城郭探訪

yamaziro

栗田城 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

岡本商店南側に案内板:最近建った。案内板前に駐車

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町栗田  (旧愛知郡秦荘町栗田)     map:http://yahoo.jp/yRUVOf

現 状:集落

遺跡:堀・土塁・石碑案内板

区分:平城

築城者:栗田六郎

築城期:室町期・文明12年(1480)頃

城 主:栗田六郎・栗田秀元

城 域 :南北約70m×東西約200m

廃城期:永禄11年(1568)栗田秀元の時、織田信長の近江侵攻により敗れ落城した。

目標地:岡本商店

駐車場: 岡本商店・路上駐車

訪城日:2013.8.15

 

お城の概要

 栗田地区の県道沿い東側にある岡本商店の南側に栗田城の城石碑がある。 この城石碑東側の竹薮の囲まれた民家辺りが栗田城主郭であったと推定される。

 民家敷地南側に土塁を思わせるように庭の土盛りがあり、民家の南側の水田が内堀跡、西側の県道が外堀跡とされている。

栗田城は、栗田地区県道221号を西端とし、岡本商店とその東方の藪地、その南側の栗田邸、さらに東側の田畑一帯にあった。規模は南北約70m×東西約200mと推定されている。

一部発掘調査が実施され、県道沿いに土塁と外堀跡が確認されている。栗田邸は城主栗田氏の末裔なのか、玄関前の垣根と築山は土塁跡を利用して造成されているように見える。
藪地内をのぞいて見ると、土塁のような高まりが見えるが関連は判らない。

また栗田邸の南側前面に「内堀」「桝畑」、東方田地に「蓮池」という城に関連すると思われる地名が残っている。

 案内板前に駐車

歴 史

栗田城は、文明12年頃に平居城主小倉氏(平居氏の分流で、元々は荘管であった、一族栗田氏が築城した。

 栗田氏は、城主栗田秀元は一族と共、戦国期に入った文明12年(1480)頃、栗田六郎によって城郭化され、江南守護六角氏に仕えた。永禄11年(1568)栗田秀元の時、織田信長の近江侵攻により敗れ落城した。

その後、永禄年間以後は内藤帯刀なる者が在城したとされる。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

          本日も訪問、ありがとうございました。感謝!! 

 

島川南城(南殿城) 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

秦荘西小学校のグランドに東角に建つ石碑だが、外側を向いていて助かる

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町島川   (旧愛知郡秦荘町島川) map:http://yahoo.jp/gT1sTZ

別 名:南殿城

現 状:秦荘西小学校

遺 構:石碑

区 分:平城

築城期:室町期・明応5年(1496)

築城者:伊庭貞隆

城 主:矢守壱岐守・喜多川弥介 

城 域 :南城 50m×50m

廃城期:織田信長は近江に進攻した元亀年間(1570~73)頃

目標地:秦荘西小学校

駐車場: 島川神社・路上駐車

訪城日:2014.8.23

 

お城の概要

島川城は、宇曾川と南川の合流点に築かれた城で、100m隔てて南北両城にわかれている。

南城を南殿城、北城を北殿城という。南殿城が平素の居館で、北殿城が戦闘時の城の役割を果たしていたようだ。

現在石碑の建つ小学校付近は南城だが遺構はない。もともと南城は小ぶりな城であったようだ。

島川南城は、秦荘西小学校敷地に築かれていた。 小学校校舎建設の際には発掘調査もされたようだが、現在は城の遺構らしきものは何も残っていない。 

 小学校グランドの北東角に島川城の城石碑が外向きに建てられていた。(道路側からフェンス越しに写真を撮ることになる) この南城と集落の北側にある島川北城が、南北二つの城が並んで存在していた。

 島川北城は、明応5年伊庭貞隆によって築かれた。 その後、矢守壱岐守・喜多川弥介が在城、元亀年間に廃城となった。

歴 史

明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方、政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。このため、近江国内においても六角氏と京極氏の争いが激化した。

明応5年(1496)、六角氏家臣の伊庭城主:武将伊庭貞隆は愛知郡秦荘町島川へ出陣した際に築城した。六角方の諸将を集めて京極氏と戦端を開いた。

元亀年間(1570-73)城主が喜多川彌助のころ、織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。

 

近江愛智郡志には、島川氏。島川氏は出自分明ならず島川村に住し依て氏とす。

文献には南北朝時代より見ゆ。即ち壬生文書康應元年十二月愛智郡主殿寮の領地押立保の年貢米を押領し依て幕府より押領停止の命を受けし島川某あるに見るも当年権勢の一家たるを知る。又應永十七年三月永源寺領八木郷の名代織の請状に嶋川性圓なるものあり共に荘園世話役となりて在すろ見る。

南北朝の戦乱より地方豪族が社寺公卿等荘園の可司や預所となり貢米の横領を敢て爲なしたるを覗ふ可きなり。島川城址の存在する所以ありと謂ふべし。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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島川北城(北殿城) 近江国(秦荘)

2013年08月16日 | 平城

農村公園の東隅に石碑

 

お城のデータ

 

所在地:愛知郡愛荘町島川 (愛知郡秦荘町島川)  map:http://yahoo.jp/3Mcsyn

 

 

別 名:北殿城

 

現 状:竹薮・公園

 

遺 構:土塁・堀跡・船着場・石碑

 

区 分:平城

 

築城者:伊庭貞隆

 

築城期:明応5年(1496)

 

城 主:矢守壱岐守・喜多川弥介 

 

廃城期:織田信長は近江に進攻した元亀年間(1570~73)頃

 

城 域:50m×100m

 

目標地:八木荘保育園

 

駐車場:農村公園の無料駐車場

 

訪城日:2013.8.15

 

 

 

島川北城は。宇曾川とその支流である淵川の合流点に築かれた城で、100mばかり隔てて南北2ヶ所の曲輪より成り立っていたといわれている。
 現在、北城は一部を残して民家が建ち、南城は秦荘町秦荘西小学校となっている。

 

お城の概要

島川城は、宇曾川と南川の合流点に築かれた城で、100m隔てて南北両城にわかれている。南城を南殿城、北城を北殿城という。南殿城が平素の居館で、北殿城が戦闘時の城の役割を果たしていたようだ。

北殿城は南川が宇曾川と合流する地点のやや南に築かれ、南川を天然の濠とし船着場も設けたとされる。

現在島川北城を示すものとして、八木荘保育園の南側にある公園の片隅に石碑が建っている。その公園南の竹薮の中にL字型をした比較的大きな土塁が残存する。竹藪内の土塁は公園側から約5mを数える大きなものである。

往時の南川は公園と保育園の間で屈曲し、さらに保育園西側で北へ屈曲するS字形に流れ、公園南西付近に船着場があった。また藪地の南側民家付近を城屋敷と呼び、城は単郭ではなく集落一帯に広がっていた可能性がある。

  

農村公園内に南西角に

船着場跡

歴 史

 島川北城は、明応5年伊庭貞隆によって築かれた。 その後、矢守壱岐守・喜多川弥介が在城、元亀年間に廃城となった。

  明応4年(1495)美濃土岐氏に継嗣争いが起こり、土岐元頼と石丸利光が観音寺城の六角定頼に支援を求め、一方、政房を奉じた斎藤利国は京極高清に支援を求めた。このため、近江国内においても六角氏と京極氏の争いが激化した。

島川北城は、明応5年(1496)、六角氏家臣の伊庭城主・伊庭出羽守貞隆は愛知郡愛荘町島川へ出陣した際に築城した。六角方は、ここに諸将を集めて京極氏と戦端を開いた。

元亀年間(1570-73)城主が喜多川彌助のころ、織田信長の攻撃を受けて落城し、そのまま廃城となった。

八木荘保育園の向かい

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、近江愛智郡志

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市村城 近江国(愛知川)

2013年08月16日 | 平城

竹林に隣接する屋敷地の土塁

お城のデータ

所在地:愛知郡愛荘町市 (愛知郡愛知川町市)  map:http://yahoo.jp/4gpOTf

築城期:南北朝期

築城者:市村備後守

城 主:市村備後守

区 分:平城

遺 構:土塁、空濠

目標地:近江鉄道愛知川駅、線路の反対側

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.8.15

お城の概要

市村城は、旧愛知川町のほぼ中央付近「市」の集落ほぼ全域の南北約300m、東西約200mの大規模な城館であったとされる。

地元の人の話では、以前まで市集落北西端の薮の前に城址碑が建ち、土塁と堀の一部が残っていたというが、現在では石碑は消え、土塁と堀はコンクリートで固められてしまっていた。

また南西部の願宗寺北側集落内に非常に薄いが土塁が点在していた。市の集落内にあって、周囲に水路が廻らされた竹藪が市村城。

竹藪の中、および隣接する民家の庭付近まで、高さ1~2mの土塁が約30mの規模で残る。水路によって分断されているが、土塁の形状から推測すると、2つの方形曲輪からなっていたと考えられる。

 なお、南西部の願宗寺付近にも土塁と空堀があり、市村城との関連が考えられているが、その距離は200m近くあり、市村氏四家あり  

歴 史

『近江愛智郡志』によると、市村は愛知川町の大字となる古来市場たりしより、村名出づ。

市村備後守は南北朝時代より有勢の武将子孫世襲して此地に住し足利時代には、東中西の三家あり、在館の跡は竹林となり猶堀土手の一部を在す。それより磯部へ通す道、備後道・・・。

「佐々木南北諸士帳」に市むら 住 佐々木随兵 青木籐九朗 同 二郎・三郎と記す。

        竹林の中の土塁 

滋賀県中世城郭分布図 5 市村城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江愛知郡誌、淡海の城、佐々木南北諸士帳

           本日も訪問、ありがとうございました!!。

 


今村城 近江国(能登川)

2013年08月13日 | 居館

お城のデータ

所在地: 東近江市今町(旧・神崎郡能登川町今)     map:http://yahoo.jp/BqXa8w

区 分:居館

現 状:畑地・集落・宅地

遺 構:小字政所・小今村に、台地状の屋敷跡があり、今は畑地となり消失。

築城期:永禄11年(1568)頃

築城者:六角の臣:上林藤十郎

城 主:上林藤十郎

駐車場:天満神社横駐車場

訪城日:2013.8.9

お城の概要

近くを愛知川が流れ、たび重なる水害や火災には、古くから悩まされ続けてきたことも集落の形成に大きく影響さてれ、その特異ま区画整備は区の東西端に南北に配置された2本の外周道。それらを梯子型に結ぶ村内道路とそれに並行していくつかの水路(河川)を配置しています。村中道路に沿って各戸が建ちならび敷地の前か背後には必ず水路(河川)が隣接する配置。

かつては、家庭の上水道、生活用水、そして防火用水の供給をも可能にしたものと考えられる。

歴 

記述によれば永禄11年(1568)頃、【佐々木六角氏に観音寺城ありし時その臣、今村民舞上林籐九郎、本村に屋敷を構え氏となす」とあり、その発祥をいまに伝える。

小字政所・小今村に台地状の屋敷跡があり、今は畑地となり消失。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

観音寺城・佐生城(繖山)遠望

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


福堂館 近江国(能登川)

2013年08月13日 | 居館

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市福堂町   ( 旧神崎郡能登川町福堂)   http://yahoo.jp/rBHgNU 

築城期:中世

築城者:

城 主:大沢次郎右衛門

区 分:城館

現状:集落

駐車場:路上空地に駐車

訪城日:2013.8.9

お城の概要

福堂は、能登川地区の西部に位置し、伊庭内湖(かつては小中の湖の一部)に面する村落であろ。阿弥陀堂に残る「栗見大宮天神記」によれば、その開発は貞和年間(1345~1350)だという。

集落の中央を新川が流れ、それを囲むように堀が張り巡らされている。

歴 史

詳細不明

福堂村誌によれば、延暦寺寺領時代には福蘶堂という羅漢があり文明の頃真宗に改宗して寺号を改め「巍」の字を略して福堂と呼ぶようになった。ちなみに、村内に真宗の正覚寺と覚成寺があるが、正覚寺はの開基は文明九(1477)年であり、村名の由来なった堂と考えられる。

「近江温故禄」には、大沢次郎右衛門なる人物の名が見えるが、「大洞瓣財天当国古城主名札」や「佐々木南北諸士帳」には城館や城主の記述が無い。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、能登川の歴史第二巻、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!

 


川南(かわなみ)城 近江国(能登川)

2013年08月12日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市川南町     (旧神崎郡能登川町川南)  map:http://yahoo.jp/dHVrPL 

現 状 :個人民家(川南邸宅)

遺 構 :土塁・水堀跡

形 式 :平城 

築城期: 

築城者 :高橋対馬

城域:40m×40m

訪城日:2013.8.3                                                                                                                                                                                                 

旧宅

お城の概要

 愛知川の左岸にあって、南に大同川が流れ、南北の両河川を総堀に見立てた地形に位置している。
川南城は東西約40m、南北約40mの方形館で、現在は葦葺き屋根の家が建ち、川南さんがお住まいである。

 竹藪の中に土塁の一部が残り、周囲の西、北、および東には幅2~3mの堀が残る。南側の堀は埋め立てられて、道路となっている。
川南氏によると、お宅の駐車場付近が虎口だったという。

浄土寺及びお隣の民家周囲に水路(堀)が巡ります。また、民家(個人宅)前の竹やぶや堀の内側に土塁があります。

 

  川南城は約半町四方の館跡と想定されている。西と北東部に最大3m幅の堀が、南西角に土塁が残っている。虎口は南東部にあったとされる。屋敷地には大きな葦葺き屋根の家があり、旧家を偲ばせる。浄土寺ある。その東隣りが城址である

 

歴  史

大洞弁天当国古城主名札」に川南村城主として高橋対馬が記されているが、詳細は不明である。

 

道路を挟んで黒竹の土塁・・・堀も

 

浄土寺

 

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

 

 

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園(おん)城 近江国(日野)

2013年08月12日 | 平城

目標地点:佐久良川の南側の鉄塔2本(日野町原集落の西約300m)

お城のデータ

所在地::蒲生郡日野町原 map:http://yahoo.jp/QutmAR

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切・土橋・井戸・馬出虎口

区 分:丘城

築城期:戦国期

築城者:小倉氏

城 主:園城式部大輔

標 高:262.7m  比高差:18m

目標地:佐久良川の南側の鉄塔2本(日野町原集落の西約300m)

駐車場:農道路上駐車駐車場

訪城日:2013.8.9

お城の概要

方形郭が複数で一つの城を構成されている。方形の土塁・郭跡・虎口・馬出虎口がよく残ります。

園城は日野町の北東端、原集落のすぐ西側で、佐久良川南岸丘陵上の標高262.7m・比高18mに所在する。
城跡の一部は「里山リニューアル事業」によって少しだけ整備されている。

頂部には東西45m×南北25mのほぼ方形で、南辺以外が土塁で廻らされた主郭が存在する。土塁の高さは平均約2mで、土塁のない南辺も鋭い切岸となり容易に侵入できない。

虎口と思われる開口部は北西と北東の2ヶ所に設けられ、北西には大きな井戸が残っている。
主郭を囲むように四方に空堀が廻り、深さは不均等だが主郭から見て平均約4mを誇る。空堀外側は西側以外の三方に土塁が付属している。

主郭西側には空堀を挟んで三角形の小曲輪がある。その西側は堀切に土橋が架かり、さらに西側へ続く丘陵尾根部に連結する。この尾根部は土橋付近には土塁状の高まりがあるが、それ以外はほぼ自然地形である。

主郭とその西側の小曲輪の北側には「く」の字形の土塁が設けられているが、これは虎口関連施設に見えた。

主郭のある丘陵の東と南麓は、土塁で区画された削平地が広がっている。後世の水田跡にも見えるが、特に南麓の土塁は水田にしては高く、館跡の様相である。またその南側の水田を挟んだ対面の山林内にも土塁をもつ削平地が存在するが、どこまでが城遺構か判断がつかない。

園城はコンパクトだが防御性に優れた、訪れやすいなかなか良い城だった。

 

歴 史

佐久良城の小倉氏の支城のひとつです。

詳細不明。

 蒲生郡志に園城式部大輔邸跡とあるが、これは同町杣の遠城を指す。

その他日野町内には三十坪に小字園城、小御門の小字忍城など類似した地名が複数存在し、関連性が?

獣害防止ネットの黄い扉から、入れます。(出入り後必ず開閉止めを)

農道から2m・・・一応、橋・階段はついてます

階段部分

農道から、主郭の土塁を見上げる

駐車可能、三叉路(普通車1台!)http://yahoo.jp/AxYRMG

原集落への県道より西 (遠望)

目標地点:佐久良川の南側の鉄塔2本(日野町原集落の西約300m)

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、

 

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蒲生氏郷と日野 シリーズ「淡海の城」より転載

2013年08月09日 | 武将


 南北朝時代頃から佐々木六角氏の家臣、蒲生氏が日野の地主豪族として頭角を現してきますが、永禄11年(1556)の織田信長上洛の際には、蒲生賢秀はいち早く織田方につき、12才になる嫡男の鶴千代(氏郷)を岐阜に人質として送ります。

蒲生賢秀の嫡男の鶴千代(氏郷)が生まれた中野城(日野城)

鶴千代は信長に大層かわいがられ、元服後は信長の娘、冬姫と結婚します。


おそらく鶴千代は経済政策の数々を信長時代に学んだのではないでしょうか。

信長亡き後、鶴千代改め蒲生氏郷は、伊勢松阪・会津若松と領地替えされますが、その都度、日野から商人を引き連れて行きます。「人・物・銭」を
集める商業は、城下町作りには無くてはならないものです。このことは恐らく、信長が岐阜や安土で築いた城下町作りを参考にしていると思います。

 さて、近江出身の商人を一般に「近江商人」と言い、近江八幡・五個荘・日野が有名です。その特徴の一つは「他国商い」というものでした。他国商いとは家族を近江に置いたまま、一家の主が単身で他国に赴き、稼業に精励することです。ところが、同じ近江商人でも、「八幡の大店、日野の千両店」という言い伝えがあるように、八幡と日野では経営手法に違いがあったようです。これは次のようなことを意味しています。近江八幡出身の八幡商人は、大きな店を町の一等地に持つことを目的としますが、日野の商人は、千両貯まれば当初の行商から各地に拠点を置いて出店を設け、そこが軌道に乗れば、また枝店を持つというように、近江日野の本宅を核にして、親族縁者が分家や別家をして商家経営を展開してきたというのです。この枝店経営は、今のチェーン店
の原点ともいえるものです。


 氏郷が、伊勢松阪・会津若松と移っていくことが、逆に日野商人にとっては、販路を拡大することになったのです。(仲川)

 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 

 


岩神館(いわがみやかた) 近江国(朽木)

2013年08月09日 | 館跡

足利将軍逃亡の地


お城のデータ

所在地::高島市朽木岩瀬  (旧:高島郡朽木村岩瀬) map:http://yahoo.jp/RNOOAD

別 名:秀隣寺庭園

現 状:寺院

遺 構:土塁・堀・庭園・説明板

区 分:丘城

築城期:室町期

築城者:朽木氏

城 主:

標 高:215m   比高差:10m 

目標地:興聖寺

駐車場:興聖寺参拝者駐車場

訪城日:2013.8.24

お城の概要

 岩神館遺跡は、現在の興聖寺境内一帯に位置し、境内の中には名勝旧秀隣寺庭園があります。現存する遺構としては庭園の他に、境内南西部に位置する墓地の西側に土塁と空堀があるほか、土塁や虎口の痕跡が境内の北側に見られます。

岩神館(いわがみやかた)(滋賀県高島市朽木岩瀬)

 朽木は近江の西部に位置し、福井県・京都府に接する山深い集落です。集落内を京都から若狭へと抜ける若狭街道(朽木街道・鯖街道)が通ります。鎌倉時代以降、明治維新にいたるまでこの地を支配したのは、近江源氏佐々木氏の一族である朽木氏です。朽木氏は、近江守護六角氏や江北の実力者浅井氏とは一定度の距離を保って自立した存在でした。それは山間の地という朽木の地理的特性とともに、朽木氏が幕府との間に直接的な関係を取り結んでいたことによります。

 

歴 史

 室町幕府第12代将軍足利義晴は享禄元年(1528)、対立する足利義維・細川晴元に逐われ、近江坂本から朽木へと逃れてきました。この時、義晴が滞在したのがここ岩神館です。義晴は享禄4年(1531)までの2年半を朽木で過ごすことになりますが、その際、公家衆や側近を多く伴っており、その様子は朽木幕府といっても過言ではありません。
 足利義晴につづいて13代将軍義輝もまた朽木にやってきます。天文20年(1551)、三好長慶との不和により近江に逃れてきたのです。その後義輝は上洛を果たしますが、天文22年(1553)8月、霊山城での三好長慶との戦いに敗れ、ふたたび朽木に落ちのびます。この時は永禄元年(1558)3月まで朽木に滞在しました。

 名勝旧秀隣寺庭園は、岩神館とともに、将軍を迎える施設としてつくられたとされています。庭園は館の東側、安曇川の河岸段丘に位置し、眼下に流れる安曇川と対岸の集落を見下ろすことができます。池と大小の石が組み合わされ、複雑な汀線を持つ池泉観賞式庭園で、作庭者は将軍義晴とともに朽木にやってきた細川高国ではないかといわれています。秀隣寺は豊臣秀吉の側室松の丸殿の妹で、朽木宣綱の妻(洗礼名マグダレナ)の菩提寺として慶長11年(1606)に建てられましたが、江戸期に火災にあって建物は全焼し、現在は朽木野尻に再建されています。

朽木は湖西の山深い集落ですが、京都と若狭湾を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。

領主朽木氏は近江源氏佐々木氏の一族で、鎌倉時代から明治維新まで朽木を支配し続けました。信長以外にも室町幕府第12代将軍足利義晴や13代将軍足利義輝が朽木氏を頼り、朽木を訪れています。

朽木氏は鎌倉時代から江戸時代に掛けて朽木庄を支配していて、室町幕府の奉公衆でもあった縁で天文22年(1553年)に朽木元綱は13代将軍足利義輝・細川晴元らを朽木村に匿っている。

 マグダレナ墓(興聖寺)朽木宣綱の妻は京極高吉の娘のマグダレナ(洗礼名)。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭体系11、近江の城郭、

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姉川合戦と城郭~  シリーズ「淡海の城」より転載

2013年08月09日 | 平城

淡海の城(おうみのしろ)  第34号   平成25年(2013)8月9日発行


姉川合戦と城郭~連続講座第2回に向けて
姉川合戦は、元亀元年(1570)に長浜平野を東西に流れる姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍織田・徳川連合軍との間で行われた著名な合戦で、戦いが行われた地名から三田村合戦や野村合戦とも呼ばれました。その内容は、姉川の南側に進出した織田・徳川軍に応じて浅井・朝倉軍が姉川を渡河して攻め寄せるという構図で行われた野戦ですが、そのきっかけは織田軍による浅井氏に対する「城攻め」にありました。
朝倉攻めを敢行する織田信長を、その勢力から離反し窮地に落としいれた浅井長政は信長から報復の攻撃を受けることになります。織田軍の攻撃に対して、長政は居城小谷城とその周囲の丘陵に構築された城砦での籠城策で対抗します。

信長は虎御前山など小谷城周辺に陣地を設けて対峙します。最初は本拠地小谷城へ攻勢をしかけられ、小谷山麓の町への放火や足軽部隊による交戦が発生しました。しかし、山上に構築された城砦に立て籠もった浅井軍主力に決定的な損害はなかったようで、信長には容易に攻め落とせないと思わせ
たのです。

 次に、信長は周囲の城館に立て籠もる国人の軍勢に対し攻勢をしかけていく作戦に変更し、小谷城の東南に位置する横山城を攻囲します。その動きに応じ、朝倉氏の援軍も得た浅井氏側は長政自ら軍勢を率い小谷城から出陣します。その結果、両軍の主力による交戦へと至ったのです。

 この姉川合戦には浅井氏に従った多くの国人が関わりました。長浜平野には浅井氏の勢力下にあった国人の城館とされる遺構がいくつか残されています。このうち、姉川古戦場に近い三田町に残る三田村氏館は、朝倉軍が陣を敷いたという伝承があります。

 このように、姉川周辺の城館遺跡は歴史上の大きな事象の舞台となった重要な「文化財」と言えるのです。平成25年度第2回目の連続講座では、このような視点を踏まえて詳しくお話したいと思います。(上垣)

 

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阿弥陀堂城 近江国(能登川)

2013年08月09日 | 平城

 

小字西出の光照寺付近が阿弥陀堂城跡としている。

『大洞弁天当国古城主名札』には、阿弥陀村城主とそて妙貫院の名が記され、地元では小字東出南の一角が竹中妙観院の数代が居住した跡とされているが、西出の光照寺付近が城あとであったとも。

所在地:東近江市阿弥陀堂 (急能登川町阿陀堂)http://yahoo.jp/3FwF4c

詳細:不明

 

光照寺西側の堀?(水路)

光照寺光照寺裏の堀?(水路)

所在地::東近江市阿弥陀堂町     (旧神崎郡能登川町阿弥陀堂)

形式:平城

築城者:妙貫院

遺構:堀跡(水路)

訪城日:2015.8.8

 
 

光照寺東の建物

来正寺

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種村城 近江国(能登川)

2013年08月09日 | 平城

種村城跡に建てられた石碑

種村城は大同川にかかる木代保橋の北東、現在は田圃となっている一帯とされ、橋の横には城址を示す石碑が建てられている。

 大同川を堀として利用するような形で築城されており、この地域には垣見城や伊庭城・小川城など、川を堀として利用している城郭がいくつもあり、地域の特徴が出ており興味深い。

 木代保橋から東へ40mほどにある細い道が当時の城門跡だといい、この周辺には「大開き」,「小開き」といった小字名が残っている。(地元にお住まいの種村氏末裔の方から情報を頂きました)

種村城の前を流れる大同川(堀)

六角政頼の次男、伊豆守高成がこの地を領して種村氏を称し、種村城を築いた。

所在地:東近江市種町 (旧能登川町種)

築城期:室町

初代城主:種村伊豆守高成

区分:平城

遺構:堀・石碑

 

 
 
 
 
 
種村城                                                                          石垣・堀→
 造られたとき:1350年代「室町時代初期」
 造られた場所:種の小字藪下「このため藪下城とも呼ばれていた」
  当時の様子
 鉄砲もなく弓矢とやりや刀での戦で、よろいや甲は全て鉄板で作られていたから身軽には活動することもできなかった。だから、鉄砲が使われ、鎖や皮で作られたよろいを着けた時代、お城である彦根城や長浜城のような物ではありませんでした。
  種村城の城主
 種村城の城主は佐々木家から種村姓を名乗りました。種村城はわずか三代で終わっていますが、その子孫はその後もその土地で生活をしてきました。
 
 お城の門は東に向いていて、その前は、今も「大開」と呼ばれ、その横側の小門の方角は「小開き」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。

 

城門があったとされる通路城門があったとされる通路

種村城は、1350年代に種の小字藪下に、造られました。(そのため藪下城とも言われました)このころは、鉄砲もなく弓矢とやり、刀での戦で、鎧や甲はすべて鉄板でできていたので、身軽には動けませんでした。

 幅1m80cmほど・深さ60cmぐらいの堀に囲まれた、普通の家よりも少し大きめの建物だったそうです。お城の門は東に向いています。そのまえは、今も「大開」と呼ばれています。そして、兵隊たちを集めた場所は「木代保」と呼ばれています。
 
 種村城の城主は、佐々木家から種村の地に分家して、種村姓を名乗りました。木代保の家には、佐々木家の紋章があります。これらは、神崎郡史稿などにも記載されています。近くを流れる大同川の横の草道には、石碑があります。 
 
 1350年代は、室町時代の前期です。 

和田山城の西

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講座 3/3【小谷落城と浅井長政の決断】 

2013年08月05日 | 歴史講座・フォーラム

 

小谷城の最後の数日を追体験する~水の手道から京極丸へ~

正元年(1573 年)8 月27 日夜、信長軍の先鋒木下藤吉郎(秀吉)は、水の手道から京極丸に取り上り、まずは小丸に楯籠もる久政を切腹させました。ついで翌日、今度は信長自身が京極丸に取り上り、本丸に楯籠もる長政を攻め立て、9 月1 日に至ってついに赤尾美作守とともに長政を自害させました。これをもって、北近江に三代の繁栄をほこった浅井氏は滅亡したのです。
 今回の探訪では、小谷城を熟知した地元ガイドとともに、今やほとんど忘れ去られた水の手道から京極丸に取り上り、小谷城最後の数日を追体験します