城郭探訪

yamaziro

西円寺砦  近江国(近江)

2016年03月28日 | 

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡近江町)西円寺 map:http://yahoo.jp/48imAY

区 分:平山城

現 状:山林・山頂

築城期:室町期

築城者:今井氏

遺 構:土塁、空堀

標 高:190m  比高差:80m

城 域:東西100m×南北300m

駐車場:西円寺駐車場

訪城日:2016.3.27

 

お城の概要

「淡海のお城」には竪堀などの遺構が残っていることが記載されているので、南側のピーク一帯(西円寺の裏手の山)が城域である。

西円寺の南西に張り出た尾根から登ると楽に主尾根筋に出られる。

 京極氏、浅井氏に従った箕浦城を本拠とする今井氏の砦とされます。今井氏菩提寺の黄檗宗西円寺の裏山一帯が砦址と推測されます。

西円寺地区の八幡神社境内横の山道から直登すると砦の北端。

道は途中でなくなるが、ら直登する岩場があり、この岩場を利用して砦を造ることも可能。尾根にでると南北に走る尾根道があり、北へ(右手)の道を辿る。この間、削平地らしきところが幾つかあるが、遺構は見られないまま、北側ピーク(丸山)に着く、北側斜面を降りる。斜面は急であるが、あちこちにこのルートでは砦の北端。
堀切?

現在は、西円寺地区にある八幡神社・西円寺館と南の山を越した米原高等学校を結ぶ道が通っています。切通しとなっていて、堀切のようにも見えます。

土塁の上から西円寺

集落奥の奇抜な山門のある黄檗宗西円寺周辺が舘跡とみられ、その背後の山や寺の東西に張り出す尾根に構えられたのが砦と思われる。
しかし、東西に張り出た尾根を除き、山上に山城らしき遺構は見当たらない。
中世城郭分布調査の城郭分布図に西円寺砦と示される寺の西189.7mの山頂まで登ったが、頂上や尾根上には城郭遺構らしきものは見つからなかった。強いて上げれば堀切?(切り通し)が2ヶ所と頂部から南に下った東斜面に畝状竪堀らしきものが見られたが、遺構ではないように思われる。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 西園寺大谷 住 今井備前守 ・住 今井駿河守 ・住 今井権平」と記す。

『淡海木間攫』には、西園寺村 「当所二古ノ城塁跡残レリ、是箕浦ニ居住セシ今井肥後守頼弘ノ末子今井権六住スル所ナリ、故アッテ父及家嫡ノ者劒ニ伏テ死ス、ソノ事新庄ノ部ニ載スルヲ以テ略ス、其時父ノ棒禄三分一ヲ以テ末子権六ニ与ヘ居住ノ地ヲカヘラレ、其替地ナリト見ユ、件ノ権六後孫ハ今ハ垣籠村ノ医師ト成テ居住ス」と記す

 西円寺の一帯は、京極氏根本被官であった今井氏の奥城跡で菩提寺でもある。境内の南西に張り出した舌状尾根に今井権六三代の墓が残されている。
今井氏14代今井権六秀俊は享禄元年(1528)の内保河原の戦いで六角方が敗れたため、浅井方に従ったが天文2年(1533)に浅井亮政に進退を疑われ神照寺で切腹させられた。
15代今井権六備中守定清は浅井方に属し、永禄4年(1561)太尾山城の夜襲で敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて討死し、また、子の今井権六丸(秀形)は秀吉に従っていたが天正11年(1583)に伊勢にて討死し、この三代が菩提寺である西円寺に葬られたとされる。

西円寺館

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』6「旧坂田郡の城 1989.3)、 淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会

2016年03月28日 | 山城

石垣が破壊され山肌と小石が散らばる佐和山城本丸の発掘現場 

『佐和山城跡伝本丸における範囲確認調査現地説明会』

開催要項 ■ 開催主旨

 彦根市には豊かな文化財が残り、それぞれが個性的で興味深い歴史を刻んでいます。市域北部には、中世から近世を代表する城郭遺跡である佐和山城跡と彦根城跡が存在し、それらは旧城・新城の関係で歴史的連続性を有しており密接な関係にあることから、本来一体の重要遺跡と考えることができます。

 このように、彦根を代表する二つの城郭遺跡ですが、現在の彦根の市街地形成のきっかけでもある彦根城跡は国の特別史跡に指定されており、大切に保護されている一方、彦根城の前身の城郭である佐和山城跡については、現地に良好な遺構が残っているにも関わらず未指定の遺跡となっております。

このような状況を踏まえ、彦根市教育委員会では佐和山城跡を特別史跡彦根城跡に関連する重要遺跡と位置付け、将来の史跡指定を視野に入れつつ、その歴史的重要性を探るべく平成 23 年度より佐和山城跡の総合調査を実施しております。
それらの総合調査の一環としまして、範囲確認(発掘)調査を進めております伝本丸の調査成果に関しまして、下記のとおり、発掘現場の現地説明会を開催することとします。 
■ 開催日   平成 28年3月 27 日(日) 午前 10 時 00 分から正午まで

■ 集合場所   龍潭寺前

■ 内容   文化財課の発掘調査を担当している学芸員が、 調査地周辺の概要と発掘調査成果をわかりや すく説明します。

■ 申込み 不要 ■ 参加費 無料

■ 募集対象   佐和山城跡に興味・関心のある方。ただし、小学生以下は保護者同伴。

現場および現場内は山中であるため、危険箇所も多々ありますが、各自で注意してご来場下 さい。

佐和山城跡全体は個人所有であり、所有者のご厚意により、調査および見学会を実施。

説明に参加しました。

切通(かもう坂通り往還)

塩硝櫓西の丸

西の丸と本丸間の堀切

本丸

角石垣

説明会の順番待ち

石垣が破壊され山肌と小石が散らばる佐和山城本丸の発掘現場

≪今回の調査でわかったこと≫

1.伝本丸における破城の状況の確認

石垣が崩された。

 ・石垣用の石材なし(彦根城へ石垣に転用・搬出)、石垣の裏詰め小石出土(佐和山の石・河原石少量)

 ・伝本丸の曲廓面が削られた。破城に伴い徹底的に削られたようだ。

 ・石垣の跡地が埋められた、本丸を削って大量の土砂で埋められた。深さ2.8mのところもある。


痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け(毎日新聞)

 滋賀県彦根市教委は24日、戦国武将・石田三成が居城としていた同市の「佐和山城」跡で、城を破壊する「城割り」の痕跡が確認されたと発表した。関ケ原の戦い(1600年)で三成が敗れた後、徳川家康方が「見せしめ」として徹底的に壊したとみられる

 佐和山城は佐和山(233メートル)に築かれた山城。三成は1590年に城主となり、5層の天守を構えたとされる。関ケ原の戦いの後、家康の家臣・井伊直政が入城したが、近くに彦根城を築いたことに伴い、1606年に廃城となった。

 

本丸絵図

西の丸(塩櫓)

発掘調査跡http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/4f3f4fbd6d13553c0fd19a9e9aad837b


帰りに雑兵に遭遇

石田氏家臣墓石群

観音堂の石垣

仏足石

石田三成公

観音堂の門龍潭寺の門

ボンネットバス

本日の訪問ありがとうございす!!


馬場城  近江国(長浜)

2016年03月28日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市新庄馬場町 map:http://yahoo.jp/zBFhHQ

現 状:寺院・集落

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬場氏

遺 構:土塁・堀

標 高:98m 比高差:ー

目標地:誓傳寺・新庄馬場会館

駐車場:新庄馬場会館駐車場

訪城日:2016.3.20

 

お城の概要

集落の北橋に流れる川寄川は新庄村と新庄中村の境をなし、北方には誓傳寺・浄覚寺、西方には福永荘の総社であった八坂神社や新庄馬場廃寺跡がある。西端の竹藪の中にある小池は屋敷庭の一部と伝え、さらにその西には御池と称す字名の残る。

馬場城は、新庄馬場地区の中心部にある誓傳寺・浄覚寺の境内を中心とする一帯に築かれていたと比定地。

 馬場会館から誓傳寺にかけて流れる用水路は、往時の堀の跡か。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 馬場 住 馬場清太夫」の名を記す。

  馬場城は、築城年代や築城者など詳細不明。

 

滋賀県中世城郭分布調査報告書には

誓傳寺の寺伝には、治承年間には福永重正が牛頭天の神体を作ったとあり、当地は福永荘の荘官館が考えられるが。

江州佐々木南北諸氏帳に見る「馬場清太夫」明応ニ年の総持寺文書に見える馬場頼秀など室町期には、馬場氏が居住した。

また天文五年の伊夫岐神社奉加帳には宇野弥五郎の名も見え、総社八坂神社には藤原出雲守なる人物がいて永正元年に相撲平八郎為則が同社を再建したと伝う。 

新庄馬場会館に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、江州佐々木南北諸氏帳

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