城郭探訪

yamaziro

仮称)中山城 近江国(日野)

2016年03月29日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:蒲生郡日野町中山西谷  map:http://yahoo.jp/F71HYy

現 状:山林

遺 構:廓・土塁・

区 分:丘陵城(関氏の詰め城か?)

築城期:織豊期

築城者:蒲生氏の家臣 関一政?(光明院に蒲生一族の墓石)

遺 構:廓・土塁・切岸

目標地:光明院・中山西会議所

駐車場:中山西会議所に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要
日野中山西集落の光明院の東側丘陵上(境内か?)綺麗清掃され、今は珍しい半鐘塔が建っている。

その丘陵への登り道を進むと竹藪がある、中でシイタケ栽培をされているが、南側は削り残した土塁・東側を削り込んだ平削地、北側は切岸状で10m×10mの廓が残存する。綺麗清掃され舌城の西側丘陵も城郭遺構か?

また、光明院には「蒲生一族の墓石」が残る。

お城の歴史

蒲生氏郷は、・・・その後は清州会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、氏郷自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた

蒲生氏の家臣 関一政 (?~1625年)

 関盛信の子。天正十年末、蒲生氏郷は布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、関一政に嫁がせた。天正十一年、伊勢亀山城主。天正十二年、織田信雄と戦う。同年、蒲生氏郷から一万石を賜る。天正十八年、韮山城攻めに参加。同年十月、白河城四万八千石。文禄四年、豊臣秀吉から蒲生秀行の補佐を命じられる。慶長三年、蒲生家から独立し、信州川中島三万石。慶長五年、関ヶ原合戦で西軍に属し、竹中重門と共に東軍の犬山城を攻める。竹中重門が東軍に寝返る際、その説得を受けて共に寝返る。慶長十五年七月、伯耆黒坂五万石。慶長十九年、大坂冬の陣に参戦。家臣同士の争いが起きた事から改易される。寛永二年十月二十日没。甥氏盛が跡を継ぐ

 関氏盛 (?~1674年)

   関盛吉の子。伯父一政の跡を継ぐ。安芸守。近江蒲生郡五千石。幕府寄合衆となる

廓内に墓石


中山西集落

光明院参道

蒲生氏の墓石

参考資料:光明院説明板、蒲生氏の家臣団

 本日の訪問ありがとうございす!!


御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)   近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

城のデータ

所在地:蒲生郡日野町鎌掛 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期?

築城者:

遺 構:

標 高:139m 比高差:ー

目標地:日吉神社

駐車場:鎌掛・日吉神社に駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)は、詳細不明。

日野 鎌掛村の、御代参街道(江戸期に整備=東海道と中仙道を結ぶ間道)沿いにあった。今は圃場整備で遺構は消失したが。

 春日野局も伊勢神宮に詣でて、御代参街道を通り八日市村で宿し、江戸城へ上がったと記録が残る。

 御師(おし)は、全国あちこちの大きな寺社にいるが、御師(オンシ)と言えば伊勢神宮の下級神職。太夫とも言う。下級と入っても全盛時代には伊勢の宇治(内宮)と山田(外宮)で1,000軒あったと言う説もあるくらい数が多く、規模もさまざまであった。
 仕事は祈祷の委託や参拝者の宿泊、案内を業とし、地方の檀家に御祓、伊勢暦、また土産物を配り初穂料を頂き、また伊勢参拝を勧誘した。つまり今の旅行代理店、ホテル、そして伊勢神宮出張所を兼務したものと考えて頂くとよい。御師は地方では丁重な待遇をされた。

「これは伊勢の御師で御座る、毎年今時分は、国々旦那廻を致す、当年も廻らうと存ずる、誠に大神宮の御影程有難い事は御座らぬ、斯様に国々廻れば、何方にても御馳走にあふ事で御座る」(狂言『禰宜山伏』)本居宜長記念館HPより

お城の歴史

御師尻(おしがしり)屋敷(御師尻館)の歴史の詳細不明。

 

御代参街道沿い遺跡ウォーカーの比定地街道沿いの地蔵堂

鎌掛の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鎌掛(かいがけ)は滋賀県蒲生郡日野町にある大字鎌掛。はかつて同区域に存在した鎌掛村(かいがけむら)について

 近江盆地と甲賀郡・伊賀国を結ぶ主要な間道の沿線で、笹尾峠は甲賀郡土山へ抜ける重要な峠であった。中世には間道を押さえるために蒲生氏が音羽城(のち中野城)の支城として鎌掛城(貝掛城)を築いた。 近世になると間道は御代参街道(土山~五箇荘・小幡)として整備され、鎌掛は八日市村(現:東近江氏八日市地区)・岡本村(現:東近江市蒲生岡本町)・石原村(現:日野町石原)とともに脇宿に指定され、発展した。宿場町であると同時に、近江商人として成功を収める村民も多かった。1787年(天明7年)時点で、日野商人の大当番仲間(現代でいう商業組合)に加入する村民が20人おり、いずれも関東地方に出店していた。1868年(慶応4年)の村の明細帳には、114人の村人が関東地方の出店へ奉公人として働きに出ていたと記録されている。

 江戸時代には、初期は幕府領、1627年(寛永4年)から伊予松山藩領、1933年(寛永10年)から再び幕府領、1680年(延宝8年)から甲斐甲府藩領、のち再び幕府領、1711年(正徳元年)から遠江掛川藩領、1746年(延享3年)から再び幕府領、1763年(宝暦13年)から陸奥棚倉藩小笠原氏領、1817年(文化14年)から棚倉藩井上氏領、1836年(天保7年)から上野館林藩領、1845年(弘化2年)から棚倉藩松井松平氏領、1866年(慶応2年)から幕末まで武蔵川越藩領であった。1868年(慶応4年)には一時的に西大路藩の預地となっている。1846年(弘化3年)には館林藩井上氏の移封を不服とし、鎌掛村を含む13か村の領民総代が幕府老中に駕籠訴を起こしている。寛永石高帳の記録では鎌掛村の石高は1403石余。慶安2年の記録では田1015石余、畑・屋敷206石余、永荒182石余。天保郷帳の記録では石高1634石余。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、本居宜長記念館HP

   本日の訪問ありがとうございす!!


西大路館  近江国(日野)

2016年03月29日 | 居館

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町村井 map:http://yahoo.jp/p6omGx

現 状:畑地・竹藪

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:藤岡才六

遺 構:土塁・土壇・屋敷割・堀

標 高:139m 比高差:ー

目標地:滝の宮神社・佐川印刷の寮

駐車場:佐川印刷の寮の近くに駐車

訪城日:2016.3.28

お城の概要

仁正寺庁の西約500m西、往古日野川に突き出した河川岸に位置する。

現状は畑地・梅林・竹藪をなり、基壇や廓割が残るが、詳細は不明。

お城の歴史

 大永3年(1523)蒲生氏が日野の地に日野を築城した。賢秀の代に織田信長の臣下となった。天正12年(1584)蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降廃城となった。

元和6年(1620)市橋長政が越後国三条より2万石で入封し、日野城(中野城)の一部に陣屋を構えた。元和8年(1622)、長吉に2千石分知し、慶安元年(1648)、市橋政信の弟政直に1千石分知し、1万7千石となった。文久2年(1862)仁正寺を西大路藩に改称した。

以降江戸時代を通じて、市塙氏は日野を離れる事もなく10代長和の代に明治維新を迎えた。

詳細不明だが、福円畑地蔵尊は、関ケ原の合戦(1600)の頃、この地住んでいた藤岡五郎平家初代佐右衛門宋悦翁「医者」の子 才六は百姓となり、尼寺「福円庵」の屋敷跡が荒廃していたのを譲り受け開墾していたところ、石地蔵を掘り出し畑の付近お堂を建てお祀った。才六は市橋氏が仁正寺藩主となって2年後元和6年他界した。

参考資料:遺跡ウォーカー、滋賀県中世城郭分布調査1、「日本城郭体系」11,ウィキペディア

 本日の訪問ありがとうございす!!


長久寺陣所    近江国(彦根)

2016年03月29日 | 陣城

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

お城のデータ

所在地:彦根市後三条町  map:http://yahoo.jp/4a7KTb

現 状:寺院

区 分:陣所

築城期:織豊期

陣 主:徳川家康

遺 構:

目標地:長久寺

駐車場:長久寺の駐車場

訪城日:2016.2.28

お城の概要

長久寺は、彦根市後三条町の北東部、壷笠山(平田山)の舌状先端部の山麓にある。

長久寺の南の平田山の舌状先端部には、古墳跡がありその上に【見晴らし台】ある。佐和山城を北に望む好位置にある。

 

 本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。その意匠は桃山時代の気風をもち、小規模ながら均整のとれた建物です。真言宗の寺院で、寺宝に、井伊家より拝領のお菊の皿があります。

 

長久寺概要: 長久寺の創建は長久2年(1041)、勅願により善応(高野山の学僧)が開いたのが始まりと伝えられています。後三条天皇の帰依や真言密教の道場として寺運が隆盛し最盛期には現在の彦根市の半分の寺領を領し湖東三山(百済寺・金剛寺・西明寺)や比叡山延暦寺とも同等の勢力を持っていたそうです。永平7年(1510)の六角・京極氏、元亀2年(1571)の織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し衰退します。江戸時代に入りると彦根藩主から庇護され再興、寛永6年(1629)には彦根藩家老庵原主税助朝真により本堂(観音堂:入母屋、銅板葺、元茅葺、桁行3間、梁間3間、向拝1間、滋賀県指定文化財)が造営されています。

又、寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿とお菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。

お城の歴史 佐和山城攻めの時の家康本陣

 

 関ヶ原で三成ら西軍を粉砕した家康は、その足で佐和山へと軍を進た。三成は戻っておらず、三成の父や兄が二千八百の兵が籠ったていた

 徳川家康は軍を三つに分け佐和山へと進撃を命じた。一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、二番は細川・黒田、三番は堀尾・浅野、四番は井伊・石川らといった順で進発した面々が三方に別れて進撃する。翌十七日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)へは小早川・脇坂・朽木・小川と美濃勢など、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まった。

 家康は近くの平田山(長久寺)に本陣を置いて軍を指揮、さっそく各隊は佐和山城へと向かい、正午頃には城を包囲する。真っ先に攻め寄せたのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝。

平田山

千鳥ヶ丘公園に立つ駒札

 

長久寺から見晴らし台へ 

見晴らし台金亀山(彦根城) 

佐和山城里根城

本陣の置かれた【長久寺】


「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿

参考資料:関ケ原の戦い

本日の訪問ありがとうございす!!