計山の北東斜面の端部で南から北方向に伸びる細尾根上に約100mの細長い削平地が二段設けられている。

下段の先端は、南奥を片堀切とし、東側が土橋になっており、先端部は約30m四方の北面に櫓台を備えた独立性の強い郭となっている。

塩津海道の監視を意識した砦である。城域の南端は、日計山に向け斜度がきつくなる所で堀切を設け、遮断している。

獣除けの柵で、城山に入れない

お城の歴史

弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

また、甫庵太閤記巻第六:丹羽五郎左衛門尉長秀志津嶽之城へ籠入事長秀其比は若州并江州之内志賀高嶋両郡を領し、坂本を居城とし有しにより、北国勢を押へん為、勢を分敦賀表に三千、塩津海津に七千賦り置、江北を静めける処に ・・・云々

塩津海津に七千騎もの、雑兵を入れるのは、塩津街道(塩津浜~沓掛)沿いには、この砦しか無い!

 

集福寺若山城から大川沿いに沓掛南砦へ

上の城域

国道8号線へ

帰りの獣除けの柵、大川沿いを集福寺若山城へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 

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