城郭探訪

yamaziro

沓掛(くつかけ)西砦(集福寺北城)  近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 
主郭

お城のデータ

別 称:集福寺北城

所在地 : 長浜市(旧・伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/c96eDh

  遺跡ウォーカーの比定地:map:http://yahoo.jp/15bxhW

こちらの比定地(沓掛バス停の西山頂)は、後日確認することする。

現 状:山林

区 分:砦

築城年:

築城期:

標 高:230m 比高差:93m

遺 構:土塁・堀切・竪掘

目標地:八幡神社

駐車場:八幡神社の集落側に下りた所の空き地

訪城日:2015.12.12

南東尾根の土塁

お城の概要

 沓掛集落の西側は、大川が南流し、並行して国道8号が走り、その国道より西には山地がせまっている。

沓掛西砦は、国道8同線沿い山裾の八幡神社に向け、南から北方向に張り出した尾根の先端部に築かれている。

自然の鞍部を活かし堀切で尾根続きを遮断し、城内側に土塁を伴った南北約30m×東西約20mの主郭を構えている。

主郭から南東に伸びる支尾根には、細長い三段の削平地が続き、上二段の北面には土塁が築かれている。
なお、堀切の城外側も細長い削平地が見られる。

西山から北東方向にに張出した尾根先に構築されてあり、南に向かって太い土塁となって続くが、その土塁と城砦の主要あたりで、堀切によって分断されている。この堀切による分断は天正期の賤々岳の合戦の時の作業ではないだろうか。

 

お城の歴史

 著書『賤嶽史蹟伝説』に於いて、「天正期の賤ヶ岳合戦の時、羽柴藤吉郎秀吉方の「沓掛山砦・明石与四郎則實五百人」とあるのが、この砦に該当するのではと推測されている。

沓掛集落には2つ(西砦と北砦)の城砦がある。西砦はその集落から見て西の砦となる。

城歴の詳細不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

案 内

国道8号の沓掛バス停の左手側に八幡神社の背後の丘陵上が城跡。神社の背後の谷筋登り、尾根の国道方面に戻る。

本殿の裏から

沓掛西城概要図(登城した歩行痕) 

ここから城跡

戻り道

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

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沓掛北砦 近江国(西浅井・沓掛)

2016年03月24日 | 

大川の橋上

駐車場スペース  登城路(関電鉄塔管理道)

水源山地整備事業碑

自然の谷川がⅤに、また木橋。その比先は比高2mの段差

お城のデータ

所在地 : 長浜市(旧伊香郡)西浅井町沓掛 map:http://yahoo.jp/PGhj0y

現 状:山林・山頂

区 分:砦

築城期:ー

築城者:ー

遺  構 :廓・土塁・箱堀(水田・足入り)、土橋、堀切、

標 高:358m 比高差:190m

目標地:八幡神社の北へ約400m

駐車場:国道8号線添い空地

訪城日:2016.3.23

お城の概要

 尾根先の標高358mの頂部から南東方向に並行して二本の支尾根が伸びている。この頂部と支尾根が城域。
頂部が北郭で北東端を堀切で遮断し、北西と南西側は谷へ落ちる急斜面で、南東側は箱堀で主郭と隔てられている。

 主郭は27m×18mの削平台状地と南側の腰郭から成り、その周囲は箱堀で、北東側と南東側は足入り状の箱堀。主郭南西側の箱堀を介した支尾根も削平。
砦は、自然地形を利用した堅固な防備を固めた縄張りだが、こんな奥まった山頂から、街道監視の役割(街道が見えたのか?)か疑問。

しかし仮説だが、登城路の途中に削平地が多数残る・・ここなら監視も可能だが?。山頂部は詰め城か?頂部は狼煙台か?

また、滋賀県中世城郭分布調査の沓掛北砦の説明には「敦賀と塩津浜間の街道を挟んで、沓掛北砦(城)との対面の西の山中にには、街道を東西の高地から監視する「殿山の遺構」があるようだが、風化激しくブッシュが酷く踏査・測量は困難のようだ。」

お城の歴史

築城期・築城者や詳細は不明

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。

北の廓(狼煙台・物見櫓か?)

 

北廓の東の箱掘主郭の土塁土塁主郭土塁sy

主郭部手前の桝方状の登城道、曲がると北廓の鉄塔が見える、その東側上部が主郭土塁 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

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集福寺若山城 近江国(西浅井)

2016年03月24日 | 居城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)西浅井町集落寺 map:http://yahoo.jp/M-GwEg

現 状:山林

築城年:室町期

築城者:熊谷氏

区 分:山城&山麓館 ”殿谷形縄張り”

標 高:167m

遺  構:土塁、堀切、竪堀、掘切、曲郭、石積

城 域:

目標地:集福寺バス停

駐車場:集福寺バス停の横空き地

訪城日:2015.12.12・2016.3.23

お城の概要

集福寺若山城跡は、集福寺バス停の西側を南北に流れる大川(前堀に)を越した、日計山の東の舌状丘陵とその山麓に所在するが、大川がこのあたりで東に湾曲して流れ、丁度この城地の東・南・北の三方を囲う天然の堀壕をなし、大川(前堀に)の流れに添って東側に塩津街道(国道8号線)が通る。

 ”殿谷形縄張り”(丘陵に挟まれて館があり、その背後丘陵が城になっている)をなしており、県下及び関東一円に見られる特有な地名であり、関東は武蔵・熊谷から当地塩津に地頭として来任の熊谷氏の関わりの城館であるが故と言えるであろう。

 城域には5箇所の低い山地がそれぞれ砦を成しており、いずれもピークが削平され腰郭を2重3重に配したている。丘陵間は谷か堀切で遮断する程度の防禦を成している。 通路の隅や、本丸の虎口に石積や石段と思われる遺構が残っている。

 

お城の歴史

 「弘治元年(1555)の師走の12月26日には、塩津の熊谷平治郎は三千騎を率いて、疋田城を攻撃した」・・・とあるように、熊谷氏が或る時期に隣国で隣接の越前の疋田氏と敵対関係にあった事。その事が塩津街道の周辺に構築された諸砦の存在と関連付けらる。 参考に、本丸は規模、縄張り共に「壷笠山城」(大津市坂本・穴太)と酷似している。

大川の鉄橋を渡り右へ

Ⅾ遺構へ

Ⅽ遺構へ

B遺構へ

A遺構へ

Ⅾ遺構から国道8号線へ

集福寺バス停・・・目標地・駐車場位置(2015.12.12)

2016.3.23再訪E遺構へ 

B遺構とÈ遺構の間の「山麓館 ”殿谷形(殿屋形)”」

 

F遺構へ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

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