城郭探訪

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建部氏館(松尾神社庭園)・東近江市八日市松尾町

2013年11月20日 | 館跡

~複雑な石組みが織り成す枯山水庭園の妙~ 

作庭当時は、ここにこの辺りの領主であった建部氏の屋敷があったともいわれる

 広大な市域をもつ東近江市の行政の中心地、八日市の街の中心部に、「こんなところにこんな素晴らしい庭園が・・・」と驚いてしまうような見事な枯山水庭園がある。近江鉄道八日市駅のすぐ裏手、延命山と呼ばれる小高い丘のような山の麓にある松尾神社庭園だ。
緑深い木立に包まれた松尾神社の境内。ごつごつとした自然石を多用した庭園は、松尾神社の鳥居をくぐってすぐのところ、拝殿の左脇に静寂とともにたたずんでいる。


鶴島と亀島の間にかけられた一枚の大石の橋

 神社の前を通る道は多くの人や車が行き交うが、そのすぐ傍らにあるこの庭園を観ようとする人の姿はあまり多くはない。だが、松尾神社庭園の由緒を知れば、この庭が思いのほか深い歴史とエピソードを秘めた名庭だということがわかってくることだろう。
 松尾神社は、八日市の背後に控える山、延命山の麓にあり、古文書によれば、この山を北へ尾根伝いに行ったところにある、聖徳太子が創建したと伝わる瓦屋寺の別院、延命山尊勝寺(えんめいざんそんしょうじ)の鎮守としての神社だったという。尊勝寺は奈良・東大寺の管轄であったということから、このあたりでも重要な役割を担っていた神社であったことが想像できる。
中央にある須弥山。須弥山は仏教などで世界の中心を表すもの。庭園は昭和46年に旧八日市市の文化財に指定された(現・東近江市指定文化財)

 松尾神社庭園は、桃山時代初期の作庭とされ、寺院か武家の書院に付随した庭園だったと見られている。だが、一説には、奈良の興福寺一乗院に身を寄せていた室町幕府最後の将軍、足利義昭が、永禄9年(1566年)に南近江の守護を担った後に隠居していた佐々木義賢を頼って近江に赴いた際に、義賢が将軍のために作庭したともされる。



永禄11年(1568年)信長が佐々木氏を攻めた折、佐々木氏の配下であった建部氏の館も庭園だけを残して灰燼に帰し、その跡に松尾神社が建てられたともいわれる

 大小さまざまな石で組まれた庭園は、「蓬莱式枯山水」と呼ばれる庭園様式で、山際に蓬莱連山を思わせる石組みが、中央に須弥山(しゅみせん)と鶴島・亀島が配されている。複雑な石組みに用いられた石は背後の山から採取された花崗岩質のもので、その岩質の風合いもあいまって、豪快でどっしりとした武家好みの趣を醸し出している。
 はっきりとした庭園の由来は定かではないが、乱世の時代につくられたことを思い起こさせるその荒々しくも迫力のある作風から、湖国の名庭の一つにあげてもよいだろう。


播磨守資頼の館(兵主大社) 近江国(中主)

2013年11月18日 | 館跡
 
 

所在地:野洲市五条(旧野洲郡中主町五条) map:http://yahoo.jp/gilaPi

別 名:兵主大社

区 分:平城

現 状:神社

遺 構:豪族である播磨守資頼邸の庭園

築城期:鎌倉期

築城者:播磨守資頼(土豪)

目標地:兵主大社

駐車場:参拝者無料駐車場

訪城日:2013.11.16

 兵主大社は、八千矛神(大国主神・つわものぬし)を景行天皇の時代に高穂の宮居に近い穴太(大津市坂本穴太町元兵主)に祀られ、欽明天皇(531~71)の御代に磨別等琵琶湖上を渡り大神を奉じて、現在の宮域に遷座されたのである兵主大明神縁起によると ゛播磨守資頼"の居館としている花山天皇の御代の寛和元年(985)に正一位を追授せられた
また、拝殿の左奥にある庭園は、鎌倉時代の古様を伝える庭園として、昭和28年に名勝に指定されているこの庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと考えられており、元々は神社の庭としてではなく、鎌倉時代この地の豪族である播磨守資頼の庭園だったと云われている
庭園は、大規模な池泉廻遊式庭園で池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸の石組みや築山の三尊石組みなど、造園の妙が感じられる美しさがあり、深い趣があるまた、この池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺(苔寺)を思わせるようなしっとりとした雰囲気がある池汀の曲線の様子などに遺構がよく残っており、安時代後期の作といわれている<現地説明板より>

兵主大社

 Shiga Hyouzu.jpg兵主大社本殿
所在地滋賀県野洲市五条566
 
城郭の概要 
所在地 野洲郡中主町大字五条
築城年 鎌倉期
形  式
遺  構 庭園
兵主大社(ひょうずたいしゃ)は、賀県野洲市にある神社である式内社(名神大社)で、旧社格は県社正式名称は兵主神社であるが、普段は「兵主大社」を称している

八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する

「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである

足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門

名勝 庭園

賀県県指定有形文化財
  • 楼門
野洲市指定文化財
  • 本殿

社伝「兵主大明神縁起」

社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した

欽明天皇の時代、磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、磨別の子孫が神職を世襲している

延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている

歴 史

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする元は巻向山中にあった若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある

上記の2社は、『正倉院文書』に天2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した

摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている

中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されているまた、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた

兵主神社(大社)庭園

拝殿横にあり、護岸の石組み・築山の三尊石組みなどは安時代の遺構「近江の苔寺」の別名がある 毎年、紅葉時期にはライトアップが行われる

所在地 〒520-2424 賀県野洲五条566
営業期間 公開 : 9:00~17:00 庭園公開には期間があるので、要確認
休業 : 年中無休
料金 大人 : 大人:500円
備考 : 中学生以下無料(個人)
その他 : その他:300円 団体(5名以上)
文化財 国指定の名勝
その他情報 築庭年代 :安時代
 
庭園も社殿等も凝った作りで興味のある方にはたまらない遺構が数多く残っている
この庭は対岸の比良山地に産する守山石と呼ばれる庭石をふんだんに使った大規模な池泉回遊式庭園とされている成3年から発掘調査と保存修理が行われ見事な庭園が蘇っている
発掘では、鎌倉時代の古様を伝える庭園の下層から現在の庭園の池とほぼ同じ形状で、洲浜で縁取られた安時代後期の池が現れ、さらに池に水を注ぐ160mにも及ぶ遣り水の跡が、さらには琵琶湖に向かって出入りするための船着きの跡までもが見つかった
これまで起源と伝えられてきた鎌倉時代よりもさらに古い遺構の発見であるなお、現在の庭園は、作庭当時の南半分を留めるのみとされ、当初は神社敷地全体が庭園でなかたかと思われる
ところで、発掘で安時代後期まで作庭時期がさかのぼったが、まだ縁起による遷座年代の方が遥かに古い。

宝物庫

重要文化財

  • 白絹包腹巻 1具
    • 鍍銀籠手金具
    • 鍍銀臑当(すねあて)
    • 茜威喉輪(あかねおどしのどわ)
    • 白生絹袷小袖
    • 萌黄地白茶格子生絹袷小袖
    • 緂帯
    • 唐櫃
重要美術品(国認定)
  • 革箙(かわえびら) 
  • 錦包箙
  • 梓弓
  • 伏竹弓
  • 黒漆弓
  • 木造唐鞍神馬
  • 木造神馬

足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門(ろうもん)

足利尊氏の寄進と伝えられる朱塗りの楼門(ろうもん)

参考資料:『ウィキペディア(Wikipedia)』、パンフレット、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。

 


探訪【近江水の宝】湖中示現の神の里をゆく-兵主大社-2013.11.16

2013年11月17日 | 探訪「近江水の宝」

探訪【近江水の宝】湖中示現の神の里をゆく-兵主大社-

兵主(ひょうず)大社の神様は白蛇となって大亀の甲に乗り、鹿の群れに守護されて琵琶湖を渡って来たといいます。時は養老2年(718)、穴太(あのう・大津市穴太)を出発して、あやめ浜(野洲市菖蒲)に上陸したともいいます。兵主神の湖中示現を物語るこの縁起は、晩秋の頃、大社宮司が御神体とともに菖蒲(あやめ)の浜で湖中に入り、湖水で浄め、琵琶湖の力を迎える八ヶ崎神事として今に伝えられます。境内の名勝庭園もその造形は琵琶湖を強く意識したとされています。

今回の探訪では、野洲市ボランティア観光ガイド協会のガイド、野洲市や県の文化財専門職員が同行案内し、真宗木辺派本山錦織寺、仏性寺の阿弥陀如来坐像(平安時代・重要文化財)など、兵主大社とその周辺の文化財を詳しく訪ねます。

真宗木辺派本山錦織寺

創建は平安時代初期の天安2年(858年)に天台宗の円仁により創建された毘沙門堂に遡る。建長5年(1235年)、

浄土真宗の開祖親鸞が逗留し阿弥陀如来を祀ったとされる。その後、この地の領主石畠氏の援助により寺院として整備され、慈観がこの寺に入り一派を形成した。戦国時代から江戸時代初期にかけては浄土宗に属することとなったが、江戸時代中期には浄土真宗に復帰し、文化11年(1814年)には准門跡に列せられた。

文化財

滋賀県指定文化財
  • 表門
  • 御影堂
  • 絹本着色熊野曼陀羅図

所在地

鐘楼の改築の石積集

由緒
兵主神社所管社二十一社の一。
欽明天皇の代に鎮座。「悪王子神社」と称された。

天神前古墳

兵主神社

兵主大社

 
 
兵主大社
Shiga Hyouzu.jpg
兵主大社本殿
所在地 滋賀県野洲市五条566
   
主祭神 八千矛神
社格等 式内社(名神大)・県社
本殿の様式 一間社切妻造
例祭 5月5日
 

兵主大社(ひょうずたいしゃ)は、滋賀県野洲市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。正式名称は兵主神社であるが、普段は「兵主大社」を称している。

八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。

「兵主」の神を祀る神社は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には19社記載されているが、その中で名神大社は当社と大和国穴師坐兵主神社・壱岐国兵主神社のみである。

名っ名勝 庭園

滋賀県県指定有形文化財
  • 楼門
野洲市指定文化財
  • 本殿

歴史

社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社)に八千矛神を祀らせ、これを「兵主大神」と称して崇敬した。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太(滋賀県大津市坂本穴太町)に社地を定め、遷座した。

欽明天皇の時代、播磨別らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している。

延喜式神名帳では名神大社に列し、治承4年(1180年)には正一位勲八等兵主大神宮の勅額が贈られている。

歴史

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。

中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。

拝殿横にあり、護岸の石組み・築山の三尊石組みなどは平安時代の遺構。「近江の苔寺」の別名がある。 毎年、紅葉時期にはライトアップが行われる。

名称 兵主神社(大社)庭園 (ヒョウズジンジャ(タイシャ)テイエン)
所在地 〒520-2424 滋賀県野洲五条566 MAP
営業期間 公開 : 9:00~17:00 庭園公開には期間があるので、要確認。
休業 : 年中無休
料金 大人 : 大人:500円
備考 : 中学生以下無料(個人)
その他 : その他:300円 団体(5名以上)
文化財 国指定の名勝
その他情報 築庭年代 :平安時代

重要文化財

  • 白絹包腹巻 1具
    • 鍍銀籠手金具
    • 鍍銀臑当(すねあて)
    • 茜威喉輪(あかねおどしのどわ)
    • 白生絹袷小袖
    • 萌黄地白茶格子生絹袷小袖
    • 緂帯
    • 唐櫃
重要美術品(国認定)
  • 革箙(かわえびら) 
  • 錦包箙
  • 梓弓
  • 伏竹弓
  • 黒漆弓
  • 木造唐鞍神馬
  • 木造神馬

佛性寺

 

参考資料:パンフレット、現地説明板、ウィキペディア(Wikipedia)、


上迫(かみはざま)城(儀俄(ぎが)氏城) 近江国(日野)

2013年11月14日 | 丘陵城

この立札の南の橋を渡れば【姫塚】

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町迫

別 称:儀俄(ぎが)氏城

区 分:丘陵城  

標 高:230m 比高差:20m 

現 状:山林

遺 構:郭・堀切・土塁

築城期:室町期

築城者:儀俄氏 

目標地:真龍寺

訪問日:2013.11.14

お城の概要

 姫塚橋を渡りこの道の正面の丘陵が城跡。正面の茶畑の先は丘陵が堀切状にU字切り通しのようになっている。左手坂道は平虎口か?。中に入ると平坦地が、廓の南丘陵にも平削地がある、郭か?。帰りは、先の道を丘陵沿いに少し歩き、丘陵が堀切状に切れている。登ってみると平削地がある、堀切状側には土塁状の盛り上げリガ続く。遺構なのか?。ら馬場橋の先の丘陵先端が城と丘陵先端は畑、休耕地の三段になっていて、休耕地の尾根側には土塁、その先には堀切状になっている。古城との伝承ある。上迫城は東西約70m、東西約45mで東側が凸型に突き出た形をした単郭城郭で、北~西~南には土塁を巡らしている。
 特に西側の土塁は高さ7~8mにもおよぶ北は深さ7~8mの堀切を設け東は道路まで急斜面で落ち込んでいる。この東斜面は道路を敷く際に土塁等の遺構が削り取られいる。
 東側の道路を挟んだ田圃は“的場”の地名が残り、この辺り一帯も城域であったことが窺える。また、北側を流れる川に渡した橋は"馬場橋"、近くの田圃には"門の裏"等と名が残っている。
上迫城は、菖蒲谷の西側に北東に伸びる尾根先端に築かれ、東西約30m、南北約70mの城域に三段の削平地が設けられている。上段が主郭で東西約30m、南北約35mに及び、南背後は巾約6m堀切と高さ約4mの土塁で遮断されている。主郭の北に二段の小郭を設け、その先は約8mの絶壁となっている。
なお、遺構は、後年の耕作により相当な改変を受けているように思える。

馬場橋の袂の姫塚には案内板が建てられており以下の内容が書かれている。
 この姫塚は伝説の塚である。戦国時代の昔、すぐ西側にあった上迫城で合戦があって城が落城したとき、城の姫がこの場で自害したので、村人が葬ってやりダマの木を植えて姫塚と称した。
 後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えた。
 昭和34年の町道修復で姫塚が消滅することになったので、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立した。(日野町観光協会・南比都佐公民館)


お城の歴史

『近江蒲生郡志』には、儀俄氏城 「儀俄氏の城郭は南比都佐村大字上迫に在り、蒲生氏の支流にして始め藤原氏の観学院領たりし甲賀郡嶬峨庄に下司職となり依て姓を儀俄と称す、後ち梶井宮門跡領の下司を兼ね依て此地に邸宅を構へたり、丘上の一区の要地を占めし遺跡現存す。(蒲生氏支流誌参照)を記す。


<姫塚>
上迫城が落城した時にこの場所で姫が自害しました。村人は姫を葬りダマの木を植えて姫塚としました。

 

後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えました。

 

昭和三十四年の町道改修で姫塚が消滅することとなり、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立しました。<現地案内板より 日野観光協会・南比郡佐公民館>

日本城郭全集によると、「蒲生氏の支流儀俄氏の在住した所である。儀俄氏は藤原氏の勧学院領である甲賀郡嵯峨荘に下司職となったことからその名を称し、のち梶井宮門跡領の下司を兼ね、この地に居を構えた」とある。
永禄9年(1566)7月、梶井宮応胤より儀俄中務丞秀連の「迫上下の郷地頭職ならびに闕所検断神社山内」の知行が認められたとの記録が残っている。

 

正面の林を左に巻き60m程進むと右手に丘陵上の畑に登る道があり、その道を尾根まで登ると城跡である。

 

 

なお、姫塚橋の袂に姫塚があり、次のような説明がなされている。

<姫塚>
上迫城が落城した時にこの場所で姫が自害しました。村人は姫を葬りダマの木を植えて姫塚としました。

後年大木になったので木を切り真龍寺の薪にしたところ、姫のたたりで寺が全焼し、恐れた村人は再び鎮魂のダマの木を植えました。

昭和三十四年の町道改修で姫塚が消滅することとなり、二代目の大木に成長したダマの木を伐りこの石碑を建立しました。<現地案内板より 日野観光協会・南比郡佐公民館>

 堀切郭跡も茶畑に!

虎口の堀切右手に丘陵上の畑に登る道があり、その道を尾根まで登ると城跡である。

郭跡も茶畑に!郭跡も茶畑に!郭跡も茶畑に!上迫城遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、近江蒲生郡志

本日も訪問、ありがとうございました。


下迫(しもはざま)城(三木氏屋敷/三木氏城) 近江国(日野)

2013年11月14日 | 丘陵城

城郭のデータ

所在地:蒲生郡日野町下迫 マップ:http://yahoo.jp/yxcGOu

別 称:三木氏屋敷/三木氏城

現 状:山林
区 分:丘陵城 
標 高;191m  比高差:40m 
遺 構:郭・土塁・堀切
築城期:室町期
築城者:三木氏

目標地:法泉寺・清寿院(重郷公園):
訪城日:2013.11.14

正面の林が、下迫城

下迫城は下迫地区の法泉寺の裏山一帯であるが、麓には民家が建ち並ぶが直接アプローチした。

法泉寺をまっすぐ、寺の後方を民家から竹林の急な斜面「切岸」を登りきると30m四方の曲輪に出る。

お城の概要

民家の裏手の木の階段から登ると左手に主郭の虎口への、正面は西の郭群、右手は副郭を含めた北の郭群の広場のようなところに出る。主郭への坂を登り、明瞭な平虎口で右手の土塁は一段と高く櫓台か?。郭は荒れているが、周囲を巡る土塁は明瞭。南側の土塁もさらに高く、その先は10m近くの落差で堀切。この堀切は幅もあり、堀切というよりひとつの郭のように見える。この南側にもまだ郭がありようですが藪が未整備確認無理。西の郭は主郭の腰郭に続いて段郭が続き、北側の郭は南北に長く副郭。東側に分厚い土塁があり。副郭の西側、北側にも段郭があるはさほど技巧的ではない。基本は方形単郭の城か?、西側、北側、南側に各群を配し規模を拡大したか?
 曲輪の北側は高さ10mほどの切岸、南側は高さ10mほどの土塁で囲まれており、土塁の壁は圧巻だ。また東側には平虎口が設けられており、いやがうえにも期待感が高まる。

 北側切岸を登り切ると、東西7~8m、南北20mの主曲輪に出る。主曲輪の北は幅5m、深さ3mの堀切が配され、堀切を超えると、東西40m、南北50mの広い曲輪に出る。
周囲には土塁を巡らし、北側に平虎口が配されている。この虎口を抜けると堀底道となり東斜面を下っている。この道が大手か。

遺構の状態は良好で、規模は小さいながらも、東近江におけるお勧めの1城である。

城郭の歴史

 『近江蒲生郡志』には、「三木氏邸跡 三木氏は蒲生氏の臣なり勘解由左衛門肥後守等の名古記に見ゆ、南比都佐村大字下迫に其の邸跡在り山上に砦跡在するは三木氏の櫖し所なるなるべし」と記す。

 近くの清寿院の説明板には、蒲生氏郷の弟の重郷が下迫城で誅されてこの寺に葬ったという言い伝えがあると書かれてありました。誰に誅されたのか? 

重郷って実在したか?賢秀の子には氏郷の他、娘が三人と言われますが、男子が氏信、氏春、氏郷、重郷、貞秀の五人いたともされます。

薬研堀の堀切薬研堀の堀切

法泉寺の「下流の橋」を渡り民家を通って・・・おすすめ!

下迫城遠景法泉寺前に駐車場5台可

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江蒲生郡志、

  本日も訪問、ありがとうございました。


小御門(こみかど)城 近江国(日野)

2013年11月14日 | 居館

 お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町小御門 マップhttp://yahoo.jp/REWciL

現 状:個人宅:竹林

区 分:居館

遺 構:土塁

城 主:藤原秀郷より十四代目の蒲生高秀

目標地:必佐小学校

訪城日:2013.11.14

お城の概要

小御門城は日野川の支流出雲川の右岸河岸段丘上に位置しており、個人宅の庭と北側の藪に高さ4mの分厚い土塁が残る。
 東側と南側の竹藪にも土塁が残るが、西側の城域ははっきりしない。

小御門城は、日野川の支流出雲川の右岸河岸段丘上に位置し、現在では民家が建ち並び中心部の構造は不明とされるが、東側と南側に基底部巾約3m、高さ約1.6mの土塁が長さ150mに亘り巡っている。その外側には堀の名残りとされる水路も残っている。また、土塁の西方延長には細長い区画の水田がL字型に残存しており、トレンチ調査により堀であったことが確認されている。
地籍図や現況地形から城内の区画は、北区、西区、南区、東区、外部施設の五つの空間が推定されている。
なお、遺物の年代は、12世紀後半~13世紀前半、15世紀~16世紀代の二時期とされる。

城郭の歴史

 護良親王が居したことから小御門城との名が生じたと伝える。
「蒲生旧跡考」には「檜皮屋御所の跡」とあり、一説には結解十郎左衛門が居城したと伝える。

五辻官守良親王が居したとされます。小谷城(日野)との関連が考えられるとのことです。

近江蒲生郡志に「建武中五辻宮守良親王の拠り給いしにより、小御門の名を生じたり」と記されている。蒲生旧趾考には「村松の御所と号し」とある。小字名にも「城屋敷」が残っている。

小御門(こみかど)城・・・遠景(必佐小学校北より)

駐車5台可

参考資料:瀬田川観光協会HP、雲住寺

    本日も訪問、ありがとうございました。


鏡城(井上館) 近江国(竜王)

2013年11月08日 | 居館

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町鏡  map:http://yahoo.jp/98qHA4

別 名:井上館

現 状:個人宅(佐々木氏の子孫宅)

築 城:鎌倉期

築城者:鏡久綱

初城主: 鏡久綱

区 分:居館

遺 構:土塁・水堀・空堀・門跡・石積み

城 域:100m×60m

目標地:鏡集落センター・民宿山城屋

駐車場:鏡集落センター駐車場

訪城日:2013.11.7

井上館の虎口・・・宅地(子孫の個人宅)

お城の概要

井上館は、星ガ崎城の南500~600mほどに位置しており、正面入り口には高さ3mほどの分厚い土塁、周囲には堀と、一見するだけで普通の家ではないことがわかる。(近年建て替えられ、瓦葺きの住宅になりました)

 北と東側の堀は高さ5~6mの土塁と共に、非常に状態良く残っており、小さいながらも、中世武士の居館としての様子がよく判る。
なお、井上館には現在でも井上さんがお住まいである。

【城郭の歴史】
 
この館は、星ガ崎城主・鏡久綱が居館としていたところであり、後にその支流の井上氏が代々住居した。井上氏は佐々木氏の出とされている。

星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えたが、京極氏より入りこれを継がせたとある。

鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた。

鏡集落集会所に駐車して

鏡城(遠景)

愛宕社と井上館遠望

虎口左手土塁の下の堀(井上館前面の水堀)

虎口右手の土塁に駒札が

井上館東面の水堀

裏の虎口の空堀(土橋から)裏の虎口東の土塁西土塁(郭内から土塁)西土塁(郭内から土塁)郭の礎石ヵ?郭内の石材(西土塁(郭内から土塁)

郭内の石積(内法を石積みで固めた土塁)

 

灌漑用の池・・・・だから、井の上の城=(井上城)

星ヶ崎城(遠望)・・・鏡集落センター駐車場より

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


木津岡山城(岡屋敷・木津館) 近江国(日野)

2013年11月07日 | 平城

岡宗左衛門(蒲生氏の家臣)の屋敷

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町木津 マップ:http://yahoo.jp/CeoKW2

別 称:岡屋敷・木津館

現 状:寺
区 分:平城  

標 高:186m 比高差:5m 
現 状:寺

遺 構:曲廓・土塁・堀痕・類似説明板
築城期:ー
築城者:岡氏
城 主:岡 宗左衛門

目標地:法興寺

駐車場:法興寺門前駐車場 

訪城日:2013.11.06

お城の概要

日野の町から丘陵を隔てた南面に法興寺はあり、本堂裏手は山面に土塁で、土塁の北には土塁で囲みm曲廓(館)跡が残存する。蒲生氏の家臣岡氏の菩提寺で岡宗左衛門の館。。法興寺の南側前面は天文十六年(1547)まで日野川であったようだが、近世に、圃場整備で流路変更したようだ。木津岡山城は、岡屋敷とも呼ばれ、現在は法興寺の境内となっている。寺の本堂背後の竹藪の中にも土塁があり、東側の土塁は後世に削り取ったものとか。本堂の東側土塁から背後の竹藪の中は、荒れ放題の竹藪で土塁の状況は判る、土塁の高さな。

 資料の縄張り図と現状を照らし合わせてみると、伊賀の居館城郭によく見られる丘陵先端部を基刷り取り、縁部土塁として残した様式のようだが、背後にも一曲輪あったと思える削平地があった。

お城の歴史

蒲生氏の家臣、岡宗左衛門の居館木津岡山城は、築城年代は定かでないが、蒲生氏の家臣岡氏によって築かれた。 

 岡氏は、主君蒲生氏郷が伊勢松阪から会津若松へと移封されると、氏郷に従って日野を離れた。その後、木津岡山城に法興寺が建立された。

木津岡山城の登り口

西側土塁

屋敷跡(曲廓)寺の背後の土塁は10m超

堀痕

土塁

木津岡山城 遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

本日も訪問、ありがとうございました。


小井口城(原氏城・原城) 近江国(日野)

2013年11月07日 | 丘陵城

お城のデータ

別 称 :原氏城・原城

所在地 :蒲生郡日野町小井口 マップ:http://yahoo.jp/n3x26D

現 状 :山林・松林寺

区 分 :丘城

築城期:南北朝期

築城者 :原高平

遺 構 :曲輪・土塁・竪堀・池

目標地:天王山・大窪墓地・松林寺バス停

駐車場:バス停向かいの大窪墓地の駐車場

訪城日:2013.11.6

お城の概要

小井口城は、現在天王山と呼ばれる丘陵が原氏の居城が築かれ(蒲生郡志)、現在は松林寺の境内となっている。 

丘の山頂部は削平され寺の西側の地蔵堂、東側は神社。本堂と北と南側に櫓台を思わせる土段が築かれていた。 南北の櫓台から東側に腰曲輪が築かれていて、土塁と切岸の遺構を見ることができる。
 尚、北東側には墓地・畑などと三段に削平された構造となっている(概要図に記載はない)、これは後世のものと思われるが、城の遺構のようだ。

お城の歴史

 小井口城は、原城とも呼ばれ、築城年代は定かではないが南北朝時代に原氏によって築かれた。 

南北朝時代の城主原高平は南朝に仕えて近江守に任じられ、文和2年に京神楽岡の役に従軍している。

 

日野 松林寺バス停5台

小井口城遠景小井口城遠景(木津岡山城より」

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、遺跡ウォーカー、 

本日も訪問、ありがとうございました。


桜内城 近江国(日野)

2013年11月06日 | 平山城

お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町北脇  マップ http://yahoo.jp/CgSVSz

区 分:平山城

現 状:山林

城 期:鎌倉期

築城者:蒲生氏

城 主:室木氏

遺 構:曲輪、土塁、空堀

目標地:放光寺

駐車場:放光寺参拝者用駐車場

訪城日:2013.11.6

参道の東側に。5m進むと、城郭への登り口

お城の概要

法光寺南東側の林の中へ入ると、南へ向かってなだらかな斜面になった曲輪があり、土塁・土橋・犬走り・武者隠し・竪堀・空堀があります。

安徳寺の裏手も林になっており、しっかりした土塁が残っています。城跡の法光寺を囲むように、自然の山を利用し又佐久良川・支流を前の堀に、自然の地形を利用した城郭。

郭跡の平削地土塁・武者隠しヵ?土橋犬走りより遠景(北脇集落の向こうに雪野山が)竪堀

 

蒲生郡日野町北脇「法光寺」。このお寺の南東側から安徳寺北側付近にかけて一帯が城跡です。お寺に参拝者用駐車場があります。

 

お城の歴史

鎌倉時代後期、蒲生氏の一族室木氏がこの地に居住。 

諸木神社も法楽精舎として創建されたのが、この法光寺、室木氏・小倉氏の供養塔が存在したとあるが詳細不明。 

法光寺参拝者駐車場10台可鎌倉時代の庭園?

法光寺の北西側は、

墓地に竹林や雑木林の中に石仏・土塁等の城郭遺構・・・!

安徳寺裏の土塁安徳寺裏の土塁佐久良川の支流

桜谷城(遠景)

諸木神社

本殿は小倉行隆が建立した

室町時代の文部省指定の重要美術品石灯篭が残る


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系  

              本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


清田城 近江国(日野)

2013年11月04日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:滋賀県蒲生郡日野町清田1373  map:http://yahoo.jp/yKzIOQ

現 状:森林

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:蒲生氏・三木氏

城 主:三木氏

遺 構:土塁、堀切

目 標:清水山 光延寺

訪城日:2013.11.04

城郭の概要

 日野町清田は土山から伊勢に通じる間道沿いにある。

現在では国道307号の別所の交差点を、県道183号線が土山へ抜けているが、今も清田の集落の南の光延寺の本郷・境内の南側を抜け、コンクリートの階段を上がると、平坦地に出る。縄張り図によると、この辺りから城域となっている。

 遺構は北側の山一帯に遺構は広がっているが、南斜面の竹藪は後世のものである。

光延寺の上の林が、清田城

城郭の歴史

 蒲生氏支流の三木氏の居城「下迫城の出城」とされるが、詳細は不明。

物見櫓跡か!

主郭へ主郭か?最高所・・・石仏が9体南側の切岸・・・その下が巾20mを図る横堀南側土塁郭内にも、土塁が土塁西側の切岸曲郭内

物見台と主郭の間の竪堀

下山・・・・。

光延寺の梵鐘

清田城(遠望・・・車を駐車した川の手前の公園)

参考資料:滋賀県城郭分布調査4、淡海の城、日本城郭体系

本日も訪問、ありがとうございました。


探訪【大地の遺産】天智天皇の足跡を訪ねて 2013.11.02

2013年11月03日 | 探訪「大地の遺産」

 近江大津宮(667~671年)は天智天皇の宮処(みやこ)です。『日本書紀』によれば、天智天皇はこの宮で即位し、冠位制度の整備や全国的戸籍の編成、 水時計の設置など、革新的な政策をつぎつぎと打ち出しました。友好関係にあった百済を支援するため朝鮮半島に出兵し、唐・新羅と戦って敗北した国家存亡の危機のなかで、ここ大津を舞台として新しい国づくりに着手したのです。

今回の探訪では、大津市埋蔵文化財調査センターでの講演後、同センター職員や県の文化財専門職員の同行案内のもと、天智天皇ゆかりの地周辺の文化財を詳しく訪ねます。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。

日時 平成25年11月2日(土曜日)11時00分 ~ 16時30分頃

2.主催 滋賀県教育委員会・大津市埋蔵文化財調査センター

【集合・受付】大津市埋蔵文化財調査センター11時00分 までに集合

【行程】

大津市埋蔵文化財調査センター(講座、昼食) → 志賀の大仏→ 崇福寺跡→ 南滋賀町廃寺→ 近江神宮→ 皇子山古墳群(大津宮跡一帯の眺望) → 近江大津宮錦織遺跡 

15.チラシ(PDF:474KB)

講座

現地探訪

 

石造阿弥陀如来坐像
(志賀の大仏(おおぼとけ))

 

滋賀里は「大津の宮跡」推定地とされ、京都への旧山中越えの街道がありました。山中越えで京都へ向かう旅人の安全を願ったといわれています。3mを越える阿弥陀像ですが、威圧感はなくゆったりとした雰囲気が漂う石仏です。鎌倉時代の作と考えられます。

林道脇の削岩ドリル跡

 

崇福寺跡

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

崇福寺跡(すうふくじあと)は、滋賀県大津市にある飛鳥時代後期から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡。

崇福寺は、668年に天智天皇の勅願により近江大津宮の北西の山中に建立され(『扶桑略記』ほか)延暦年間に十大寺に選ばれるなど栄えたが、たびたび火災にみまわれるなど衰退し、一時園城寺に付嘱したものの山門寺門の抗争に巻き込まれるなどし、室町時代には廃寺となった。寺跡は1928年(昭和3年)からの発掘によって確認。現在の跡は梵釈寺(桓武天皇が天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。国の史跡と歴史的風土特別保存地区に指定されている。

位置

 比叡山南麓、大津市滋賀里の3つの尾根上に位置する。 「日本後紀」に嵯峨天皇が、平安京から山中越をして崇福寺に立寄り、近くの梵釈寺に寄って湖上唐崎あたりを遊覧したとあり、このあたりと推定されていた。

 

 

遺跡

 

史跡崇福寺跡は、3つの尾根に主要建物跡が存在するが、北尾根の金堂(弥勒堂)、講堂、中尾根の小金堂、三重塔が崇福寺の遺跡であり、南尾根の建物跡は、梵釈寺の遺跡であると考えられている。1938年(昭和13年)の調査において、三重塔跡の塔心礎に穿たれた小孔から納置品が発見された。納置品のうち、仏舎利を納める舎利容器は、四方に格狭間のある台を付けた金銅製の外箱、銀製の中箱、金製の内箱の三重の箱に納められていた。金製内箱の内側には瑠璃壺を安置するための受花があり、その上に金の蓋をした高さ3.0cm、口径1.7cmの球形の瑠璃壺と三粒の舎利が納められていた。その周囲からは、瑠璃玉・硬玉丸玉・金銅背鉄鏡・無文銀銭・水晶粒・銅鈴・金箔木片などが伴出している。これらの出土品は、奈良時代の舎利の奉安状態が知られる貴重な遺品であり「崇福寺塔心礎納置品」として一括して国宝に指定されている。(近江神宮所蔵。京都国立博物館に寄託)。 現在、南尾根(梵釈寺跡)の金堂跡に「崇福寺跡」の石碑が建っている。

 

壺笠山城が真ん中の遠望

百穴古墳群

(大津市滋賀里町甲)

  百穴古墳群は今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。 石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。 表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。 この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
  石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。 石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、北石の棺桶に入れられました。 また、石室内には、多くの土器(土師器、須恵器)もいっしょにおさめられました。 この仲には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれています。
  古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。 現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
  昭和十六年(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。

大津市教育委員会

 

公園内に残る塔の心礎

南志賀の地は、昔から古瓦が出土することが知られていた。

 

昭和三年と昭和十三年から十五年にかけての二度の発掘調査によって、塔、金堂、僧坊跡などが見つかり、この地に寺院が存在していたことが明らかにされた。また、その後の調査で、この寺院跡の伽藍配置は、塔と西金堂が東西に対置し、これらをとりまいて回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかった。このうち、塔、西金堂、金堂の基壇は瓦積みで仕上げられていた。

 

この寺院は、天智天皇建立の崇福寺とも、桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていたが、『扶桑略記』に、崇福寺が大津宮の戌亥(北西)の方向に建てられたという記事があり、この南志賀の地の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見されていることから、そこが崇福寺跡として妥当性が高く、また、『日本後紀』には、崇福寺と梵釈寺が近接した位置にあったことが見られることから、この南志賀に位置する寺院跡は、逸名の寺院、南滋賀町廃寺ということになっている。調査の際には多数の瓦や土器が出土しており、その中にはこの地でしか見られない蓮華を横から見た文様で飾られた方形軒瓦もある。これらの遺物等から、白鳳時代から平安時代末頃までこの寺院が存在していたことが明らかになった。この廃寺跡から約300m西の地点で、この寺で使用した瓦を焼いた瓦窯群(榿木原遺跡)が見つかっており、瓦を手がかりに生産、需要、供給といった流通関係が明らかにされている。

 

宇佐山城遠望(右が二ノ丸)

本殿の上にNHKのアンテナ塔(この床下に宇佐山城主郭の石垣が?)

黒川村460km黒川村と天智天皇

不老長寿伝説~天智天皇のむべなるかな~
 蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。
それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです

 

近江神宮楼門(境内から)

皇子山古墳

大津宮錦織遺跡

大津京シンボル緑地

近江神宮表参道(11月3日古式流鏑馬の準備完了)

 

本日も訪問、ありがとうございました。


織田淡水の墓(陽泉院境内)

2013年11月03日 | 遺蹟

日本史上の有名人10名を挙げなさいと問われて、織田信長を選ばない人はまずいないと思います。ここ滋賀県には、安土城をはじめ信長に係わるものは数多くあります。ところが、その子孫となるとどうでしょう。ほとんどの人がその名前すら知らないでしょう。今回紹介するのは、信長のひ孫にあたる人物にまつわるものです。
 信長の七男に信高という人物がいましたが、その子高重の時に旗本寄合となり、近江国神崎郡に約2千石を与えられました。その場所は現在の東近江市神田町・野村町・外町にあたります。

高重を継いだのは一之です。一之は淡水と号し、元禄8年(1695)6月12日に亡くなっていますが、その墓が東近江市野村町の陽泉院境内にあります。墓はもともと境内にあったものではなく、八風街道に近い林の中にあったものが、数度の移転を経て陽泉院に置かれるようになったとのことです。墓石の表面には「織田淡水府君墓」と刻まれ、側面や背面には一之の事蹟などが述べられています。

織田淡水墓石(正面)

織田淡水墓石(正面)

織田淡水墓石(側面)

織田淡水墓石(側面)

 

織田淡水墓石(背面)

織田淡水墓石(背面)




 実をいうと、一之の本当の墓は東京深川の要津寺にあるそうです。考えてみれば、一之はここに知行を持つとはいえ旗本だったので、江戸に暮らし、墓も江戸にあるのが当然でしょう。しかも、信高流家系の当主のうちどうして一之の墓のみがここに建立されたのでしょうか。まだまだわからないことが多い墓です。「歴代当主の中でも、特に知行地である野村町一帯と縁が深く、供養碑として建立されたのではなかろうか・・・」などと、想像をふくらませてこの墓に参ってみてください。
 現在フィギアスケートの選手で、織田信長の子孫として知られている織田信成さん、この信高流家系の末裔です。

 

おすすめPoit

鳩塚

鳩塚

 陽泉院境内には、織田淡水の墓とともに「鳩塚」なるものがあります。これは、旧陸軍によって飼育されていた伝書鳩の墓のようです。軍隊によって用いられていた伝書鳩のことを「軍鳩(ぐんきゅう)」とも言い、日本には明治年間に入ってきたそうです。野村町に隣接する沖野には、かつて旧陸軍の飛行場があったことから、その関係で陽泉院境内に「鳩塚」が建立されたのでしょうか。この「鳩塚」ですが、わかりにくい場所にあります。境内は広くないので、じっくり探してみてください。なお、彦根市にある護国神社の境内には、軍によって使われた馬や犬・鳩のための慰霊碑が昭和60年(1985)に建てられています。

 

 

本日も訪問、ありがとうございます。


黒川村と天智天皇

2013年11月03日 | 遺蹟

~燃える水発祥の地、日本最古の油田~

胎内パークホテル

胎内パークホテル
豊かな自然が地域の産業と結びついてる胎内パークホテル

 新潟県はわが国において最も歴史のある石油産出地域です

日本書紀」によれば、天智天皇の7年(668)に、「越国、燃ゆる土燃ゆる水を献ず」と記述されています。これは燃える水すなわち臭水(くそうず)と呼ばれていた原油を天皇に献上したことを記したものです。この燃える水こそ、黒川村の地から採取されたものであるといわれています。

 現在でも黒川村下館の塩谷地内には油坪が多く残っていますが、このように早い時代に発見され献上されたのは含油層が浅くて、自然に原油が湧き出る状態になっており、人目につきやすかったからでした。


 燃える水の発見という珍しい出来事でしたが、都から遠く隔たった北陸の一地方でのこと。通信手段もない古代においてはなかなか都までは伝わりにくいはずなのですが、燃える水が献上される20年前の大化4年(648)には越の国に磐舟柵がつくられ、都との往来も頻繁にあって、この珍しい燃える水のことは早くから知られていました。

 


「水が燃えるなどということは、一体有り得ることなのだろうか」
おそらく当時の都ではこんな思いを抱いて不思議がったのではないでしょうか。黒川の燃える水を見たい。それで天智天皇の即位に合わせて献上されたということなのでしょう。

 時代は下って江戸時代、「北越雪譜」で知られる鈴木牧之も、その著述の中で石油のことを臭水とよび、越後七不思議の一つとして紹介しています。
 黒川村の地名は、古くから黒い原油が流れていたことから黒川という地名がつき、中世においてこの地域を支配していた和田氏も、黒々とした燃える水が流れる川から姓を改めて黒川にしたと伝えられています。


 この燃える水にちなんだ儀式も、滋賀県の近江神宮と黒川村で毎年行われています。天智天皇を祀る近江神宮では、「日本書記」に記されている燃える水の献上地は黒川村であるとして、毎年7月7日に燃水祭を行っています。また、黒川村でも献上の故事にならって7月1日に燃水祭を催し、日本で最古といわれる油坪から採取した臭水を近江神宮に献上しています。  

この臭水を採取した油坪は国の史跡に指定されて、その場所である公園の名をシンクルトン記念公園と名づけています。この名は明治6年(1873)に黒川村に来て、原油の採掘技術を指導したイギリス人医師の名をとったものです。

 

 

本日も訪問、ありがとうございました。

http://www.hrr.mlit.go.jp/iide/iide/culture2.html