城郭探訪

yamaziro

谷氏館 近江国(信楽)

2016年03月11日 | 居館

遺跡ウォーカーの比定地

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町長野小字裏白 map:http://yahoo.jp/DJKlGK

区 分:居館(丘陵城)

現 状:丘陵畑地・宅地

築城期:

築城者:谷氏

標 高:377m 比高差:-

遺 構:不明・・宅地開発で喪失か?

目標地:谷川の橋、山長陶器

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.2.8

お城の概要

比定地は、丘陵上を新規開拓された分譲住宅の南側に畑地が残る。

断定はできないが、畑地の南側は谷川が流れ、切岸状になっている。また、畑地の所有者は谷氏で末裔だろうか?

お城の歴史

甲賀市史 第七巻『甲賀の城』p477に谷氏館跡 長野小字裏白  長野集落の北西にあり。遺構なし・・・とある。

遺跡ウォーカーの

谷氏館 [ 詳細情報 ]
時代:中世細分不明
所在地:滋賀県甲賀市信楽町長野
緯度経度:34.883500, 136.046306

参考資料:甲賀市史 第七巻『甲賀の城』、遺跡ウォーカー

   本日の訪問ありがとうございす!!感謝!!


丁野館  近江国(湖北)

2016年03月11日 | 居館

浅井氏発祥の地 丁野へ

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/g5b9IW

現 状:宅地・畑地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:浅井氏

標高:104m 比高差:-

目標地:岡本神社・小谷丁野自治会館

駐車場:小谷丁野自治会館

訪城日:2016.3.11

 集落の中心にある小谷丁野町自治会館。

イメージ 8
イメージ 9学校跡に建っている。
お城の概要
浅井家産湯の池跡がある、「五反屋敷」といわれ、宗家浅井氏の屋敷があった所。隣りには岡本神社が鎮座。丁野は小谷城浅井氏の発祥の地。
集落には、岡本神社や観音堂の浅井氏の誕生地、産湯の井など碑・説明板、神社の由緒書きにも詳しく記されている。
 
丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

 三条公綱お手植えの銀杏。

 三条公綱の屋敷地との伝承のある岡本神社の境内

 浅井亮政(浅井長政の祖父)生誕地説明板

お城の歴史

【岡本神社由緒】

当社は延喜式内神名帳所録、近江国浅井郡十四座の一にして元岡山に鎮座せり
往古より大門の地に祭供田と称する祭田あり。
是、京極持清の奉納する所にして免除地なり。
嘉吉2年(1442)三条大納言公綱卿丁野に配流の際、当社に祈請する所ありて、拝殿一棟献納せらる。 又舞楽堂は藤原公の寄進なり。
中古浅井氏代々の祈願所なり。
天正元年(1572)織田氏兵乱の際、朝倉義景勢(堀甚助・久保十郎・玉泉坊等)此所岡山に立籠る。
玆に戦利あらず、拝殿一棟を残し、社殿その他古文書等悉く焼失す。
同年12月神官、脇坂和泉尉霊夢を感じ、現在の地に再建遷座す。
豊臣氏よりも祭供田奉納あり。 徳川氏検地の際も免除地となれり。


丁野村絵図【縦73.2㎝×横130.0㎝】

平成22年(2010)の合併以前は東浅井郡湖北町に属していた。『近江輿地志略』によると古代の仕丁に村名の由来を求めている。二ノ坪、六ノ坪など古代の条里と関係がある字名が残る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『江北記』『日本城郭大系』11、『滋賀県中世城郭分布調査』1、『滋賀県中世城郭分布調査』2「旧野洲・栗太郡の城」『滋賀県中世城郭分布調査』3。

 本日の訪問ありがとうございます!!感謝!!

 


弘聖寺 近江国(能登川)

2016年03月11日 | 居館

弘誓寺 

弘誓寺の始まりは、791年建部社の神宮寺・大願寺として開創されたことにあると伝えられている。

その後、源平合戦の武者・那須与一の七人の子供が近江に建立した弘誓寺七ヶ寺の一つとして、

1259年に二男が大願寺を再興して弘誓寺を建立している。
<近江の七弘誓寺>
  報身山弘誓寺:東近江市建部    浄土宗
  金剛山弘誓寺:東近江市瓜生津   浄土真宗本願寺派
  石畠山弘誓寺:東近江市五箇荘   真宗大谷派
  石畠山弘誓寺:東近江市躰光寺   浄土真宗本願寺派
  弘誓寺   :東近江市小田刈   浄土真宗本願寺派
  至心山弘誓寺:東近江市中一色   真宗大谷派
  弘誓山稱名寺:犬上郡豊郷町石畑  浄土真宗本願寺派

繖山を西に望む田園にどっしりと構える風景は、那須与一に関係する
趣を想像させてくれる。
庫裡裏の庭園も整備され、かっては浄土宗の大寺であった面影が残っている。

石畠山 弘誓寺(ぐせいじ)

滋賀県神崎郡能登川町躰光寺990

弘誓寺表門(弘誓寺・躰光寺)

この門は、大型の四脚門に入母屋造りの屋根をかぶせた門です。 門が建てられた時期は、部材の模様などから江戸時代後期と考えられます。
また、境内には諸堂が当時のまま残っていて、伽藍配置構成の上からも重要な遺構です。

能登川の文化財 http://www.town.notogawa.shiga.jp/maibun/bmap/index.html

第一番札所 報身山 弘誓寺 滋賀県東近江市建部下野町 282

072gusei源平の戦いも扇の的だその名を知る那須与一に七児が在りそれぞれ一寺を建て弘誓寺と稱したと云い今に傳わると云う 庫裏も古風に感じる土蔵造りで漆喰の白壁は眩しく書院客殿は塀で囲み美しい庭園を想像させる 他の寫真 弘誓寺 地圖

第二番札所 金剛山 弘誓寺 滋賀県東近江市瓜生津町 1314-1

131gusei2門前に二本の松の木が在り茅葺きの山門の柱を新しくする改修をし古きを守る姿は好い景色で在る 山門を過ぎれば親鸞聖人像が在り此処も松の木が在る 大本堂は軒柱を立てる真宗によく見る姿で向拝を廣く取って堂横には大庫裏を置く 弘誓寺 地圖

第三番札所 金龍山 弘誓寺 滋賀県東近江市五個荘金堂町 615

12zgusei3近江商人のふる里で金堂の町並みは白壁と蔵屋敷の並ぶ町並みは心温まる 商人屋敷も幾つか見る事が出来て成功の道しるべも見える感じがする 金堂町掘り割りが走り錦鯉が泳ぎ別世界で在る 真宗の特徴強い大本堂を持ち松の木の多く育てて大きく灯籠を置く 古い井戸の石組が残される 滋賀県 地圖

第四番札所 石畠山 弘誓寺 滋賀県東近江市躰光寺 979

 他の寫眞 滋賀県 地圖

第五番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市小田刈 413

12zgusei2参道には親鸞上人像が在り白土塀を巡らして山門が在る に密着した寺院に見え庫裏も本堂と列ぶが民家風で好印象で在る 横には豪商小林家の屋敷を開放して資料館とし商売の看板に始まり商いの帳簿類商用具等を展示し又家族の生活が見れる等具も展示する 庭園も豪華に在る 滋賀県 地圖

第六番札所 浄土真宗 弘誓寺 滋賀県東近江市中一色 380

 桁行約14m,梁間約15m,入母屋造で,正面に3間分の広い向拝を付す。三方吹き放しの縁を回した外陣の先に一段高く矢来を取り,その奥中央に後門形式の内陣,両脇に余間を配す。縁先に軒支柱を立てた形式で,近世末浄土真宗大型本堂の姿をよくとどめる。滋賀県 地圖

第七番札所 浄土真宗 本願寺派 弘誓山 稱名寺 529-1169 滋賀県犬上郡豊郷町石畑473

文治元年(1185)那須与一の次男宗信創立という。文永11年(1274)宗信中興、


 那須 与一   嘉応元年(1169)~不詳(不詳)   没年齢 不詳
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那須氏の祖は藤原道長の曾孫・資家、下野国那須郡に下向して須藤(那須の藤原氏)貞信と名乗ったのが始まり。与一の父資隆が初めて那須を名乗って以後はその姓を継承した。妻は新田義重の娘と伝わる。
吾妻鏡には与一の記載がなく、平家物語あるいは源平盛衰記など軍記物にのみ記事が見られるため、実在は疑われている。元暦二年(1185)の屋島で扇を射る(審議には諸説あり、個人的にはフィクションと考える)などの軍功を挙げ、頼朝から丹波・若狭・武蔵・信濃・備中に荘園を得た。
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与一は文字通りの十一番目に生まれた男子だったが、源平争乱期に兄達が平家に味方するなどしたため繰り上がって家督を継ぎ、逃亡中の兄弟を赦免し領地を分け与えて那須氏発展の基礎を築いた、と伝わる。晩年については諸説があり、これも明確ではない。子孫は那須七騎と称されて独立性が強く、那須氏・芦野氏・福原氏・千本氏・伊王野氏・大関氏・大田原氏に分かれ繁栄したが室町時代に分裂し没落した。