城郭探訪

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荒神山城 近江国(彦根)

2013年12月10日 | 戦国山城

 

 山頂までトライブウェィがつけられており、楽々登城できる。

山頂には荒神山神社が祀られており、神殿の裏手に廻ると見事な石垣を観ることが出来るが、この石垣は城とは無関係である。

お城のデータ

所在地:彦根市清崎町初  map:http://yahoo.jp/oC699G

現 状:荒神山古墳       

区 分:山城

遺 構 :石積み・竪堀・曲輪

築城期:南北期

築城者:日夏安芸守

城 主:日夏安芸守

廃 城:織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して焼き払われたとある

標 高:262m 比高差150m

目標地:NHKの中継電波塔(荒神山神社)

駐車場: NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場

訪城日:2013.12.09

NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場を背に「荒神山歴史めぐり」コースを100m

土塁(植栽:獣害防止ネットで囲われて)

後円墳が主郭

後円墳が主郭主郭へ主郭の東側

東側の切岸に、石垣が北側・・・物見櫓か?物見櫓か?・・・琵琶湖・多景島三角点

お城の概要

山頂までトライブウェィがつけられており、楽々登城できる。

山頂には荒神山神社が祀られており、神殿の裏手に廻ると見事な石垣を観ることが出来るが、この石垣は城とは無関係である。

荒神山城は 宇曽川の左岸、標高262mの荒神山の山頂付近に築かれた城である。南方約3kmには山崎山城もあり、琵琶湖岸の街道監視の城である。

 荒神山城は、神社から北方尾根を100mほど歩いた所に位置している。饅頭型の東斜面と北斜面に小曲輪を配し、東斜面には石積みがみられる。また、荒神山神社の背後にも階段状の曲輪が認められる。

荒神山城は、彦根市街の南方に大きくそびえる荒神山山頂付近にあった。現在山頂には荒神山神社が建ち、東西から車道が通っていて容易に訪れることができる。

 荒神山は、山全体に整備されたハイキングコースがある。残念ながら荒神山に城跡だと、地元の人も知ろ人は少ない。

しかし、この山塊には荒神山城の他に、北に日夏城、西に山脇古城山城、南に山崎山城と実は城跡の宝庫なのだ。

城域は山頂の神社東側、荒神山神社の裏から北東に少し下ったところに古墳があり、その古墳が主郭・城域である。

古墳跡があり、直下には県教委の石碑が建っている。頂部の北側の墓地あたりは広い削平地になっている。東斜面の腰曲輪形状付近には石垣も。この頂部と神社の間には何段かの削平地や竪堀があるが、これも城遺構である。

お城の歴史

荒神山城は、築城年代は定かではないが、観音寺城主六角氏の重臣・日夏安芸守が荒神山城(日夏氏[六角氏の庶流]居城)を築く。

荒神山神社は由緒書きによれば、慶応4年(1864)神仏混淆を廃止となるまでは、お寺と神社が同居していたとのことである。

山頂にある荒神山神社は、明治維新までは奥山寺といい、宗派は天台宗で織田信長によって比叡山が焼き討ちされたのと前後して奥山寺も焼き払われたとある。。

神社が城域であったならば、信長の近江侵攻までには廃城になっていたという。

関ヶ原合戦後、井伊氏が近江に封ぜられた際に、佐和山・磯山とともに新たな築城の候補となったとされるが、最終的には金亀山(彦根城)に築城された。

 

 また、井伊直政が近江に封ぜられた時に、佐和山,磯山と共にこの山が築城の候補となっていたが、最終的には金亀山(彦根城)に築城された。

秀吉が寄進したという石灯籠

天正12年に秀吉が寄進したという石灯籠

なお、庭園には天正12年に秀吉が寄進したという石灯籠が今も残っており、灯籠には「天正十二年二月吉日」と彫られている。

NHKの中継電波塔(荒神山神社)駐車場,帰りもトライブウェィ

滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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日夏城(山城・詰め城) 近江国(彦根)

2013年12月09日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:彦根市日夏町 map:http://yahoo.jp/Pdoe7u

現 状:山林・荒神山少年自然の家ウォークラリーEコース

遺 構:曲輪、竪堀、土塁、堀切

区 分:山城(詰め城)

築城期:室町期

築城者:日夏氏

城 主:日夏越前守

目標地:唐崎神社

駐車場:唐崎神社 駐車場

訪城日:2013.12.9

お城の概要

日夏城は、荒神山の最北端に位置し、大きな山塊の隅っこの細い山尾根に申し訳なさそうにあった。荒神山は山全体が探索コースとなっていて、日夏城へもはっきりした道がついている。
麓の唐崎神社の裏からは道も広く意気揚々、しかし途中からは突然の急勾配。ロープが張ってあり、それにつかまらないと登り降りできない程で、ちょっとしたアスレチックのようだ。
山道をほぼ登り切ると、左手の雑木林の中に遺構が現われる。道以外は全くの未整備のため判りづらいが、いびつな土塁で3つに仕切られた削平地と頂点に物見台程度の小さな曲輪がある。そこからは急下降するが、更に山の本体方向へ向かうと堀切が認められる。しかし、いずれも雑草に覆われ、写真でははっきり判らないものばかりであった。
城と呼ぶには本当にお粗末なつくりで、砦もしくは荒神山城の一部としか考えざるを得ない。

宇曽川西岸沿いの「唐崎神社」~徒歩で神社裏山を尾根づたいに約500m進む

歴  史

日夏の地を本拠て あったと推測されますが、 土豪化し、城を築いて戦国大名に従化し、戦国大名に従 うよになったのでしょう。

『 江州佐々木 南北 諸士帳』 には 、「日夏庄泉城主  佐々木随兵 日夏越前守」と記されて ます。

地元に残る古文書は、 永禄2年(1559)の「 肥田城水攻め」や、翌年野良田表合戦」に勝利した浅井長政の重臣 磯野員昌が、その勢いで六角方日夏氏を攻めました首尾よく抗戦して難を逃れたこと。その後、 浅井長政配下なった。日夏氏は元 亀4年(1573)の織田信長による小谷城総攻撃により、浅井一族ともに討死しやがて日夏城没落たこなどが記されいる。

唐崎神社横・・・駐車可3台(他に、近くに駐車場あり)

 

日夏城 遠望

 参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わやしの町の戦国(彦根教育委員会)

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三上陣屋 近江国(野洲)

2013年12月09日 | 陣屋

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

お城のデータ

所在地:滋賀県野洲市三上 マップ:http://yahoo.jp/TOkW6n

区 分:陣屋(現状個人宅地)

遺 構:堀・石積・移築門

城 主: 遠藤胤親,遠藤胤将,遠藤胤忠,遠藤胤富,遠藤胤緒,遠藤胤城

訪城日:2013.12.5

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

三上陣屋(みかみじんや)は滋賀県野洲市野洲町三上(近江国野洲郡)にあった三上藩の藩庁である。

堀跡と思われる小川が残る他は宅地

歴史

元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養子とした上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。

その後、遠藤氏は大番頭として、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に移封され、陣屋を構えた。

第5代藩主で若年寄の遠藤胤統は功績を認められて2千石の加増をうけた。第6代藩主の胤城(たねき)の時、明治維新を迎えている。明治3年(1870年)に和泉国吉見に移っている。

遺構

陣屋址は現存しない。滋賀県湖南市岩根の常永寺山門に陣屋表門が移築現存している。また、民家に陣屋裏門が移築現存している。将軍上洛御殿の一つである、永原御殿が草津市の芦浦観音寺書院に移築されている(重要文化財)。

 

歴 史

元禄11年(1698年)遠藤胤親によって築かれた。 元禄5年(1692年)3月郡上八幡城主遠藤常久が7歳で嗣子なく没し、幕府によってお取り潰しとなったが、先祖の遠藤慶隆の功績が認められ、一族の遠藤胤親を大垣新田藩主戸田氏成の養子とし、常陸国・下野国に一万石を与えられて存続した。この胤親の所領が近江に移され三上陣屋を構えて三上藩となった。

嘉永5年(1852年)遠藤胤緒のときに二千石の加封があり一万二千石となった。 慶応4年(1868年)新政府に敵と見なされて所領を没収されたが、同年罪は許され領地は返還された。明治3年(1870年)遠藤胤城のとき、和泉国吉見へ移された。

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

現状 

三上陣屋は通称近江富士と呼ばれる三上山の西麓に築かれていた。 現在は堀跡と思われる小川が残る他は宅地となり、明瞭な遺構は残っていない。

陣屋の門と伝えられるものが、湖南市岩根にある常永寺と陣屋跡の直ぐ近くの民家に移築されている。

 車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)

車は三上山裏登山口駐車場(天保義民碑前)・・・約10台可

 

本日も訪問、ありがとうございました。


山田城 近江国(草津)

2013年12月09日 | 居館

市立武道館と山田城址説明板。

所在地:草津市南山田町 マップ:http://yahoo.jp/hLxLK1

現 状:草津市立武道館

区 分:平城

遺 構:堀痕(用水路)、説明板

築城期:鎌倉期

築城者:山田氏

城 主:山田左衛門尉秀資

訪城日:2013.12.5 

お城の概要

今は草津市武道館が建っているところが城跡です。

武道館建設前に発掘調査が行われ、二重の堀が検出され、城は円形をしていたようです。今は武道館前に説明板があるのみです。

発掘時:http://www.oumi-castle.net/second_page/yamada/yamada.html

 

歴 史

鎌倉期から室町期まで山田郷を領した山田氏の居城とされます

「江州南北諸士帳」に、南北山田 住 山田幸之進の名が見える。

 山田城は、矢橋・志那と並ぶ琵琶湖の湖港山田港を支配した山田氏の城である。築城は13世紀ごろに遡るとされる。

永禄十一年(1568)、織田信長が上洛の軍を興して近江に進軍すると、城主山田左衛門尉秀資は信長に抵抗し、滅ぼされた。その後の山田城主については不明だが、元亀二年(1571)の比叡山焼き討ちに際して、信長が一時山田城に入城した。廃城時期については不明である。

 山田城は、琵琶湖の旧湖岸沿いに走る浜街道に面して築かれています。現在、城跡には市立武道館が建設され、遺構は残っていません。建設に先立ち、平成十二年(2000)に発掘調査が行われました。その結果、山田城は2条の円形の堀に囲まれた、単郭の城であったと推測されています。このうち1条目の堀のすぐ外側を同じように囲む2条目の堀は、戦国期に増設されたものであると考えられています。

  円形の縄張り、山田城が13世紀の築城当初から円形であったとすると、非常に貴重な城跡である。
   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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小谷城 近江国(日野)

2013年12月09日 | 平山城

お城のデータ
  
住所:蒲生郡日野町小谷 マップ:http://yahoo.jp/6-PgFe

目標地:竹田神社・円林寺

区 分:平山城

比高差:10m                                                               

現 況:神社・寺院境内

遺 構:土塁・堀・櫓台・説明板

築城期:鎌倉期

築城者:小谷次郎三郎

訪問日:2013.12.4

お城の概要

小谷城は、東海道の土山宿と中山道愛知川宿の小幡(五個荘町)を結ぶ脇街道である御代参街道(国道477号線)沿いにあって、小谷地区集落の西、小高い林の中にある竹田神社と円林寺の一帯が小谷城。

お城の歴史

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。

蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。
 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。

土塁切岸櫓台

竹田神社の裏、あるいは円林寺の西側の竹藪には曲輪跡とおぼしき削平地が幾つかあり、円林寺境内に祀られている稲荷大神の一画は周囲よりも一段高く、櫓台とも考えられる。

堀・土塁駐車場5台
小谷城 遠景


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳、蒲生旧趾考

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立入城 近江国(守山)

2013年12月06日 | 平城

 

 

 

城域の(東福寺の土塁より、新川神社)遠景

お城のデータ

所在地:守山市立入町 マップ:http://yahoo.jp/AWGEqj

現 状;集落

遺構 :土塁・堀跡

形式 :平城(居館)

築城者 :立入(松田)秀興

城 主 :立入宗継

築城時期 :文明年間(1469-87)

訪城日:2013.12.5

お城の概要

 立入城は、野洲川の左岸にあった平城です。南西500mほどのところに浮気城があり、立入宗継は、朝廷と信長の間で奔走した皇室の忠臣であり、またそうした諸大名との関わりの多さから重要な一次資料とされている『立入左京亮入道隆佐記』の著者として知られています。しかし、宗継の事跡に比して立入城の残存状況は良いとはいえません。集落内の新川神社・東福寺に土塁の痕跡が散見される。

立入城は、野洲川西岸の立入集落南方にあった。新川神社の南側に口屋敷、さらに南側に奥屋敷の字名が残り、この付近一帯が立入城であったと考えられる。
現在は旧宅地に加え、新興住宅地も造成され年々面影は消えつつあるが、西方と南方には堀跡と思われる比較的広い水路が残り、周濠集落の様相である。堀跡の他に土塁の残片が2ヶ所、櫓台風の高まりが1ヶ所確認できる。
昭和期の遺跡調査時点では、Cの高まりに延長上の西辺・南辺水路内側に平行して土塁およびに付随する堀が残っていた。南辺の土塁は途中で直角に折れB土塁へ至ったと考えられ、奥屋敷は少なくとも3辺が土塁と堀に囲まれた方形館であったと思われる。

また消失したが、A土塁のすぐ北西付近にも土塁が残っていたという。北端の新川神社境内にも土塁が見られるが、城遺構なのかは不明である。

 隣町の岡町に立入氏の菩提寺西隆寺がある。立入城は、文明年間(1469-87)松田丹後守秀興によって築かれたとされる。松田氏は相模国足柄上郡松田郷波多野氏の一族で、いくつかに分派した松田氏の中で、諸説あるが、室町期に幕臣として京都に存在した家系ではないかと考えられる。松田秀興は、江南守護六角高頼の配下となり、立入城主として野洲郡8万石を領して立入氏を称した。

歴 史

  松田秀興がこの地に城を築き、立入氏を称したとされる。秀興については、『守山城物語』では飛騨高山の出身としているが、詳細は不明である。また、室町幕府の奉行人に同名の人物がおり、秀興の子立入宗康の活動時期から鑑みて年代的にも妥当している。宗康は、皇室の食料や費用を預かる御倉職(みくらしき)となった。

  立入氏については、別に六角氏が家臣高瀬氏の一族の者に立入因幡守清直と名乗らせ立入城主としたとする異説がある。しかし、清直という人物と宗康らとの関係を含め、詳細は不明である。御倉職は、宗康の子宗長、宗長の子宗継と受け継がれた。宗継は、皇室の財政窮乏に瀕して、永禄五年(1562)ごろから織田信長への接近を説いた。宗継自身同七年(1564)には清洲城へ、同十年(1567)には岐阜城へ正親町天皇の勅旨として信長を訪ね、朝廷への支援と上洛を促した。翌十一年(1568)に、信長は上洛の軍を興して近江の六角氏を追い払い、入京した。その後宗継は、信長や諸大名と朝廷の間の交渉係として活躍した。

 松田氏は代々朝廷の禁裏御蔵職として公武の橋渡しをしてきた家柄で、立入氏となっても御蔵職は受け継がれた。立入家は秀興-宗康-宗長-宗継と世襲した。

宗継の時、正親町天皇の勅使として応仁の乱以降荒んだ御料所の回復や、京都御所の修繕を依頼するため、永禄7年(1564)と永禄10年(1567)の二度に渡り、織田信長と会見し上洛を促す。
永禄11年(1568)信長の上洛時には天皇の命を受け粟田口にて出迎え、信長に急接近する。

元亀騒乱(元亀元年1570)での野洲川の戦いにおいて織田軍(柴田・佐久間・稲葉)と六角軍が戦った時は立入城は織田軍の前線基地となった。
信長死後は美濃岐阜城主織田信秀、近江八幡城主豊臣秀次に属したのち、立入氏の動向が判らない。宗継は長命で、元和8年(1622)94歳まで生き、墓は京都清浄華院にあり、明治期になって政府から朝儀復興に尽力した功績を称えられ、同寺に『立入宗継旌忠碑』が建てられた。京都時代祭には、現在でも立入家当主が『織田公上洛列』の先頭で馬に乗り登場している。

『日本城郭大系』によれば、『四月録』に元亀元年(1570)に立入城が六角義賢(承禎)によって使われたことが記されているという。おそらく信長包囲網形成期における六角氏の蜂起で、一時的に奪われたものと考えられる。宗継は元和八年(1622)まで生きたが、立入城の廃城時期については不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、日本城郭大系、守山の城

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弓削城 近江国(竜王)

2013年12月06日 | 平城

現在、宮本氏のお宅が弓削城の跡といわれており、周囲の水田は堀の跡だというが、遺構などは残っておらず、頷くしかない。

 お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町弓削   map:http://yahoo.jp/zgpkMn

区 分 :平城

築 城 : -

初城主: -

遺 構 : 消失

現 状 :集落

訪城日:2013.12.6

 お城の概要

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)は、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。

また東南に位置する葛巻は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。

南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷(せっか)派の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。

弓に関する地名では「弓削」と言う字が竜王町には残っています。

また、弓道発祥の地であることが伺える行事に、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が今も残っています。

歴 史

『江濃記』に、弓削城(竜王町) 六角京極合戦事 「応仁二年十月三日山内政綱下向し、弓削と云所に馳向ひ責戦ひれけば」と記す。

弓削城は滋賀県蒲生郡竜王町弓削にあり、東山道の近江になります。

  近江天保一揆は、江戸時代後期に起こった百姓一揆。蒲生郡弓削村(現蒲生郡竜王町)の庄屋松瀬伊兵衛は村中に諮り440余両を贈賄し、新開場の査定を有利に値切ることができた。

弓削村地籍図【縦156.0㎝×横118.7㎝】

 

 弓削村地籍図からは整然と並ぶ正方形に近い条里制(じょうりせい)による地割が読み取れる。当地域の条里の南北方位軸線は、正南北よりも北が若干西方向にふれているのだが、集落周辺の地割はほぼ正東西南北を指向し、周りの条里制地割の規則性とは違う方位を持っている。実は弓削集落は、古代寺院「満願寺廃寺(まんがんじはいじ)」跡に立地しているのである。そのため、古代寺院が築かれた時の正南北東西地割が、連綿とその後の土地利用時にも踏襲(とうしゅう)され、明治9年(1876)に作成されたこの絵図にも反映しているのである。同廃寺の創建(はいぜつ)・廃絶時期は、本格的発掘調査がなされていないため不詳ではあるが、付近から出土した瓦の様式などから、奈良・平安期に存在していた寺院であると推定されている。寺名は付近の小字名「万願寺」に由来しているが、これは後世の人々が付けた名であって、この寺院が存在していた時代に呼ばれていた名は伝来していない。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、江濃記、近江の城郭

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大原氏館 近江国(山東)

2013年12月06日 | 館跡

三島池より 

 

所在地:米原市本市場  マップ:http://yahoo.jp/FJFl0f
初城主:大原重綱
区 分 :平城(館)
遺 構 :堀,土塁
城 域 :80m×60m

 

大原氏の館は初代・重綱から始まった大原氏の代々の居館である。館跡は竹林の中に東西約60m、南北約80mにわたって掘と小高く築かれた土塁が残る。


 それにしても、二男高信(高島氏)の清水山城、三男泰信(六角氏)の観音寺城
、四男氏信(京極氏)の柏原城など比べると、この大原氏の館はいかにも小さい。
 佐々木信綱の嫡男でありながら、大原庄しか相続できなかった重綱の無念さが伝わってくるようである。
 なお、この館の地は現在も小字堀の内と呼ばれ、周辺には堀の西、堀の南、中屋敷などの城館に関連した小字名が残っている。

城郭の歴史 

平治元年(1159)平治の乱では平清盛が勝利し、源義朝は嫡男・義平と共に鎌倉へ落ち延びる途中に捕らえられ殺害さた。
当時13歳だった義朝の三男・頼朝は伊豆の蛭が小島に流されたが、治承4年(1180)8月北条時政の力を借りて挙兵した。
 この時佐々木秀義は定綱,教高,盛綱,高綱,義清の五人の子を率いて頼朝のもとにはせ参じ、平家討伐の貢献により、嫡男定綱は佐々木家の旧領であった近江国を領した。


 その後、佐々木氏12代目の佐々木信綱は4人の子に近江を分割して与えた。長男・重綱には大原庄を与えて大原氏を名乗らせ、二男高信には高島郡を与え高島氏とし、三男・泰綱には愛知川以南六郡(志賀,甲賀,栗田,野洲,蒲生,神崎)を与え六角氏とし佐々木宗家を継がせた。四男・氏信には愛知川以北の六郡(愛知,犬上,坂田,浅井,高島)を与えて京極氏とした。

 大原氏は名門佐々木氏の流れを汲むことから室町時代には将軍の奉公衆に列していたが、11代政重で大原氏の血脈は絶えた。12代,13代と六角氏から入嗣し大原氏の存続を図ったが、骨肉相食む戦国期になると、大原氏の領地は京極氏、浅井氏の領地に次第に組み込まれ、大原氏は滅亡した。

 遠景

 

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松尾山の砦 近江国(高月)

2013年12月04日 | 

お城もデータ

所在地:伊香郡高月町松尾 map:http://yahoo.jp/ZOjo7s

城 主:磯野丹波守

区 分:砦

現 状:山林

遺 構:削平地、竪堀、堀切

標 高:220m(磯野山山腹) 比高差120m

戦 い:永正14年(1517)
  ○浅井亮政 VS  ●磯野丹波守員栓・赤尾氏

訪城日 : 2013.12.02

お城の概要

斜度40度ほどの急斜面を下る。
下山してみると "急傾斜地崩壊危険区域"の立て札が建てられており、道理で急斜面のはずと納得。

磯野山城の北に走る尾根の斜面に4段ほどの削平地が続く。登るときには気がつかなかったが、急な斜面に竪堀が30mの距離をおいて2本掘られている。
 なお、磯野山城の中腹に「松尾山の砦」(=磯野山城の一部か)は、竪堀と堀切だけを防御施設としており、堀切,竪堀は全部で14条あるという。

歴 史

『江州南北諸士帳』に磯野城主 佐々木浅井随兵 磯野源三朗、伊予守元摂州 磯野伊予守通信、同磯野右衛門太輔、佐々木隋兵磯野末宮沢右衛門」の名が見える。

 磯野山城は京極氏の家臣・磯野氏の居城で、江北で京極氏に替わって浅井氏が台頭した後は浅井氏の家臣となる。

 磯野員昌は浅井氏の家臣の中でも勇猛であったとされ、元亀元年6月姉川を挟んで浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いで、浅井・朝倉軍が小谷城へ向けて退却する際、磯野員昌は手勢五百を率い、敵中突破をして佐和山城に立て籠もっている。
 磯野員昌は、後に織田信長に降り高島郡新庄に封じられ、織田信澄の養父となっている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳

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磯野山城 近江国(高月)

2013年12月04日 | 戦国山城

お城もデータ

所在地:伊香郡高月町磯野 マップhttp://yahoo.jp/urTKPU

城 主:磯野丹波守

区 分:山城

遺 構:削平地、竪堀、堀切

城 域:210m×75m

標 高:271m(磯野山)

戦 い:永正14年(1517)
  
浅井亮政
     VS
   ●磯野丹波守員栓・赤尾氏

訪城日 : 2013.12.02

お城の概要

斜度40度ほどの急斜面を下る。
下山してみると "急傾斜地崩壊危険区域"の立て札が建てられており、道理で急斜面のはずと納得。

山頂には、長さ30mほどの楕円形の削平地があり、ここが本丸。

 北に走る尾根の斜面に4段ほどの削平地が続く。登るときには気がつかなかったが、急な斜面に竪堀が30mの距離をおいて2本掘られている。
 なお、磯野山城には堀や土塁などは無く、竪堀と堀切だけを防御施設としており、堀切,竪堀は全部で14条あるという。

 

歴 史

『江州南北諸士帳』に磯野城主 佐々木浅井随兵 磯野源三朗、伊予守元摂州 磯野伊予守通信、同磯野右衛門太輔、佐々木隋兵磯野末宮沢右衛門」の名が見える。

 磯野山城は京極氏の家臣・磯野氏の居城で、江北で京極氏に替わって浅井氏が台頭した後は浅井氏の家臣となる。

 磯野員昌は浅井氏の家臣の中でも勇猛であったとされ、元亀元年6月姉川を挟んで浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いで、浅井・朝倉軍が小谷城へ向けて退却する際、磯野員昌は手勢五百を率い、敵中突破をして佐和山城に立て籠もっている。
 磯野員昌は、後に織田信長に降り高島郡新庄に封じられ、織田信澄の養父となっている。

三角点竹生島が!山本山城

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、江州佐々木南北諸士帳

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大森山城陣所(赤尾山城・磯野山城) 近江国(高月)

2013年12月04日 | 戦国山城

大森山の切通し口

所在地 : 伊香郡高月町磯野

磯野・松尾

築城年 : 室町期

形  式 : 磯野山城(標高(330m)上部陣所 マップ: http://yahoo.jp/Dt4uKu

遺  構 : 土壇、堀切、土橋、竪堀

訪城日 : 2013.12.2

磯野山城は磯野氏の居城(詰城)である。
  江北の守護・京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。

大森山陣所跡

浅井三代記

伊香郡磯野山山本山両城合戦の事

 ~~~其上磯野を責るといふとも上平より勢を出され当城へ取掛被レ申候事なるべからず。上平へ押寄なば、山本、磯野は二里間なれば、留守を窺ひ敵可レ来、兎角磯野を可レ攻と宣ひければ、然らば先一もみもんで見給へと評定極りて、永正十五年二月十七日、六百余騎を二手に分、山本へは赤尾駿河守教政を大将にて野村伯耆守、同肥後守、大橋安芸守、海北善右衛門尉、阿閉三河守、西野丹波守、雨森弥兵衛、此人々相添、都合其勢一千余騎さし向らる。我身は舎弟大和守、同宮内少輔、東野左馬助、井口弾正、赤尾筑前守、同孫三郎、今村掃部頭、伊部清兵衛、八木与藤次、片桐右馬允、千六百余騎にて磯野山へ向はる。磯野山には此よしを見るよりも浅井勢当城へよすると見ゆるぞ。

川を前に当て戦ふべしとて源三郎を大将として究竟の射手を三十人一文字に川より半町許手前にひかへ、其の後には右衛門大夫、千田伯耆守、三百余騎にてひかへたり。大森山の切通し口には布施、横山、森、百五十騎にてひかへたり。かくて備前守は磯野の郷のこなた、あやと申所に本陣をすへ給ひ、先陣を伊部に被2仰付1、磯野郷の際まで打入見けれども、敵、川のあなたにひかへさゝへければ、伊部清兵衛、磯野村へ討入放火すべきと思ひ、郷中へかけいらんとせしを、源三郎是を見て、川よりこなたにひかへ勝利十分有といふとも、郷中を放火させては其甲斐有まじきとおもひ三十余騎の射手を引具し、川をさつと渡し、清兵衛が先手の勢へかけ向ひ、指詰引詰射たりけり。源三郎元来精強の大矢にて、向敵五六人目前に射落しければ、寄手しばらく進みかねたり。かゝる処に赤尾孫三郎旗本より三十騎許にて面も振らず馳向ふ。右衛門大夫是を見て源三郎を引連れ川よりむかひに引取けり。~~~

本日も訪問、ありがとうございました。


赤尾山城 近江国(木之本)

2013年12月03日 | 丘陵城

木之本赤尾の丸山

赤尾山城登り口 地図http://yahoo.jp/ekM-z4

別  名 : 赤尾左の館の詰城

所在地 : 長浜市木之本町赤尾 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tZNBVg

築城年 :

築城者:赤尾氏

形  式 : 平山城(標高250m)

遺  構 : 竪堀、櫓台、土塁、横堀

訪城日 : 2013.12.02

堅堀赤尾山城 縄張り図(作図:長谷川博美氏)

詰め城ながら、約100m程、濡れた落ち葉の上を直登する。

最下壇の郭赤尾山城 縄張り図(作図:長谷川博美氏)

中壇の郭跡赤尾山城(下・中・上)最上郭跡

赤尾山城 縄張り図(作図:長谷川博美氏)

本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


三上城(妙光寺山城) 近江国(野洲)

2013年12月02日 | 山城

妙光寺会館~御池~出世不動明王~旧坂登り30分~妙光寺城(山頂)~出城~妙光寺城(山頂)~分岐点(60度の下り)~妙光寺磨崖仏~登山口~R8~妙光寺城会館

妙光寺会館前に車30台可。

所在地:野洲市(旧:野洲郡野洲町)妙光寺   map:妙光寺頂遺構城http://yahoo.jp/QZBjDm                                                                                      
別 称:妙光寺山城

区 分:山城

現 状:山林

築城期:室町期・・・永享年間(1429〜41)

築城者:三上氏                                                                         

標 高:270m    比高:170m                                                                       

遺構等:曲郭・土橋・平削地  

目標地点:妙光寺山                                                              

駐車場:妙光寺会館前に車30台可。      御上神社奥殿より45分
訪問日:2013年11月29日

お城の概要

 城跡は山頂(標高270.5m)付近に方形の削平地が4〜5ヵ所と土橋が存在することからこれを当てる考え方もあるが、古墳や寺社と見なすこともできる。一方、西方250mの尾根上(標高230m付近)が東西約120mにわたりテラス状となり、削平地や加工面をもつ岩盤が存在し、北々西200mの尾根上に出城が築かれていることから、本城跡の可能性もある。」

 

国道8号線で来ると野洲市妙光寺の信号を右折します。400mほど入った所に貯水池があります。この山裾側を歩くと御上神社奥殿があり、その先に妙光寺山に登る道があります。(野獣用の柵がありますが、外して中の道に行けます)登り口はハイキングコースから、妙光寺山の山頂をを目指して、20~30分も登ると山頂に出る。

 妙光寺山頂が三上城です。さらに進むと出城の遺構と考えられる曲輪や竪堀を確認できるが、なだらかな山頂は平削され10m四方には城郭遺構(土塁等は無いが、犬走りは散見できる)。

 この妙光寺山には古墳が多く、中腹には石窟が幾つも見られ、古代歴史ファンには興味深い山だと思われるが、城郭ファンとしては詰め城、街道の見張り城の役割カ。

 

城郭の歴史

 

「江州佐々木南北諸士帳」に 三上城主 佐々木旗頭 三上孫兵衛高久・三上美濃守実重・三上九朗左衛門重正・三上蔵人佐高佐・三上伊予守秀成・三上惣左衛門頼久の名がみえる。

 

 三上城は、永享年間(1429~1441)に三上政実が築城し、代々三上氏が居城として六角氏の江南の旗頭を務めた。
元和元年(1615)に三上季正の名がみえる。

 

「六角氏の家臣三上氏が、永享年間(1429〜41)に妙光寺山に築いたと伝える。

 

                                                 

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、「江州佐々木南北諸士帳」、遺跡ウォーカー  

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2013年12月01日 | 番外編

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