城郭探訪

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歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・五個荘編

2012年07月08日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

三方よし館

「三方よし」 ミニ情報 - 用語解説 - 近江商人関係

 

 三方よしの原典 

 


三方よしの原典(中村治兵衛宗岸宗次郎幼主書置)
 「三方よし」とは、近江商人の活動の理念を表す代表的な言葉で、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の精神として知られています。現代社会においては、取引の際に売買当事者双方のみならずその取引自体が社会をも利する、ということがいえるでしょう。
その原典となるのが、江戸時代中期の近江商人である中村治兵衛が孫に遺した「書置」ですが、この中に 「三方よし」の文字は存在しません。何故なら、この言葉は近江商人の活動や精神を研究している現代の研究者が考案したものであるからです。「書置」には、「三方よし」の原典は、近江の国石場寺(いしばじ)(現東近江市五個荘石場寺町(ごかしょういしばじちょう))の麻布商・中村治兵衛(法名宗岸、宝暦7年4月25日没、享年73歳)が宝暦4年(1754年)に制定した「家訓」の中の一節、「他国ヘ行商スルモ総テ我事ノミト思ハズ其国一切ノ人ヲ大切ニシテ私利ヲ貪ルコト勿レ、神仏ノコトハ常ニ忘レザル様致スベシ」に由来するとされている。「たとえ他国へ行商に参り候ても、この商内物、この国の人一切の人々、心よく着申され候ようにと、自分のことに思わず、皆人よき様にと思い」とあり、「自分のことよりもお客のことを考え、行き先(商売に回る地方)の人のことを大切にして商売をする」という近江商人の商道徳の真髄が示されています。

 

弘誓寺(ぐせいじ)

 那須与一には七人の子供がありそれぞれ一寺を建て寺名をすべて弘誓寺(ぐせいじ)と号しました。これを那須の七弘誓寺といいます。この寺だけが浄土宗で住職の姓も稲岡姓ですが、八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>。他の六ヶ寺はすべて浄土真宗で住職はみな、那須姓を名乗っています。
 八日市の瓜生野(西本願寺)・五個荘金堂(大谷 東本願寺)・能登川の躰光寺(西本願寺)・湖東町小田刈(西本願寺)・湖東町中一色(東本願寺)・南川瀬の法蔵寺(西本願寺)です。 

八日市の建部下野< 御身山 無量院 弘誓寺>は、この寺は平安初期の延暦十年(791)建部社の神宮寺として建てられ比叡山延暦寺一乗止観院に属し大願寺と称していました。中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てたのがこの寺です。正元元年(1259)2月7日のことでした。

近江商人(五個荘商人)屋敷

近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」である。取引は、当事者だけでなく、世間の為にも !

近江商人

近江商人とは主に今の滋賀県、かつての近江国を出身とする商人のことで、大阪商人、伊勢商人と並んで日本三大商人といわれることもあります。

琵琶湖に臨んだ近江国は、古来水陸交通の要衝の地として開け、農産物も豊かで早くから市が立ち、商業が盛んでした。

鎌倉、室町時代になると、この地の商人達は比叡山延暦寺と結んで座を結成し、越前、伊勢、美濃方面へ盛んに行商に出かけるようになりました。

江戸時代に入ると交通の発達と市場の拡大にともなって全国に進出し、その活躍はいっそう活発になりました。徳川幕府が鎖国政策をとる以前に、安南屋、シャムロ屋などのように海外へ飛躍したものもいました。

近江の商人達は、はじめ天秤棒を肩に、近江特産の蚊帳、上布、畳表などをもって出発し、各地で売りさばきながら、その地の特産を仕入れ、さらにそれを売りながら旅を続ける「持ち下り商い」と呼ぶ行商で富を蓄えました。次に各地に出店を構え、その出店の間で産物を回す、「産物回し」によって財をなし、江戸日本橋通り、大阪の本通り、京都三条通に大店舗を連ねるようになりました。
琵琶湖の鮎と近江商人は他所へ言って出世するといわれるように、地元には会社を作らず、別の地に会社を構えるのが特徴でした。

近江商人は一般的に「八幡商人」「日野商人」「五個荘商人」と分けられるのが多いのですが、豪商を多くだしたのは、近江のうちでも八幡、日野、彦根などで、最上の紅花、会津の漆器、名古屋の青貝塗といった各地の産物を一手に動かし、関東の醸造業、松前の漁業にまで商才をふるいました。

さらにその富力によって、金融の上においても大いに活躍し、大名貸しや、日野出身の中井家のように仙台藩、その他の藩の藩財政の実験を握るものまで現れました。

昼食は・・・五個荘

【うどん たなか】本日のおすすめを(うどんやでそばを注文!)

近江商人の旧邸で

舟板塀が、屋敷の一部に使われてます。

三方よし会館(東近江観光協会も館内に)遠景は観音寺城

館内郷土銘産売り場・・・無人でしたが!

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・甲良編・・・・へと続く

 


景清道

2012年07月07日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

平氏の武将 景清 歌川国芳画『耀武八景 大寺晩鐘 悪七兵衛景清』

観音寺山麓の景清道(当日のレジュメより)

伝説によると景清道は、 

平景清が平氏再興の祈願をするため尾張国より京都の清水寺へ通った道とも

寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に眼病平癒のために日参した道ともいわれている(中近世古道調査報告書 朝鮮人街道 滋賀県教育委員会)

景清道は 近年 ルートの調査がされましたが全てがはっきりとわかっていませんが信長の下街道建設以前から中仙道(東山道)の間道として使われていたようです。

湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている

 

近江八幡の農道に

 観音正寺の参道に 五個荘大城神社の横

 

 

観音寺山の景清道

佐々木六角氏当時にはこの間道は東近江市五個荘町から野洲まで続いていた間道であり、道並みには寺や武家屋敷が連なっており往時の面影を伝えている。

石寺の観音正寺参道を   真下に教林坊が見えてくる

 

 景清道(Blog)より

景清道は、平景清が尾張から京都に向かう時に通った道とされているが、観音寺城域においては、山上に向かって延びる複数の登城道を結ぶ道として、非常に重要な道であったと考えられる。例えば、この図のように景清道を辿ると、道沿いに多くの武家屋敷や寺院あとが見られるだけでなく、山上に延びる 5 本の道筋の入り口に出会う。山すそに近いところを横に走っている道なので、当たり前といえば当たり前ではある。このため、新しい登り口を見つけるには、この道を歩くのが一番手っ取り早い方法であるといえる。

 

 

観音寺城の山裾、案内坂と景清道(blogより)
DSC_0546.jpg入り口。
DSC_0551.jpg案内坂に入ると下の広場につながる石積みのスロープがある。スロープ道を見上げた。

DSC_0553.jpg道の山側には石垣が続いているが崩れているところが多い。

DSC_0555.jpg石垣の上は屋敷跡。ところどことに山上方向に向かう道がある。DSC_0558.jpg同じような道がしばらく続く。道の両側は竹薮。雑木が混生も多い。DSC_0561.jpg振り返って見る。DSC_0565.jpg住宅地に抜ける直前。DSC_0567.jpg住宅。DSC_0570.jpg住居も小屋も庭も畑も、ここでは何もかもが石垣の上。DSC_0571.jpgDSC_0572.jpgDSC_0574.jpg
DSC_0575.jpg手が加えられているが、もとは観音寺城時代の排水路か?DSC_0576.jpg暗渠の開口。
DSC_0579.jpgさらにこの舗装された道を前進。DSC_0582.jpgこの先もうすこしで行き止まり。DSC_0584.jpg最後の民家の角で振り返る。DSC_0585.jpgこの石垣の先(写真右端から数メートル)で道は行き止まり。DSC_0588.jpg田のあぜ道から。

 

DSC_0589.jpg行き止まり直前の石垣。道と石垣入り口には石段が設けられている。DSC_0591.jpg石垣の上にのぼり民家方向(来た道)を見る。DSC_0593.jpg道の石段を上り山中に入るとまた石垣。左手に折れ教林坊方面にDSC_0602.jpg教林坊には入らず、この周辺を徘徊。DSC_0605.jpg道沿いの川はお茶子谷の谷水の排水路だと思う。
DSC_0609.jpg道沿いの川はお茶子谷の谷水の排水路だと思う。DSC_0610.jpg石垣で固められた一角。このまわりを一周してみる。DSC_0611.jpgどんどん下りる。
DSC_0612.jpg途中で振り返る。DSC_0614.jpg下りきったところで来た道を振り返る。DSC_0617.jpg一角の反対側の道を上る。この道は赤坂道。この先で観音正寺参道に合流する。

DSC_0618.jpg手入れされておらず荒れ放題。
DSC_0620.jpg見覚えのある、教林坊の裏手付近に出る。DSC_0623.jpgここは、景清道。道の右側は、教林坊を囲む塀。石段のある左側の郭は墓地になっている。
DSC_0626.jpg景清道はこの先、観音谷、源三谷方向に延びている。

麓を横切る景清道と登城道筋。今回は源三谷までは行かず、観音谷付近で引き返す。
kagekiyo.gifDSC_0643.jpg塀の途切れたところから、教林坊を覗く。DSC_0632.jpg塀の反対側(山手方向)のお茶子谷沿いの道に入ると、右手に立派な石垣が見える。この先は倒れた竹で道が塞がっているが、踏み越えて無理やり進むとお茶子谷筋に出られる。おそらくここがお茶子谷筋への正しい入り口。

DSC_0634.jpg石垣の手前側の側面。地図によるとここは青地邸。DSC_0638.jpg景清道に戻る。道沿いに石垣が続いており、その石垣の一部に入り口らしきものがある。

DSC_0639.jpg中を覗いたところ縦も横も埋まっており、これが何なのか。

DSC_0650.jpg道沿いには屋敷跡と石垣が続く。DSC_0654.jpg観音谷近くまできたところ。DSC_0656.jpg振り返って見る。DSC_0657.jpg景清道を示す案内板。

DSC_0676.jpg谷にかかる橋。たぶんこの谷は観音谷。DSC_0667.jpg進むと畑地になっている広場に出る。地図によると古観音堂跡。DSC_0669.jpg棚田のように積み重なった畑地の側面は石垣で固められている。

景清道はこの先、源三谷に向かって延びている。

DSC_0693.jpg景清道はこの観音正寺参道を横切って延々と続いている。この先を行くと本谷筋に出会い、鳥打峠を超え宮津口筋や薬師口筋の入り口付近に到達するはずである。

 

 .平氏の武将 景清の生涯

時は、平安時代の平氏一門による武家政治が台頭し、平清盛の政治勢力により院政の地位を高め、京都六波羅に本拠を構えて、栄華と威勢を誇っていたが、鎌倉の源頼朝の挙兵により、「源平の戦い」の時代に入り、驕る平氏も清盛の死によって、平家一族は安徳天皇と共に京の都を離れ西海へ落ち延びて、ついに屋島・壇の浦の戦いで平家一門は滅亡するという、今から820年前にさかのぼる源平時代に生きた景清の伝記である。

景清は仁平3(1153)年上総の国(今の千葉県中部)に忠清の次男として生まれる。景清27才の治承4(1180)年、安徳天皇の滝口の任に補され、その後、兵衛尉に任ぜられて上総介七郎兵衛と呼ばれた。
平安末期の寿永2〈1183)年に、源平争乱の讃岐国、屋島の戦い、壇の浦(山口県下関市)の戦いにおいて勇将ぶりを発揮する。
名著の『平家物語』の屋島における有名な「錣引き1の場面で登場する。
「遠からん者は音にもきけ、近くはよって目にも見よ。われこそは、京の者たちのあいだで評判の上総の悪七兵衛景清なり。」と名乗り、奮戦している。
更に、壇の浦の戦いにおいても、悪七兵衛が登場している。
「源氏の者たちは、馬に乗れれば大きな口をきけるだろうが、舟の上での戦いは知らぬ。魚が木にのぼったようなものだ。ひとりひとりつかまえて海にたたきこんでやる。」と豪語しているが、平家の最後がきた。祖母の二位殿は安徳天皇を抱き深い海に身を投げた。と同時に、天皇の母である建礼門院も海に身を投げたが、源氏に引き上げられた。後に僧法印慶恵僧の住まいに身を寄せ、出家して大原山の寂光院に移り、平家一門の冥福を祈りつつ、建久2(1191)年往生している。
このように壇の浦の戦いで平家一門は断絶したが、悪七兵衛は兄忠光と共に逃亡して行方は不明である。それ以来景清は、叔父にあたる大日能忍(平安末・鎌倉前期の禅僧)を刺殺しており、「悪七兵衛」と云われたとの説もある。
建久6(1195)年3月12日、源頼朝は東大寺大仏再建供養のため奈良へ行ったが、源頼朝を狙う不審な者を捕らえさせた。その不審者は平家の残党薩摩の中務(なかづかさ)家資(いえすけ)と自供したので処刑したとある。しかし謡曲の「大仏供養」に演じられる平家の残党はここでは景清で、春日山に逃げている。[後述]
翌建久7年、平家の残党として悪七兵衛は追捕され源頼朝に降り、日向へ流されたとある。
この頃であろうか、目を患い一心に薬師如来に帰依し、又、平家の再興を祈願して「景清道」を往来したのだろうか。又、謡曲の「景清」の曲趣、尾張の国、熱田の遊女との間にもうけた娘、人丸が訪れるのもこの時期であろう。
建久9(1199)年正月13日、源頼朝がこの世を去ったが、既に景清には武勇の姿はなく、盲目で悲惨な乞食同様の末路を送ったとされている。
平氏の武将景清は、建保2(1214)年日向の国、今の宮崎市にて逝去。
享年62才。法名 千手院殿水鑑景清大居士とある。
宮崎市生日亀井山の生目神社には、眼を祀ったと言う伝説があり、宮崎市北方塚原に景清の霊を祀った廟あり、廟の横に人丸姫之墓と母の供養塔も祀られている。

景清伝記より

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々


歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編

2012年07月07日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて]

集合:JR安土駅改札前

 門前や宿場に旨いものあり(旅人の疲れ・腹持ちに・土産に)安土名物まけずの鍔本舗 万吾楼.

歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編

平景清(藤原 景清)と景清道 景清道(未訪問)

  
平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で平景清とも呼ばれている。

平景清は、源平の争乱に際し、並はずれた怪力の持ち主として猛勇を馳せた悪七兵衛景清にまつわる伝承が各地に残されているが、近江に伝えられる「景清道」、平氏の侍大将で、寿永4年(1185)讃岐国屋島の戦いに、源氏の美尾屋十郎と戦い、美尾が逃げんとするや、鎧をつかんで引き絶ち、これを薙刀にかけて、「吾は景清なり、誰ぞ来たりて死を決せざる」と叫び、敵を求めたという剛のもの。

湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、景清が平氏再興の祈願をするため、尾張国より京都の清水寺へ通った道とも、寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に、眼病平癒のために日参した道ともいわれている。人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている。

景清道の(元は領主佐々木氏に菩提寺天台宗成徳院慈恩寺)信長の安土問答が行われた金勝山浄厳院

 有名なのは、信長広記に見られる「安土問答」
法華宗と浄土宗とが、浄厳院本堂を舞台として宗教上の論争を行ったものですが、信長によっと浄土宗側の勝利と裁定され、敗れた法華宗側は見物の群集に袈裟をはぎ取られ、打ち据えられるなどさんざんな目に遭わされました。
この結果法華宗側は、今後他宗に法論を仕掛けないことを約束する侘び証文を書かされます。
こうして中世京都において一大勢力を誇った法華宗は著しく衰退させられることになりました。

浄厳院本堂 

らん丸も共の者と参加!

楼門

 

景清道を通って佐々貴神社へ

 沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は近江八幡市安土町にある神社。式内社で、旧社格は県社。神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝わる。

この地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ それ以降佐々木源氏の氏神とされ、子々孫々が篤く崇敬していた。婆沙羅大名の佐々木道誉江戸時代天保年間に消失した社殿を再建した丸亀藩主京極高明日露戦争203高地の戦いで有名な乃木(将軍)希典もその一人である。現在も宇多源氏・佐佐木源氏(佐々木家、佐々木六角家、佐々木京極家、佐々木高島(朽木家)、黒田家、馬淵家、堀部家、青地家、曲直瀬家、森川家、三井家など二百二十余姓)末裔の篤い信仰を集める

少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。宇多源氏として名高い佐々木一族の氏神。現在の社殿は江戸後期の再建。本殿をはじめ木造の8棟はすべて重要文化財に指定されている。『かくれ里』より

『佐々木氏発祥の地』の石碑

近江源氏の佐々木氏は、第五十九代宇多天皇の皇子敦実親王の王子、雅信が源氏の姓を賜った事が始まり。                         この宇多源氏の源経方が近江国蒲生郡佐々木荘小脇(滋賀県東近江市【旧八日市市)小脇町)に居を構えた事から、佐々木氏を名乗るの滋賀県東近江市【旧八日市市)小脇町

源頼朝の挙兵に際して、それに従い戦功を挙げた佐々木定綱が近江守護職と成り、その子信綱は鎌倉執権北条義時の娘を正室とし、この二人から生まれたのが泰綱と氏信。近江守護職と佐々木総領職を受け継ぐのが泰綱
この兄弟の内、佐々木泰綱は京の六角東洞院に住んだ事から六角氏を名乗る。

なんじゃもんじゃの説明板:滋賀県安土のささき神社 なんじゃもんじゃの木 - YouTube

景清道の教林坊

教林坊は、推古十三(605)年に聖徳太子によって創建されました。寺名の『教林』とは太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩と、ご本尊を祀る霊窟が残され、『石の寺』と呼ばれています。ご本尊は太子自作の石仏で、難産を帝王切開によって助けたという安産守護の言い伝えがあります(これを「我朝、帝王切開の濫觴なり」といいます)。子授け・安産のほか、ご詠歌に「九十九折れ たずねいるらん 石の寺 ふたたび詣らな 法の仏に」と詠われるとおり、どんな困難な願い事も二度詣でれば叶うという「再度詣りの観音さま」として信仰されています。

 

掛軸庭園。(障子の中央を「掛軸」に見立てて)「わびさび」の幽玄の世界に!「小堀遠州作の名勝庭園」

太子の説法岩の下に

太子ご自作の石仏で赤川観音と親しまれ、安産守護の仏様

 

 

白洲正子が愛した近江 教林坊

麓の石寺というは、世捨人のような風情のある村で、かつては観音正寺の末寺が三十以上もあり、繁栄を極めたというが、現在は教林坊というささやかな寺が一つ残っているだけである。
『かくれ里』より

 さんが 2010/12/06にアップロードhttp://www.youtube.com/watch?v=9NYfha4vmPc

「かくれ里 教林坊」聖徳太子により605年に創建され、秋は紅葉と竹林のコントラクトが非常にすばらしく、白州正子さんの「かくれ里石の寺」でも有名
水琴窟もあります。

さんが 2010/11/26 にアップ・教林坊 侘びさびの「かくれ里」http://www.youtube.com/watch?v=3qOzl2jYoS4&feature=related

 

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々

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歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

2012年07月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

歴史ブロガーの歴史探訪禄 ・・・野洲編

 

 野洲の妓王寺の「清盛と妓王」

 

歴史ブロガー「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

 

平家の家・江部庄に父(橘次郎時長)と母(刀自)と幸せに暮らしていた。 父時長が保元の乱で亡くなると」、妓王16歳の春の頃母と妹に妓女と共に京に上洛し、白拍子になり・・・。

江国江部庄(現・滋賀県野洲市)。その生誕の地には村人が、感謝を込めて妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺。

 

祇王屋敷跡

   妓王と妓女の姉妹はこの地に生まれたが、保元の乱で父を亡くしたため母とともに京都に出て白拍子になり、平清盛に仕え寵愛を受けた。ある時、妓王は清盛から「何か望むものはないか」と聞かれたが、「故郷の人々が水不足で苦しんでおり、ぜひ故郷に水路を引いて下さい」とお願いしたところ、早速清盛は野洲川から水路を引かせた。おかげで付近一帯の水不足は一気に解消し近江でも有数の米どころとなった。
地元では深く妓王の恩沢を謝し、出生地中北に一宇を建立して妓祇王寺と名づけ、邸跡には碑石を建て功績を永久に伝えることとなった。

版画-1:野洲川(出所:近江名所図会) 祇王井川より

祇王井が引かれた八百年前はどのような風景だったのだろうか?
自動車も新幹線もなかったのはもちろんのこと、川や道の整備状況は想像を絶するほどに遅れていたに違いない。
しかし、現在の土地を歩いて昔の面影を偲ぶためには、昔の風景に想いを馳せてみることも大切であろう。
 上の版画(近江名所図会)は、およそ200年前の風景を描いたものである。
橋や護岸が整備されたのは明治時代以降のことであり、江戸時代以前の数百年間はあまり変化がなかったと考えてよいだろう。さしあたって、八百年前の野洲川
の風景はこの画に描かれているような状態だった、と想定しておくことにする。
 さらに想像を膨らませるならば、祇王井の取水口は、この画の中央左側、橋の付近だったのではないか、と思われるのである。

 

 偏在の野洲駅前、旧朝鮮人街道沿いの祇王井川

  

 

http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/02%20gioh/gioh.html

清盛は天下をとっている時、意表をつく振る舞いをすることがあった。

平家物語では、

当時、京都で有名であった白拍子に妓王・妓女という姉妹がいたが、妓王を召し、妓女や母の刀自(とぢ)にもいい生活を送らせていた。祇王の隆盛は大変なもので、うらやむ者やそねむ者があり。平清盛に寵愛された妓王の生涯が語られている。

その妓王は近江の国江部荘(えべのしょう:滋賀県野洲町)の出身と言われている。清盛の寵愛が深かったとき、水不足に苦しんでいた人々のため、祇王は清盛に頼んで江部荘に水路を引いてもらった。人々は大変喜び、この水路を祈王井と呼ぶようになったという。今から八百年余り前、承安三年(1173年)のこと。 

  

土安神社

 今から800年ほど前、江部の荘の荘司で橘時長の娘、妓王と妓女の姉妹は京の都に出て、平清盛に仕えていた。ある時、妓王はふるさとの用水不足の嘆きを清盛に申したところ、さっそく三上山の麓の野洲川より分水して水路を開通させてくれた。その工事の途中で行き詰ったことがあったとき、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したので上流を祈王井、下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀った 

平家終焉の地

 野洲町大篠原(おおしのはら)は、平家終焉の地。現在は、「平宗盛卿終焉之地」と刻まれた碑と風雪に耐えた石仏がまつられている。

「首洗いの池】は昭和55年までは2町程有りましたが開発で埋め立てられ今は六分の一程の大きさに!

1185年3月24日壇ノ浦合戦で敗れた平家一門はことごとく入水、戦死しました。
しかし一門のうち建礼門院(けんれいもんいん)、平宗盛(たいらのむねもり)父子、清盛の妻の兄平時忠(たいらのときただ)だけは捕らえられました。

宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉に向かいましたが、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。
その途中、京まであと一日の、ここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため、平家最後の総大将宗盛とその子清宗を処刑した。
義経のせめてもの配慮で父子の胴は一つの穴に埋められ塚が建てられました。

 今は狭くなっていますが、塚の前には広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなった事から「蛙なかずの池」とも。

 

北村季吟の句碑 【祇王井に とけてや民も やすごおり】

 

 北という地区がある。江戸時代の国文学者・北村季吟(1624-1704)はここで生まれた。

 源氏物語や徒然草などの古典の注釈を手がけただけでなく、歌人としても名を上げ、松尾芭蕉などを育てた人である。この地区の北自治会館前には北村季吟の句碑がある。
 【祇王井に とけてや民も やすごおり】この句意は「妓王のおかげで野洲の人たちは安らかに過ごすことができる」というような意味でしょう。

永原御殿

永原御殿は御茶屋御殿の遺構です。御茶屋御殿とは徳川将軍が上洛の際に整備した宿泊所を指し、近江には東海道に水口城が、 中山道に柏原御殿、朝鮮人街道に伊庭御殿が、そして中仙道と朝鮮人街道の近くに、この永原御殿が整備されました。
1国に4ヶ所も御茶屋御殿が整備されたのは近江だけです。これは近江が京都に近く、朝廷を牽制するのに最も適した所だったためでしょう。
永原御殿を始め各御殿は、いずれも石垣や土塁を用いた城郭の構造を示しており、御殿が、単なる将軍の宿泊施設だけではなく、 有事に備えた軍事施設の性格を併せ持っていたことを示しています。
幕藩体制が確立した三代将軍以降、将軍上洛の必要性がなくなり、これらの御殿は役目を終え、廃されることになります。

永原御殿は、慶長6年 (1601)に徳川家康が最初に宿泊し、以後、家康が6回、二代秀忠2回、三代家光が寛永11年(1634)に泊まったのを最後として、 計10回利用されました

     

 

 仏性寺

仏性寺概要: 仏性寺の創建は天平元年(729)、当時の惣官豊積益人宿称息長、忠国が行基菩薩を招いて開いたのが始まりと伝えられています。建久年間(1190~99)、源頼朝の発願により再興、最澄や法然上人などから再建修復され天正年間(1573~92)の兵火により多くの堂宇や寺宝などが焼失し一時衰退しましたが江戸時代初期に再興されました。本尊の阿弥陀如来座像は平安時代に制作されたもので像高2.82m、檜材、寄木造、全国的に見ても稀に見る優作として貴重なことから国指定重要文化財に指定されています。

 

兵主大社
一ノ鳥居と社号標
落ち着いた農村部に鎮座。

開基は養老年間と古く、神仏習合の名残が色濃い。社名の「つはもの」から武家の信心が篤く、頼朝や尊氏が社殿を造営したと伝わる。

http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kinki/hyozutaisya.html

 狛犬包帯でぐるぐる巻きになった狛犬
不思議に思い尋ねてみると、包帯を巻くことで参拝者の身体の痛みを和らげてくれるご利益があるのだという。

 

本殿の北にある大規模な庭園は平安期の遺構を復元したもので、国指定の名勝。

社務所も立派!

 

鮎屋の郷へhttp://www.ayuyanosato.co.jp/top.html

食事や湖魚土産・滋賀土産が揃っています。

・鮎屋の郷のギャラリーで近江商人の古道具(商売道具)のウインドウ

 

 ・・・続きは、歴史ブロガーの「景清・清盛・道誉 つわものどもの謎と足跡を訪ねて」・・・安土編

 参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々


歴史ブロガーの「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

2012年07月01日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

  歴史ブロガーの「祇王祇女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

歴史ブロガー「妓王妓女と源義経の里を訪ねて」・・・竜王編

苗村神社 由緒の詳しくはhttp://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220506-02.html

〈重文〉境内社八幡社本殿 楼門 東本殿 境内社十禅師神社本殿 神輿庫 木造不動明王立像

 近郷三十三ヶ村の氏神さまで、茅葺きの楼門は遠くからでも目を引きます。延喜式神名帳に名を残す長寸神社(なむらじんじゃ)。

  〈国宝〉苗村神社西本殿 三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)桧皮ぶき、鎌倉時代の建築

   国宝の西本殿【祭神国狭槌命(くにのさづちのみこと)】

     殿に茅野輪

 

    

  神仏混合時代の名残りら、境内の不動堂には明王像も安置。

一般の明王像は直立不動なのに、像は、太い眉の間にシワを寄せた顔を左に向け、さらに上体をひねった動きのある、木造の不動明王立像

旧不動明王社殿

東本殿(祭神大国主命(おおくにぬしのみこと)・素盞嗚尊(すさのおのみこと))

社殿は簡素な造りですが、それぞれの蟇股(かえるまた)内の彫刻など細部の意匠が優れこのほか、境内社の八幡社本殿・十禅師(じゅうぜんし)神社本殿など。

 

 

苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁記3年3月新羅王子天日槍(しらぎのこきしのこあまのひほこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その後、那牟羅(なむら)に改まり更に長寸(なむら)に替えられ、

次いで寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、御一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村(なむら)の称号を賜り、以后苗村と呼ぶ、と記されています。

 

 

 

鏡の里エリア http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/kagaminosato.html

 

 

  鏡神社 重要文化財

南北朝時代の建築で「日本書紀」にも記されている朝鮮半島の新羅(しらぎ)から陶製技術(渡来文化)を伝えた天日槍(あめのひぼこ)を祀る神社です。
本殿は三間社流造り(さんげんしゃながれづくり)の、こけら葺(ぶき)で国の重要文化財に指定されています。

  義経元服の折使用の盥(たらい)

元服後の判官義経公を祀り、他の境内社と異なり京都鞍馬の方角に向けられている

義経宿泊の館「白木屋」義経宿泊の館「白木屋」跡

 源義経 元服の地 東山道 鏡の宿(とうさんどう かがみのしゅく)

源義経(みなもとのよしつね)元服の地、いにしえの馨りを感じさせてくれる滋賀県竜王町「鏡の里」にようこそおこしくださいました。
鏡の里は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました。
平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代でございました。
しかし、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がおりました。
その名は遮那王、幼名を牛若丸と申します。
機熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われております。
今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
これから皆様に、義経の元服にまつわる物語と、鏡の里周辺の見どころや竜王の名所、

道の駅「竜王かがみの里」

近江牛100%のハンバーグ定食(近江牛(おうみうし)の飼育は竜王町が多いとか)

古式ゆかしく鏡の里で元服してみませんかhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku-shiki/recruitment.html

近江の国で昼食は・・・「近江牛_ ランチ」で検索 (近江牛(おうみうし)の飼育は竜王町が多いとか)

今も昔も変わることのない確かな信頼のブランド近江牛。

江戸時代からすでに、牛肉が「養生薬」の名目で、近江牛は味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上、賞味されていた。本格的に「近江牛」というブランドが確立されたのは明治以後で、その発祥の地がここ竜王町と蒲生町。

(3大ブランド牛:ブランド和牛の最高峰と名高い「松阪牛」、和牛最古の歴史を誇る「近江牛」、認定基準の厳しさで有名な「神戸牛(神戸ビーフ)

・・・神戸ビーフは神戸産の牛ではなく、輸送のために神戸港に運ばれてきた近江牛(または但馬牛)を在留外国人が賞味し、名付けたともいわれる。 

道の駅「竜王かがみの里」向かい 西光寺廃寺跡、星が崎城址祉

  宝篋印塔(重要文化財)

伝教大師(最澄)が鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に建立した西光寺が、信長の兵火で廃寺となり、その名残にそっとたたずむ塔。
総高210cm、笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。石の角に梟(ふくろう)の彫刻は珍しく、国の重要文化財。
鎌倉時代後期1300年頃の作。

   灯篭(重要文化財)西光寺の鎮守、八柱神社(やばしらじんじゃ)の社宝で高さが2.8mもある背の高い灯篭です。
八角柱の灯篭は特に珍しく、また笠を持ち火袋には四仏が彫られていて誠に優美な意匠を凝らした灯籠。重要文化財指定。室町時代初期の作。

万葉・歴史エリアhttp://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/area/history.html

その他の竜王の歴史探訪はhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/sightseeing/rekishi.html

 

・・・続きは、歴史ブロガーの「祇王祇女と源義経の里を訪ねて」・・・野洲編

 

参考資料:現地ガイドさんの説明・現地説明板、パンフレット、HP・BLOG等々