城郭探訪

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野尻城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市野尻町 map:http://yahoo.jp/FBwAXz

現 状:田地・宅地・集落

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:野尻氏

標高:99m 比高差:ーm

目標地:野尻自治会館

駐車場:野尻自治会館

訪城日:2016.3.17

お城の概要

旧栗太郡の多くの村々がそうであったように、野尻も、江戸時代以来の農村風景を留めてきましたが、野尻は、栗東市の北部に位置し、守山市と接しています。地名の由来は「一郷の野の下部に位せしより付せられし名なるべし」(『近江栗太郡志』)とされ、農業を生業とする集落でした。

野尻集落にあったとされる平城。 築城時期など、詳細は一切不明。

野尻自治会館および周辺の農地付近にあったと考えられるが、詳しい位置は不明。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 野尻 住 野尻豊吉」の名を記す

縄文時代の石器にさかのぼります。以後、弥生時代の拠点遺跡や古墳時代の豪族居館など、人間の生活を物語る遺物や遺構が確認されています。また、地区内には、鎌倉時代(13世紀)の神像を伝える日吉神社や、永禄2年(1559)開基の安楽寺があり、今日まで続く野尻の信仰の拠点となっています。

 江戸時代の野尻は石高438石余りの農村で、野尻村の人々は隣村の下鈎村や糠田井村に田地を所持し、耕作を行なっていました。

 野尻自治会には、江戸時代の人々が助け合い、連帯するために組織した講や、様々な慣行に関する文書が残されています。また、地区内を中ノ井川が流れる野尻の特色の1つは、生活に必要な水を確保するための池が地区内に複数あったことで、それらの池の中には、下流の綣や北中小路の田地の用水となっていたものもありました。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、さきろぐ

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伊勢落城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 平城

伊勢落城 概要図・・・藤岡英礼氏作図(栗東市教育委員会)

お城のデータ

所在地:栗東市伊勢落 map:http://yahoo.jp/JxRUZb

現 状:寺院・宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:武村氏

目標地:真教寺

駐車場:真教寺駐車場

訪城日:2016.3.17

お城の概要

伊勢落集落は、旧東海道の石部宿の隣に位置し、伊勢落とは、伊勢大路が転訛したものと言われ、かつて条里制 が行われた際、栗太郡の基点一条一里はこの地から始まっている。 山沿いに鎮守する寿泉神社は明治以前十禅師社と称した。天暦7年(953)栗太郡の豪族で小槻大社を祖神とする小槻宿禰が勧請したと伝える。境内には、高さ125㎝の石幢(いしどう)がたっている。幢とは、「かざりはた」のことで、これを石でつくったため「石幢」と呼ばれている。塔身にはその六面に地蔵菩薩の立像が陽刻されており、当地における六地蔵信仰の様子を示している。

真教寺の背後の土塁・濠堀

 お城の歴史

浄土真宗本願寺派。永徳 2 年 (1490)僧淨願開基。享保 4 年 (1719)木仏安置、寺号公称許 可。

境内とその周辺には大きな 土塁や壕跡が残る

日光山(日向山?)山頂 を物見台とする本城で、中世武士武村氏の居城

 斎王郡行

 斎王郡行と伊勢勅使は、きわめて重要な行事であったため、文献に散見する。表3は、現在までに確認できるものを一覧にしたものである。斎王が甲賀郡を初めて通過した記録は、「阿須波新道」の開設と同時に斎王繁子が群行した時のものである。さらに『西宮記』によると、醍醐天皇が即位した2年後の昌泰二年(899)九月に斎王柔子が群行している。この時の旅程は、八日の夜に京都を出発し、九日「勢田」、十日「甲賀」、十一日「垂水」、十二日「鈴鹿」、十三日には「壱志」に至っている。 『延喜式』によれば、斎王群行は九月に行うのが恒例となっている。頓宮は、近江国府(瀬田)・甲賀・垂水・伊勢国鈴鹿・壱志の五ケ所であり、禊を六ケ所の界川、すなわち近江勢多川・甲賀川(野洲川)・伊勢鈴鹿川・下樋(雲出川)・小川(櫛田川)・多気川(宮川)で行なうこととなっている。この野洲川で行う禊は、野洲・栗太・甲賀三郡の境界に位置する伊勢落村付近であったと考えられる。

伊勢落村は『近江與地志略』によると、かって「伊勢大路村」と称していたとする。現在も野洲川の堤防に沿った田の中に斎宮跡の伝承地がある。文献的にも、『帥記』の承保元年(1074)、『中右記』の永久二年(1114)、『愚昧記』の治承元年(1177)などに野洲川の禊の関係する記事がみられる。

 伊勢落村は、伊勢路のなごりの場所であり、三郡の境界に接し、禊の地としてふさわしい地点であったものと思われる。

岩上神社

岩神あるいは石神ともいう。巨石や巨岩に神が宿るという古 代の自然信仰に由来する。

東海道に沿った細長い伊勢落の集落は、東西に二分され、西は岩上神社を氏神としています。大正時代の『近江栗太郡志』には、岩上神社は元は日向山山頂の岩の上に祀ら れていたが、室町時代の文明3年(1471)に兵火で焼失し、永正元年(1504)に現在の地に遷宮されたとあります。

また、『葉山村郷土誌』には、同社は遷座前、日向山の巨岩の上に祀られていたためにこの名がついたとあります。

江戸時代の『近江輿地志略』にも、日向山中の巨石が岩上社旧社地「鎮座石」の名で紹介されています。伝承ですが、岩上神社は素朴な岩神、巨石信仰に源を持つ社であったようだ。

伊勢落の千本松

伊勢落の東端、JR草津線の線路脇に大きな松と鳥居が立っている一枚の写真があります。

千本松(写真:栗東歴史民俗博物館)

この松は「伊勢落の千本松」と呼ばれた松で、さまざまな伝説が伝えられています。

寛永11年(1634年)のこと野洲川の堤防が決壊し、川上から一尺余りの松と三尺四方の大石が流れてきました。
伊勢落村の伝兵衛という人は「この松を植えて成長させれば村の栄えと私の極楽往生がかなえられる」と信じて松を育てたそうです。

またこの松は別名「御祓松(おはらいまつ)」とも呼ばれていました。伊勢斎宮の禊(みそぎ)の所であったとも伝えられているからです。

また一里塚や古墳であるともいわれたこともありましたが明らかではありません。

かつては老松の名で指定文化財にもなっていましたが残念ながら昭和55年に枯死してしまいま 現存していません。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン資料

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大西城(大西館)   近江国(栗東)

2016年03月18日 | 文化財

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/UaQIvT

別 称:大西館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:大西氏

目標地:JR手原駅、真慶寺

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

お城の概要

大西氏代々の居城。 築城時期など、詳細不明。

JR手原駅の南西部に「大西市上右衛門屋敷」と伝わる土地があり、かつては堀や土塁の跡があったとされる。 現在は区画整理によって遺構は消滅している。

 三雲山 真慶寺 520-3047 滋賀県栗東市手原4-4-2 http://yahoo.jp/2dzuFe

浄土宗。本尊の阿弥陀如来像は 仏師、春日の作と伝える。地蔵 菩薩立像は弘法大師の作とい う。

寺伝では、もとは栗本寺と いう大きな寺であったと伝え る。中興の大西大和守再建


お城の歴史

大西大和守は、近江守護佐々木承禎に仕えた当地出身の武士。

城郭分布調査に、「『近江栗太郡志』は、手原駅西南に「大西市上右衛門屋敷」と伝える地があり、周囲の堀・土手が残存するとしている。薮地あったが、現在は区画整理により消滅。」 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

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新善光寺館 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 城郭寺院

 お城のデータ

所在地:栗東市林(旧:栗太郡栗東町林) map:http://yahoo.jp/BmJ3VO

区 分:城郭寺院

現 状:寺院

標 高:210m 比高差:40m

遺構等:寺院、堀・庭園

築城期:鎌倉期

築城者:平宗定(高野左衛門尉宗定)

目標値:栗東市林の新善光寺

駐車場:新善光寺駐車

訪城日:2016.3.17

 

歴史…開基(鎌倉時代中期)

開基については、鎌倉時代の中期、平清盛の9長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定が信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢で託宣を受けて、分身の阿弥陀如来の持ち帰り(造像したとも言われています)、建長5年(1253)、この地に一宇を建立して安置したのが始まりと言われています。

平家の落武者伝承

 一説には、小松宗定は平重盛の末裔で、名前を平宗定といい、当地に落ち延びた宗定は、高野左衛門尉と称し、平家一門追善のために開いたとも言われています。 また、新善光寺は、金勝寺別院の一つだったとされる多福寺が前身であったのではないかと推測されています。

 栗東には、その他にも平家の落武者伝承は残っていて、金勝寺で仏門に入り、修行を積んで山麓に御堂を建て、農業をしながら平家一門の菩提を弔ったという三因寺(栗東市井上)や出家して金勝寺で修行し、金勝山にある国見岩より故郷を偲んだとされる伝承などが残っています。

建長5年(1253) 平清盛の長子小松内府重盛の末裔小松左衛門尉宗定

 鎌倉中期、平家一門の菩提を弔うために、信濃の善光寺へ四十八度の参詣をして、願を成就して善光寺如来の分身を安置したことに始まる。

新善光寺略縁起 開山上人
 源平の乱(治承の内乱)の後、平清盛の長子、小松内府重盛の一族で、小松左衛門慰尉宗定という人が、この地にのがれ住み、当地の地名を取って、高野宗定と称された。宗定公は、平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ48度の参詣を発願された。

夢定中の霊告(ゆめのおつげ)
 その後、宗定公は12年を経て、この願を成就されたが、その満願の未明の頃、信濃善光寺如来より、夢の中でおつげを賜り、「江州(滋賀県)一円の衆生済度(しゅじょうさいど)のため、我、(善光寺如来の御分身)を連れ帰れ」という霊告を得られた。宗定公はこの霊告(おつげ)を深く慶び、夢より覚めると御分身如来が、宗定公の眼前におたちになっていた。

御分身如来の請来
宗定公は深くよろこび御分身如来を頂き、現在のこの地に請来された。時に建長5年(1253年・鎌倉中期)1月13日のことである。宗定公の御影は、50年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。

本田俊次候(ほんだとしつぐこう)
寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次候は、あらたかな善光寺如来に深く帰依(きえ)され、三間四面の本堂を寄進され、略縁起(りゃくえんぎ)を著され、奉納された。 その後、県下一円に当寺の名が広まり、多くの信者が集まる所となり、地方屈指の名刹となった。中でも、1月13日御判日(ごはんび)、春秋のおひがん、8月のおせがきは、多くの参詣者がおまいりされた。

有栖川宮家御帰依(ありすがわのみや ごきえ)
明治元年、有栖川宮殿下の三回忌に当たり、宮家より追善のため御尊牌(おいはい)が奉安された。この際、宮家から御幕と提灯(ちょうちん)の寄進と、各種証文を賜った。                     

枯山水庭園

 膳所藩主本多俊次が本堂を再建した時、回廊(西側)と庫裡(南側)に囲まれた枯山水庭園を一緒に作りました。

 庭の北側から東側にかけては、高さ1.6メートルほどの築山となっています。さらに北側には第二次世界大戦まで百畳敷きの客殿があったといわれ、この築山が本殿と客殿の境界の役目をしていたと思われます。

 また、近江富士として知られている三上山や菩提寺山などを借景した庭には、中央に大きな亀島を設けることで、その護岸には亀の手脚を表現する横石手法が見られ、巨大な亀が北上する動きが表現されています。

 参考資料:栗東市観光協会の新善光寺HP、史跡ウォーカー、栗東市地域資源活用ビジョン資料

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手原城 近江国(栗東)

2016年03月18日 | 居館

 

お城のデータ

所在地:栗東市手原 map:http://yahoo.jp/Xy3SfG

別 称:大西館

現 状:社地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:馬淵広政・・・手原氏(里内氏・里中氏)

目標地:JR手原駅、里中稲荷神社

駐車場:手原赤坂会館

訪城日:2016.3.17

稲荷神社は手原の里内(里中)氏の「家運擁護之神」として始 まったが、文明 3 年(1471)から手原村の産土神として四月 の最初の午の日に祭礼を行うようになったという。

赤坂山記念碑
 抑 赤坂山六町七反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し 明治二十二年の頃 当時の現住民七十二名の共有山として区長管理の下に 玉梅社等の協力を得て その保安に努めて来たのである
 この間明治四十二年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当 その後植栽を行い幸山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として区の財政に多大の寄与をなして来た。
 
 即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し 区民の福利増進施設として 手原赤坂会館と命名之を建設する     昭和四十四年九月二十三日


手原稲荷神社がある。朱塗りの囲い木柵の前に

「明治天皇手原御小休所」と刻んだ石碑が建つ。
 (境内にも「明治天皇御聖蹟」の碑あり)
 その先が神社入口で、左脇に立派な由緒書きの石版(解説板)がある。

お城の歴史

稲荷神社由緒
 里中大明神 木造男神座像 室町時代


当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。

寛元三年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、文明三年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文四年(1535)手原重政武運を祈り尊崇を深める。慶弔十七年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享三年(1686)と享保八年(1723)に社殿の再建あり、明治二年改築、明治九年十月村社に列す、昭和六十一年修復工事を施行。

当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。

 東海道名所記に「左の方に稲荷の祠在り、老松ありて傘の如しなり、笠松と言う」と記され、江戸時代は笠松が有名であった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、栗東市地域資源活用ビジョン、遺跡ウォーカー

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