
お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町鎌掛 map:http://yahoo.jp/p6omGx
現 状:田地
区 分:居館
築城期:室町期?
築城者:
遺 構:
標 高:139m 比高差:ー
目標地:日吉神社
駐車場:鎌掛・日吉神社に駐車
訪城日:2016.3.28
お城の概要
御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)は、詳細不明。
日野 鎌掛村の、御代参街道(江戸期に整備=東海道と中仙道を結ぶ間道)沿いにあった。今は圃場整備で遺構は消失したが。
春日野局も伊勢神宮に詣でて、御代参街道を通り八日市村で宿し、江戸城へ上がったと記録が残る。
御師(おし)は、全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。御師は地方では丁重な待遇をされた。
「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)本居宜長記念館HPより
お城の歴史
御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)の歴史の詳細不明。
御代参街道沿い
遺跡ウォーカーの比定地
街道沿いの地蔵堂
鎌掛の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鎌掛(かいがけ)は滋賀県蒲生郡日野町にある大字鎌掛。はかつて同区域に存在した鎌掛村(かいがけむら)について
近江盆地と甲賀郡・伊賀国を結ぶ主要な間道の沿線で、笹尾峠は甲賀郡土山へ抜ける重要な峠であった。中世には間道を押さえるために蒲生氏が音羽城(のち中野城)の支城として鎌掛城(貝掛城)を築いた。 近世になると間道は御代参街道(土山~五箇荘・小幡)として整備され、鎌掛は八日市村(現:東近江氏八日市地区)・岡本村(現:東近江市蒲生岡本町)・石原村(現:日野町石原)とともに脇宿に指定され、発展した。宿場町であると同時に、近江商人として成功を収める村民も多かった。1787年(天明7年)時点で、日野商人の大当番仲間(現代でいう商業組合)に加入する村民が20人おり、いずれも関東地方に出店していた。1868年(慶応4年)の村の明細帳には、114人の村人が関東地方の出店へ奉公人として働きに出ていたと記録されている。
江戸時代には、初期は幕府領、1627年(寛永4年)から伊予松山藩領、1933年(寛永10年)から再び幕府領、1680年(延宝8年)から甲斐甲府藩領、のち再び幕府領、1711年(正徳元年)から遠江掛川藩領、1746年(延享3年)から再び幕府領、1763年(宝暦13年)から陸奥棚倉藩小笠原氏領、1817年(文化14年)から棚倉藩井上氏領、1836年(天保7年)から上野館林藩領、1845年(弘化2年)から棚倉藩松井松平氏領、1866年(慶応2年)から幕末まで武蔵川越藩領であった。1868年(慶応4年)には一時的に西大路藩の預地となっている。1846年(弘化3年)には館林藩井上氏の移封を不服とし、鎌掛村を含む13か村の領民総代が幕府老中に駕籠訴を起こしている。寛永石高帳の記録では鎌掛村の石高は1403石余。慶安2年の記録では田1015石余、畑・屋敷206石余、永荒182石余。天保郷帳の記録では石高1634石余。














参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、本居宜長記念館HP
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