城郭探訪

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高松御所 近江国(永源寺)

2014年05月24日 | 居城

 

君ヶ畑には太皇器地祖神社、金竜寺、惟喬親王御所(高松御所)があり、白川神祇伯家の系統。4月3日、9月11日が大祭。

歴 史

惟喬親王「御縁起」には、
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王」は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。

親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。

 出家した惟喬親王が創建したとされる金龍寺は、村人から高松御所と崇められたようです。

【金竜寺】

貞観元年(859)、この地に隠棲された惟喬親王が、出家して素覚と称し一宇を造立して仮御所とし、これが開基とされている。

のち曹洞禅刹として再興されたらしく、一名「高松御所」とも呼ばれている。  堂宇は山門・本堂・庫裏などを備え、本堂に惟喬親王の木像を奉安している。

  ここには、元禄7年(1694)から明治23年(1890)までの氏子狩帳53冊が所蔵され、また境内に隣接して「日本国中木地屋氏神惟喬親王御廟所」という石標のたつ南北朝時代の宝篋印石塔があり、親王の墓所と伝えられている。

同じく境内には万年筆会社が建立した「ろくろと万年筆」と書かれた碑がある。

日本国中木地屋氏神惟喬親王御廟所」という石標のたつ南北朝時代の宝篋印石塔があり、親王の墓所と伝えられている。

 

 

 

君ケ畑バス停

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「惟喬親王伝説」を追う   東近江発の超大型情報

2014年05月24日 | 番外編

惟喬親王像(東近江市蛭谷町・帰雲庵蔵)―『永源寺町史』より転載―


 惟喬親王(これたかしんのう)は「木地師の祖」とされ、わが東近江市にとって忘れられない歴史上の人物である。親王は「悲運の皇子」であった。それゆえの伝承が東近江を発信地として、広く全国につたわった。

■運命の暗転
 惟喬親王は承和十一年(八四四)、第五十五代文徳天皇(もんとくてんのう)の長子として生まれた。幼いころから聡明で、父・天皇は親王をことのほか愛されていたという。親王が七歳のとき、弟宮・惟仁親王(これひとしんのう)が誕生された。この時点で惟喬親王の運命は暗転した。
 惟喬親王の母・静子は紀氏出身である。紀氏は由緒ある氏族であるが、政界では勢力がなかった。いっぽう、あらたに誕生した惟仁親王の母は、太政大臣・藤原良房の娘、明子である。良房は、外戚の地位を利用し誕生まもない惟仁親王への皇位継承を企てた。その結果、生後九ヶ月の惟仁親王が皇太子に定められた。
 天安二年(八五八)、文徳天皇崩御。良房の敷いたレール通りに皇太子・惟仁親王が即位、清和天皇となられた。

■風雅の世界に遊ぶ
 青年期の親王は、このような不運を文芸や狩猟など風雅の世界に遊ぶことで紛らわされた。
 『伊勢物語』には、親王が在原業平(ありはらのなりひら)とともに水無瀬(大阪府島本町)の離宮や、天野川に近い渚の院(枚方市)で鷹狩りを催された話が出ている。親王は狩猟もほどほどに酒宴をひらき、歌を詠んで愉しまれるのが常であった。親王と業平は姻戚関係にあり、おおいに気があったらしい。
 貞観十四年(八七二)七月、惟喬親王は病をえて出家、比叡山の麓・小野の里に隠棲し「小野宮」と呼ばれた。二十九歳であった。大原三千院に近い大原上野町(京都市左京区)や雲ヶ畑、大森東町(京都市北区)などが隠棲地とつたえられている。
 ある冬、業平が小野の里に親王を訪ねた。親王はいかにも寂しげにしておられた。業平は、「深い雪を踏み分けて参りましたが、このような所でわが君にお逢いしようとは思ってもみないことでした」との歌を残した(『伊勢物語』)。
 寛平九年(八九七)二月二十日、親王は五十四歳で亡くなられた。
 以上が史料で辿ることのできる親王の生涯である。
 平安王朝の華やかな表舞台から退き山深い里に隠棲、病没された悲運の親王は、やがて、木地の良材をもとめ山野を渡り歩いていた山の民により、「木地師の祖」として甦り篤い尊崇をうけることになった。

 

惟喬親王墓所(宮内庁治定・京都市左京区大原上野町)

■小椋谷の伝説
 愛知川最上流の小椋谷(「六ヶ畑」と呼ばれる君ヶ畑・蛭谷・箕川・黄和田・九居瀬・政所の地域。東近江市)では、戦国時代から木地師(きじし)が活動していたといわれる。
 木地師とは、山中の樹木を伐りだし轆轤(ろくろ)を使って木製の椀や盆など、日常生活品を作り出す職人である。適当な材木がなくなると、山から山へと良材をもとめ各地に移住した。その根元の地ともいうべき小椋谷に、惟喬親王伝説が芽生えたのは近世初頭のことである。
 蛭谷(筒井公文所・筒井神社)や君ヶ畑(高松御所・大皇器地祖神社)につたわる惟喬親王「御縁起」には、およそつぎのような物語が記されている。
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(さねひで,のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。その後は読経三昧の日々をすごしておられたが、ある日、親王は法華経巻の紐を引くと軸が回ることから轆轤を考案、また、池でくるくる回る樫の殻を見て木椀をつくることを思いつかれた。そして、御所周辺の杣人たちに轆轤の技術を伝授された。これが木地師のはじまりである。」

■愛知川沿岸の伝説
 びわ湖から愛知川沿いには、いまも数多くの親王伝説が残っている。
 都を逃れた惟喬親王は、琵琶湖の東の浜辺に上陸されたという。その地は「宮ヶ浜」(近江八幡市沖島町)と呼ばれるようになった。宮ヶ浜から一山越えた若宮神社(近江八幡市白王町)には惟喬親王が祀られ、「この地で手芸や細工を教えられた」との伝説をもつ。
 八木神社(愛荘町宮後)には、親王が旅の途中に立ち寄り奉納されたという神社の御染筆の額と馬の鞍がつたわっている。この地に杉苗八本を植えられたので「八木神社」とよぶようになったともいう。
  建部北町・小林家では「年末の慌ただしいとき親王がお泊まりになり正月準備ができなかった。いまも門松など正月飾りをしない習わしがつづいている」という。
 池田町にはつぎのような伝説がある。「親王が愛知川を渡ろうとして難儀しておられた。これを見た池田の村人たちが親王を背負い対岸にお渡しした。そのとき、川の瀬から雁が飛び立った。これをご覧になった親王は自分を助けてくれた村人たちに『雁瀬』の姓を与えられた。」
 妹町・密谷家には、当家で親王が弁当を使われたとの伝説がある。箸を地面に突き立てられたところ、椿の木に育ったという。
 上中野町・八幡神社では、親王が植えられた松を村人が「霊松」として崇め、これが神社のおこりであるとつたえる。
 親王は、小椋谷に入る前に川のほとりに祭殿をもうけしばらくご滞留になった。歳苗神社(永源寺山上町)には、「親王の祭殿の場が神社創祀の起こり」との社伝がある。
 長寿寺(池之脇町)には、近年まで親王駒繋ぎの松があった。
 政所町は、小椋太政大臣実秀(藤原実秀)の居所であったことから「政所」と呼ばれるようになったとつたえ、同町の八幡神社には親王木像や親王塚が現存する。
 このほか、日枝神社(黄和田町)は親王によって創祀されたとし、春日神社(杠葉尾町)の社伝にも親王が参詣された旨が記されている。

■大君ヶ畑、笹路、山女原の伝説
 多賀町大君ヶ畑にも、惟喬親王隠棲の伝説がある。大君ヶ畑は、かつて「王子ヶ畑」ともいい、氏神の白山神社には親王ご自作という木地椀がつたわる。多賀町大杉には親王の馬駈馬場・的場・駒繋ぎ石などがのこり、河内の中村・藤本の両家は親王家臣の末裔であるともつたえている。
 甲賀市山内町笹路(そそろ)集落にも、惟喬親王の伝説がのこっている。年の暮れ、藤原氏の追っ手から逃がれてこられた親王を匿ったため正月準備ができず、いらい笹路では門松などの正月飾りをしないのだという。
 笹路の奥、山女原(あけんばら)集落には、筒井姓を名乗る数戸だけでお祀りをする「惟喬法親王社」がある。筒井家の先祖は惟喬親王家臣の末裔で、小椋谷から移り住み、かつては木地職を生業にしていたという。

 

大皇器祖神社(おおきみきじそじんじゃ)(東近江市君ヶ畑町)

■京都大原の惟喬親王伝説

 大原三千院(京都市左京区)にちかい小野山の麓に、惟喬親王墓と小野御霊社がひっそり佇んでいる。小野御霊社由緒や地元・大原の古文書につたわる親王伝承は、およそつぎのとおりである。
 「弟君・惟仁親王が清和天皇として即位された翌貞観元年(八五九)、親王は御年十六歳で白馬に乗り都の御殿を去り東に向かわれた。藤原(小椋)実秀・堀川中納言らがお供をし、下八木・春日神社を経て蛭谷・君ヶ畑に御所をさだめられた。小椋谷に閑居されること九年、轆轤の技術を地元の民に教えておられたが、貞観九年(八六七)に親王は鈴鹿・小椋谷から大原の地に宮居を遷された。その後、出家され素覚と称え、元慶三年(八九七)に京北・岩屋畑(現・京都市北区雲ヶ畑町)に移られた。親王はこの地でご発病、法華経をとなえつつ薨去された。ご遺言で亡骸は大原に戻り御殿裏に葬られ五輪塔が建てられた。小椋太政大臣実秀と堀川中納言の二人は、親王の二十三回忌をつとめたのち親王のご事績を守護するため小椋谷にもどった。その他の従者は苗字を久保と改め、大原で杓子や木椀をつくる業を受けついだ。」

■京北・雲ヶ畑と 大森東の伝説
 京北・雲ヶ畑集落の最奥には惟喬神社が祀られ、つぎのような親王伝説をもつ。
 「親王は乳母の招きで岩屋畑(現・雲ヶ畑町)の地に来られた。出家後は耕雲入道ととなえられ、耕雲殿をいとなまれた。それが現在の高雲寺で、親王が書写された大般若経最初の一巻がつたわっている。親王は間もなく病をえて、余命少ないと観念された。そして、『この地は内裏の上流であり墓所とするには失礼である。山向こうに移りたい』とおっしゃった。村人たちと別れを惜しみつつ、岩屋山を越え東河内(京都市北区大森東町)に向かわれた。」
 大森東町にもつぎの話がつたわっている。
 「岩屋畑から東河内(大森東町)に到着された惟喬親王は、庵室でご休息になり『ああ、安楽やな』とおっしゃった。それで、庵室は安楽寺(現存)と名付けられた。ご養生もかなわず、親王は元慶三年(八七九)二月に亡くなられた。この訃報は鈴鹿・小椋谷にも届けられ小椋実秀・堀川中納言らが涙ながらに東河内に集まった。そして、東河内で葬送の儀を執り行い、ご遺体は大原・御殿の裏山に埋葬することになった。」

■三重県と奈良県の伝説
 三重県度会郡大紀町崎には、親王をご祭神とし崎集落の小倉氏だけを氏子とする大皇(だいこう)神社がある。
 「親王は京の小野郷にいることを憚り、家臣を連れ近江・小椋谷に移られた。その後、良材をもとめ鈴鹿・治田峠を越え員弁郡を経て当地に来られた。親王は当地にて宮居を営まれていたが、病を得て京に戻られお亡くなりになった。その後、家臣の一人、小椋助之丞がこの地に移住、木地職を営むとともに親王のご分霊をお祀りした。これが大皇神社で、小椋助之丞の子孫が小倉氏を名乗った。」
 吉野の山々に囲まれた奈良県吉野郡川上村高原(たかはら)にも親王伝説がある。
 「藤原氏の追っ手を避け、親王は吉野山中の川上村高原(たかはら)まで逃れてこられた。その後、近江・小椋谷に移られ九年を過ごされたが、ふたたび高原に戻り薨去された。高原に残る木地ヶ森の地名は祖先が木地職を営んでいた名残であり、親王の使われた『御井戸』や腰を掛けられた『公方石』が現存、お墓の上に祀られたという現・氏神神社のご祭神は惟喬親王である。」

■全国版の大型情報
 轆轤(ろくろ)を使い木地物をつくる技術は弥生期に存在し、奈良時代にはすでに職業として成立していたという。また、惟喬親王の諸国行脚伝説を立証することは、不可能である。
 惟喬親王を木地師の祖とする伝説は、蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門により近世初頭に初めて語られたものらしい。しかし、悲運の皇子、親王への民衆の同情は、伝説・伝承を歴史的事実とする認識を生み信仰にまで高めた。「親王伝説」はまた、全国の木地師に誇りを与え、小椋谷を「わがふるさと」とする強力な木地師グループの絆を形成する原動力ともなった。惟喬親王伝説こそは、東近江から発信された「超大型情報」であり、「歴史的遺産」であるといっても過言ではない。

=中島 伸男=(八日市郷土文化研究会長)

http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0000355


蛭谷館(蛭谷城)  近江国(永源寺・蛭谷)

2014年05月23日 | 居館

別 称:大岩助左衛門邸

所在地:東近江市蛭谷町    (旧神崎郡永源寺町蛭谷)  map:http://yahoo.jp/GUejXd

現 状:筒井神社・帰雲庵・民家

築城期:室町期

築城者:大岩助左衛門

遺 構:説明板・石碑

目標:蛭谷バス停

区 分:居館

訪城日:2014.5.19

筒井神社(筒井八幡宮)入り口。 

お城の概要

 蛭谷には筒井公文所館、筒井八幡宮、帰雲庵があり、吉田神道家の系統。

5月5日大祭、7月惟喬親王祭。

かつては筒井千軒と言われるほど人口が多かった。

それも明治に入るとだんだん人口が減って、道も荒れて、祭りなどの行事のときに蛭谷から筒井まで行くのが大変になり。特に冬場は雪が積もりますしね。それで筒井神社は、明治時代に筒井峠近くからこの蛭谷に移しました。
 今は冬を避けて7月の海の日にお祭りをしています。大勢の人がお参りに来られます

かつて全国に散ってゆき、各地に住みついた木地師たちにとって、心のふるさとである筒井神社を訪ねることは、生涯の念願だったことだろう。各地の木地師たちは、一般の人々が講によって代表が伊勢参りをしたように、全国各地の木地師の代表が、この神社に参拝したことだろう。

そんな筒井神社の拝殿には「東京都金属加工挽物協同組合」が奉納した扁額が掲げられており、木地師だけでなく、轆轤(ろくろ)を使って金属の挽物を業とする人たちにも、信仰が受け継がれている。

  円形の台座に「親王講」の名が。

 帰雲庵 

歴 史

惟喬親王「御縁起」には、
 「天皇の位を弟宮に譲られた親王」は世の無常を儚み出家されたが、都にとどまることを憚り、大納言・藤原実秀(のち小椋実秀)や堀川中納言らわずかな供をしたがえ東路をさして出発された。

親王は琵琶湖をわたり、愛知川源流の小椋谷に安住の地を見つけ御所をもうけられた。

 惟喬親王の随臣が小椋氏であったことから、木地師の末裔たちも、「小椋姓」を名乗ることにより、自ら由緒ある随臣の末裔であるという誇りを持ち続けたらしい。

そして木地師たちは、随臣の子孫であるという誇りから、周辺の農民たちとの婚姻を結ばず、同族間での結婚が多かったという。一方、木地師の仕事は厳しく、農家から嫁いできた嫁では、とても木地師の仕事はできなかったという面もあったらしい。

 『筒井神社』の名前は、筒井峠の『筒井千軒』とかかわりがあるのですか。『千軒』とは、ずいぶん大勢の人が峠近くに住んでいたのです。

 筒井だけで千軒とはいきませんが、まあ、君ヶ畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、杭居瀬など『六ヶ畑』の小椋谷一帯に、木地師たちが大勢住んでいたということです

 蛭谷・帰雲庵の住僧や筒井神社の神主を務めていた大岩助左衛門の『大岩日記』は、

 蛭谷・君ケ畑の支配所役人が全国の木地師を訪ね歩き、金銭を徴収した記録である氏子駈帳・氏子狩帳の現存分を翻刻。さらに廻国先の現代地名を注記した。主要な木地師関係文書と「大岩助左衛門日記」・・・(33代大岩助左衛門尉重綱が、1695(元禄8)年にまとめたものである)

「明応二年十月十日、川上村にて野良畑と一義に付、今日より取合しける。左衛門尉、大岩助殿、両家大将して同四月一六日、当四ケ村の定を書留て其時に大利を得る。箕川道善も手がらして、万惣公事を免じけろ。」記されている。

  この門にも、「小椋」の表札神社の石段の下にあるベンガラの立派な屋敷には、「あそこは、元神主の屋敷でね。今は誰も住んでいません。息子が東近江市市長をまして、週にいっぺんぐらい帰ってきます。別荘みたいなもんですわ」

 

蛭谷バス停 

参考資料:現地説明板、パンフレット、ウィキペディア(Wikipedia)』:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城 1986.3) 淡海の城、神崎郡志

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戦争遺産「掩体壕・砲台跡見学会」

2014年05月20日 | 日記

出発式(ガイド嶋田氏・中島氏・世話人廣田氏) 参加者は40人余り。

  大東亜戦争終結から、来年で70年になり戦争末期の玉緒村は戦火にさらされ非常に危険な地域でした。燃し過去の記憶は風化しつゝあり今当時状況を記録し、平和への希いを語り継いでいかねばならない。

この活動を続けております「東近江戦争遺跡の会」では、布引丘陵から長谷野は、全国でも有数の戦争遺跡が残されていて、これらを先ず地元の皆様に検分して頂き、今後広く顕彰してまいりたい考えております。

                東近江戦争遺跡の会 世話人・・・山田・・・、谷・・・、廣田・・・

案内説明 郷土史家 中島 伸男氏 市教委文化財課 嶋田 直人氏

 

 主催者より、「旧陸軍八日市飛行場」が出来た経緯、布引丘陵になぜ掩体壕が存在するのかの話があました。
次に実際に測量調査された東近江市の職員さんから掩体壕の構造(土製、コンクリート製基礎、ドーム型コンクリート製)について、説明がありました。

新発見の砲台跡

今回の見学会主旨は、玉緒地区住民の皆さんにドーム型コンクリート製掩体壕だけでなく、土製やコンクリート基礎製の掩体壕が15基もあ
るのを知ってもらうことです。

 玉緒地区住民は、ドーム型コンクリート製2基だけしか存在を知らない人がほとんどでした。

 今まで誰の目にも触れることなく、掩体壕は木々に覆われ、隠れていました。今回、森林環境保全事業で、こうして新たに15基も見つかったことで、70年前の悲惨な戦争を2度と起こさないようと!
  
 3方を高さが2m程に土盛りをして戦闘機を格納し、上から木々で見えないようにカモフラージュして、敵の爆撃によって飛び散った破片などで、傷つかないようにしたと!

愛知川ダム管理道路沿いより、20m位山側に入ったコンクリート製基礎が残る掩体壕、後方は土が削っています。

新発見の砲台跡

丘陵の上に登りました。ここからは、旧八日市飛行場跡方面がよく見渡せます。参加した皆さんは、砲台跡と言うからさぞかしコンクリートで強固に造られていると思っていました。しかし、そこは2m程の穴があるだけでした。近くに住む長老が、ここに穴が掘られて回りに土嚢が積まれ、高射砲が有ったと証言されたので「砲台跡」と解りました。

砲台跡を後にし、ダム管理道路を西へ行きます。そこには、皆さんがよく目にしているドーム型コンクリート製掩体壕があります。ドームの前面上のコンクリートは崩れ落ちています。
間口が20m以上もあり、双発爆撃機が格納されていたようです。

掩体壕も崩れています(私有地)ここは、私有地であり、今にも崩れ落ちそうで危険なため、これ以上中に入ることが出来ません。

紫の桐の花

お土産に

餅ツツジの花

約2時間余り、まだ戦争遺跡がたくさん残っていることに驚いていました。

今後、これらをどのようにして後世に伝えて行くかが課題!

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お城めぐりと絵てがみ展

2014年05月20日 | 城郭・イベント情報

日本各地の城を水彩画で表現 お城めぐりと絵てがみ展

■平成26年5月20日(火) 第16888号

=村川穂澄さん 八日市図書館=

日本の各城が描かれた作品と村川穂澄さん

◇東近江
 東近江市立八日市図書館は、東近江市宮川町在住の画家村川穂澄さん(六十一歳)による「お城めぐりと絵てがみ展」を二十二日まで二階ギャラリーで開催している。
 同展では、熊本城や伏見城など日本各地の城が描かれた水彩画(十点)を中心に、雑誌などに掲載された絵手紙(十一点)が展示されている。
 本格的に絵を描きはじめて今年で十二年目になり、今回初めての展示会となる村川さんは「今まで描き留めた作品をいろんな方に披露する機会ができて嬉しい」と話した。
 実際に現地へ行き、水彩絵の具と一緒に墨で描かれた各城の作品は、筆で描くことで日本の城のレトロ感が自然に表現されており「昔ながらの素朴さがこの絵で伝われば」と村川さんは話す。
 また、桜など季節が感じられるものも城とともに描かれていて、多くの色鮮やかな作品が同展では紹介されている。
 開館時間は午前十時から午後六時まで。休館は月曜日と第四金曜日。
 問い合わせは、同図書館(0748―24―1515)まで。http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0015649

図書館入口に

  二階の展示場にコメント!

 

         

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講座「明智光秀の故地は近江か」講師:長谷川博美氏・丸山竜平氏

2014年05月18日 | 歴史講座・フォーラム

 「坂本城を考える会」主催
の「近江出身伝説考察と坂本城天守幻想」の記念講演があり、参加してきました。

毎年、「坂本城を考える会」では、坂本城や明智光秀に関する講演をされているようです。地域住民が郷土の歴史を学び、史跡を守り、後世に伝えて行
く活動をされてことに敬意を表したいと思います。

今回の講師は、中世城郭研究家 長谷川博美氏と丸山竜平氏。

長谷川氏の詳細なレジュメ

明智光秀の出生地が何処か。良質の文献が残っていないのでやはり伝説になってしまいます。 
その中で、新たに多賀町佐目が上がってきました。ここには、明智十兵衛屋敷の伝説があり、明智につながっているようです。

■日本各地の明智三秀出世伝説

・「美濃国諸旧記」巻11・・・土岐氏一族(岐阜県可児市)

・「明智軍記」に美濃国明智城とある(岐阜県恵那郡明智町)

・伝承・・・「美濃誌」に土岐四朗基頼と豪族中洞源右衛門の娘の間に光秀誕生、後可児の明智氏に養子(岐阜 県山形郡美山町)

・「明智一族宮城家相伝系図」「大日本史科第11編之1」明智光秀は1528年8月17日石津郡多羅に生、多羅は進士家居城、母は明智家当主「明智光綱」の妹・・・後、養子として明智城に入る(大垣市上石津多良)

・若狭国「若州観跡禄」「若狭守護代年数」では、若狭国遠敷郡小浜の鍛冶職人・冬広の次男。家業を嫌い近江佐々木六角に士官とある

・「校合雑記」は、丹波国桑田郡明石(京都市右京区京北)に出生、明智を名乗り丹波国守護細川家に士官・

・滋賀県犬上郡多賀町佐目「近江興地史略」「淡海温故禄」「佐々木木間攫」に伝承記録

明智光秀伝説の城「腰越の城:仮称」を探訪するに参加して

  中世の城郭を研究、ここにお城があったらしい、あってもおかしくはないと地道に研究、現地を調査。そして複数の出城の存在を発見確認されている方の現地見学会と現地講演が開催されたので出かけました。 その研究家は長谷川博美氏です。

「淡海温故録」に犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。また、佐目集落の南東端に位置する十二相神社の正面に明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)の伝承地がある。これらの伝説に関連する中世城郭と推測されるが、詳細は不明である。

腰越の城(こしごえのしろ)

所在地 : 多賀町佐目

形  式 : 山城(標高423.1m)

 

 

丸山先生もコメントで「そうであってほしいなー。」と話され、是非行ってみたい!

「坂本城天守幻想」のお話です。縄張り図から坂本城天守閣の隣に「小字城」という一回り小さくした【小天守】があったようです。

 光秀は、ここで戦の合間に湖上高く上がる月を見ながらひと時のやすらぎと、次の戦略を・・・・!

今日は、数十名の参加者が1時間半余り、講演に聞き入りました。

 

講演会終了後 

長谷川博美氏 山脇山城(現地測量図)ネット記事スクープ

山脇山城「明智陣伝承」明智光秀の巨大図面 5/11本邦初披露。畳一枚分あり。

     

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荘厳寺(しょうごんじ)城 近江国(彦根・鳥居本)

2014年05月15日 | 平山城

所在地:彦根市荘厳寺町 map:http://yahoo.jp/QvxuAE

現 状:山林

区 分:山城

築城期:南北朝期

築城者:畑氏

城 主;

遺 構:曲輪・堀切・土橋・竪堀

訪城日:2014.5.13

仮称:荘厳寺砦は詳細不明

荘厳寺集落の矢倉川沿いの山裾の貯水池の上に築かれた小規模な砦であるが、構築地が岩山で不明瞭である。

城域とされる区域は、下草も綺麗に整備されているが尾根伝い城道(登城者痕)登るが、南側は岩山を削って切岸状、犬走り・小平削地が2カ所。主郭となる平削地の上には櫓台の微高方形地、西側は箱状の空堀と土橋。北側は竪堀・・・非常に不明瞭な砦だ。

城域に内で2本の熊の爪跡を発見、注意(熊鈴を大きく鳴らしながら退散した)

歴 史

荘厳寺城主として「大洞弁財天古城主名札」畑 四朗左衛門の名の見られ、 隣村の生寺城主を「近江の国コマザラエ」には、畑 城左エ門としているが、同一人物と考えられる。

            

 城域に内で2本の熊の爪跡                              荘厳寺集落から遠望

立花運送=看板ない)から遠望 矢倉川の橋横に駐車

南に・・・・丸山砦(遠望)・・・・・北側(矢倉川の橋から)

 西・・・鳥居本公園から遠望

参考資料:「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 、「大洞弁財天古城主名札」、「ふるさと鳥居本」

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


在士館 近江国(甲良)

2014年05月15日 | 居館

所在地:犬上軍甲良町在士

別 名:在士村屋敷

初城主:藤堂氏

区 分:居館

訪城日:2014.5.9

公園内に展示されている残念石

 公園内に展示されている残念石大坂城築城時の残念石

ノミの跡が

藤紋入り石燈籠

 在士館は藤堂高虎の出生の地とされ、現在では “高虎公園” として整備されている。
 在士館跡は全くの平地で、周囲は田んぼ、また東隣にはスーパーが建ち、遺構らしきものは残されていない。

 公園内には藤堂高虎の銅像や、大阪城築城の際に使われなかった藤堂家刻印入りの残念石などが展示されている。

歴 史

***「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

――――「江州佐々木南北諸氏帳」に

 在士住 佐々木旗頭 藤氏    藤堂豊後守 とあり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

在士館は別名を在士村屋敷といい、藤堂家の祖先の館であるとされる。

佐々木旗頭藤氏 藤堂豊後守(大洞弁天当国古城主名札)

 藤堂高虎は父・虎高に従い、若くして浅井氏に仕えたが、浅井家滅亡後は秀吉の弟・秀長に仕えた。
 秀長が死んだ後、関ヶ原の戦いでは家康に従軍し、軍功を認められ今治20万石の城主となった。
 外様ながらも幕閣に加わり、後に伊勢津城4万石から伊賀上野城32万石の大大名となった。

在士八幡神社の藤堂家ゆかりの藤

神社門も藤

 

藤堂高虎が出生したとされる在士館がある。

藤堂虎高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 
藤堂虎高(高虎の父)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正13年(1516年)
死没 慶長4年10月18日(1599年12月5日)
改名 源助(幼名)→虎高
別名 白雲斎(号)
主君 武田信虎→京極高吉→浅井亮政→
久政→長政
氏族 三井家→藤堂氏
父母 父:三井乗綱、養父:藤堂忠高
正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘
娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎
娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、
高清、正高、娘(藤堂高経室)

藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。

生涯

 近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。

若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。

婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男高則は早くに戦没したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲び白雲斎と号した。慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去。享年84。

参考資料:『日本城郭大系』、「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 、大洞弁天当国古城主名札、淡海の城、『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 

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百々屋敷 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 館跡

名神高速をくぐる「彦根25」のトンネルから登ると間違えることはない。


途中に「百々某」の骨塔が建っている。 

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:百々氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:竹林(筍林)

訪城日2014.5.13

百々家代々の骨塔、他墓碑2基あり

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

 南北に曲輪を連ね、北の曲輪には土橋や削平された郭跡が4段は完全である。正面には、当然のことであるが佐和山を望む。

歴 史

~~~島記録(浅井氏の被管の今井氏の被管島氏の家記、戦国期の秀安が筆録)~~~

百々館(彦根市小野) 沢山籠城付あけのく事 「百々屋敷にハ丹羽五郎左衛門尉」…云々

この百々屋敷の詰め城が丸山砦!


 

---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山(物生山)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
  ------------------------------------

 信長公記に百々屋敷とされているのは、丸山城より1kmほど北の鳥居本町本町にあったとされる。

信長公記にも「百々屋敷」と出てくる百々(どど)氏のものであろう。ここが百々屋敷かは定かでないが、この池は天然ではなく、南側は土塁で取り囲まれていて堀跡のようにも見える。とにかく骨塔付近から東背後の百々山(丸山砦)へ向かって登城路ある。

 小野町の大人たちは、名神東側の山々には人喰い蛇が出るから、決して行ってはならないと子供たちに言い聞かせていたようである。特にこの沼池あたりは危険であり、推測するに、もしかすると過去に命を落とした人がいたのかも知れない。

主郭の上には、土塁で止められた池(堀:横堀)が!

名神高速の「彦根25」のトンネルの西の空き地に駐車(私有地)

参考資料:島記録、信長公記、滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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茂賀山(もがやま)城(茂賀山砦) 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 

お城のデータ

所在地:彦根市賀田山町茂賀

築城期:鎌倉期

築城者:小林氏

現 状: 山林+工場

区 分:砦

遺 構:土塁・敷石

城 主:小林氏

目 標:亀山小学校の裏山

訪城日:2014.5.13

お城の歴史

小林氏代々の居城で姉川合戦では朝倉側の武将として、小林佐馬頭家正の名がみえ、その孫小林新太郎政祐は関ヶ原合戦で島津軍を誘導した(日本城郭体系)

そんな伝説を残す小林氏と茂賀山城は、戦国時代になると京極氏・浅井氏の臣下となりました。姉川の戦いでは小林宗正が藤堂高虎と共に織田信長の本陣まで迫る勇猛振りを発揮し信長に賞賛されたのです。しかし宗正は討死しました。
やがて浅井氏が滅びると姉川での勇猛ぶりから宗正の息子・正国と正敏が信長の側近として召し抱えられます。でも二人とも本能寺の変で信長と運命を共にしたのです。 
秀吉の時代になると茂賀山城主は正国の子・正祐が勤めました。
関ヶ原の戦いでは西軍に属して岐阜城を守りますが、岐阜城が落ちると茂賀山まで帰城します。
その途中で関ヶ原の戦いに敗れて落ち延びる島津義弘一行と出会い高宮までの道案内をして義弘から感状を受けているんですよ。 

この後、小林氏は彦根藩に城を追われ南川瀬村で庄屋として江戸時代を過ごし、茂賀山城は不思議な伝説と共に歴史の闇に消えてしまったのです。 
現在、茂賀山には歴山碑が残されています(写真)。

平安時代末期、平家繁栄に陰りが見え始めると各地の源氏が平家追討を旗印に京の都を目指しました。この騒乱で都に一番乗りしたのは木曽を本拠地としている木曽義仲だったのです。義仲は同じ源氏の源義経に都を追われ討死しますが、義仲最後の直前まで彼に従っていたのは愛妾・巴御前でした。
そんな巴御前が産んだ義仲の子・三郎義秀が当時の豪族だった和田義盛の庇護を受けて安房国小林郷に屋敷を持った事から小林氏を称したのです。
しかし、和田合戦で和田氏が敗れると小林三郎義秀は近江国甲賀に逃れこの地で隠れ住むようになったのです。
南北朝時代になると小林宗政が近江を本拠地としていた佐々木道誉に従って活躍し茂賀山付近六ヶ村の地頭となり城を築きます。 
そんな茂賀山城は不思議な伝説が残っている事で知られています。 

金のニワトリの由来が記された茂賀山の歴山碑

現 状

 彦根市の荒神山とJRの線路との間に亀山小学校があります。そのすぐ裏に、亀山(茂賀山(もがやま))や金鶏山など、いくつもの名前を持った小さな山があります。
 そのなかの一つ、金鶏山からもわかるように、民話『金のニワトリ』の伝説が残っており、その由来がふもとにある歴山碑に記されています。
 昔はもっと大きく、亀を想像させる山でしたが、造成工事などで削り取られ、今は小さくなってしまいました。山の上には遊具のある「ジャングルランド」があり、小学校の子どもたちの遊びや学習の場になっています

  

西山麓に光雲寺

南からの遠景

参考資料:『日本城郭大系』、「旧愛知・犬上郡の城」(『滋賀県中世城郭分布調査』5 

本日も訪問、ありがとうございました。


小野城 近江国(彦根)

2014年05月13日 | 平山城

小野こまち会館

小野の集落に入って行く。集落に入ると「小野こまち会館」があり、右手に「安立寺」がある。
道路わきには地蔵堂とお手洗いが目に付き、道路わきの流れいた。

 

 歴 史

小野こまち会館の南の道を東に抜け、名神高速「彦根20」のトンネルを抜けると小野城が残る

~~~「佐々木南北所氏帳」~~~

小野城

佐々木随兵千田源氏嫡流大和守頼信是流他 小野大善。同 草野大善~~の名が残る。

 

【城郭の概要】

所在地:彦根市小野町

築 城:

初城主:小野氏

区 分:居館

遺 構 :横堀・曲輪・土塁・堀・

現 状:森林

訪城日2014.5.13

丸山砦(城)

丸山砦(遠望)

丸山砦登り口

丸山砦(遠望)

 

小野小町塚概要: 伝承によると、小野小町の父親とされる小野美実(好実)が都から出羽へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かった為、養女として迎えたと伝えられています。この養女が出羽の国で成長し小野小町となったとされ、その後、小町が病気で薬師如来から授かった霊薬の製法を伝えたのが、同町の旧家池上家だったそうです。池上家では江戸時代初期まで小町から伝授された霊薬(赤玉の丸薬)を「小町丸」として販売していたそうです。当地には15世紀後半に小町地蔵が建立され小町塚として信仰されてきました。

小野町の説明では、(鎌倉時代、弘安二年(1279)に歌人阿仏尼が、京都から鎌倉に向う途中、小野宿に宿泊したと「十六夜日記」にある。
中世、小野の地は、東山道の駅家として機能していました。また、藤原定家の「明月記」などに記される庄園「小野庄」は、
当地域が想定されている。地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生と伝承が残っている。
『出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない女児に出会った。
美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。』
――中略――
小町塚には、『小町地蔵』として親しまれてきた石仏(十五世紀後半の造仏)がある。
自然石を利用して、阿弥陀如来坐像が浮彫りにされている。正面だけでなく、両側面にも彫りこまれており、類例がなく貴重なものである。)(小野町)とある。

小野小町といえば有名な歌人で、百人一首にも選ばれている歌がある。

・ 花のいろは 移りにけりな いたずらに
        わが身世にふる ながめせし間に
である。

この歌がなければ、小野小町なんて知らなかったに違いない。(花の色は移りにけりな)とは、桜の花は満開になったがという意味だと教わって、花の色といえば日本では(桜)であると、はじめて知ったので記憶に残っている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、佐々木南北所氏帳

 

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菖蒲嶽城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 平山城

中山道の摺峠針の東、中山町への分岐点付近から山中に入り、尾根筋を北へ登ると約20分ほどで尾根が分岐するピークに着く。

菖蒲岳城は2つの城域で構成されており、このピークから東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。

赤・・・登城ルート!「登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない」。緑・・・下山ルート(時刻も17:00、疲れたので南北城の間の林道を旧中山道~登城口~車へ)

 菖蒲岳城は中山道が番場から摺峠針へ抜ける街道沿いにあり、眼下に街道を押さえる標高260m~290mの山上に築かれている。

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/2Ehqjf

築城者:今井定清(尺夜叉)=六角方

築城期:天文13年(1544)か

初城主:今井定清

区 分:山城

遺 構:土塁、堀切、土橋、堅堀

訪城日:2014.5.10

お城の概要

南城http://yahoo.jp/c4-wTK

 南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。

北城:http://yahoo.jp/w3yFOv

お城の概要

北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。

 菖蒲岳城から北方には太尾山城、地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。


 

お城の歴史

天文13年(1544)に今井定清、六角方ろして築城『島記録』

 菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。

-------------- 以下、嶋記録(天文13年(1544)6月27日)
今井本領案堵望之事
 去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや

--------------ココマデ
 上記嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応したものとして注目される。


 また、同じく嶋記録に以下の記述がある。
-------------- 以下、嶋記録
箕浦帰参之事
覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也

--------------ココマデ
 天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していたことを嶋記録は伝えている。

「近江国坂田郡飯村嶋記録」には、「須田めし取之事」の記述に「浅妻よりすり針山さして打越、菖蒲か嶽今井が取出へ案内を申せけり」とか、「箕浦帰参之事」の覚えに「吉田安芸守スリハリ菖蒲か嶽ニ居住ト申候也」ともある。

南城の三角点

北城へ(大きく下って・大きく登るが登城が多いか探訪道(城道)はっきり迷うことはない)

北城へ

三角点主郭に東側へⅤに縦堀が

土塁に囲まれた郭土塁

北の出丸かhttp://yahoo.jp/_JD2wS

東側に奇岩が

・・・・北の郭したの忍!

林道を古中山道へ:http://yahoo.jp/NzBAwL

 滋賀県中世城郭分布調査によると、「中仙道沿いに小さな祠堂があり、そこには山腹から樋で清水が引かれ、この清水の流れ出ている山の頂上に砦跡がある…」と記載があったため、

中仙道古道の祠堂

駐車可スペース5台登城口

中山集落の墓地したにも駐車可3台

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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物生(むし)山城 近江国(彦根)

2014年05月11日 | 戦国山城

 織田信長の佐和山城攻め時の陣城

 お城のデータ

所在地:彦根市宮田町物生山 

現在の状態 :山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・土橋

区 分::山城(砦) 192m

築城期:室町期 浅井氏 改築:戦国期 織田氏

築城者:室町期)浅井氏、戦国期)織田の臣 市橋氏改築

城 主:(戦国期)市橋九郎右衛門

戦  い:元亀元年(1570)  〇織田信長軍 VS  ✖浅井長政

訪城日;2014.5.9

お城の概要

物生山城は、佐和山山塊の北端部に位置し、彦根市宮田町物生山の西背後の山上に築かれている。

頂部に主郭を置き、南東、西、北の三方に伸びる尾根筋に各々数段の郭を配した縄張りとなっている。
主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」=物生山城。

 

 歴  史

ここに城跡があるとの記録は見当たらず、詳細は不明であるが、

信長公記に

元亀元年(1570)姉川合戦で織田信長に敗れた浅井長政方が小谷城と佐和山城に分かれ籠城した際、信長は小谷城に対し秀吉を配し、佐和山城に対しては、鹿垣を結ばせ、東の百々屋敷(丸山城=丹羽砦)に丹羽五郎左衛門、北の山(物生山砦)に市橋九郎右衛門、南の山(里根山砦)に水野下野、西彦根山(=金亀山か(尾末山)砦に河尻与兵衛を布陣させ、四方より取り詰めさせたとの記録が残る。

信長の佐和山包囲網である。

 信長公記に記された佐和山城の付城である「北の山」が、この物生山城ではなかったかと考えられている。
しかし、建久年間(1190~99)の佐保時綱以来の長い佐和山城の歴史から、佐和山の守備の一点と考える必要も指摘されている。

 物生山城の伝承や記録は無いが、その存在については、
(1)地元領主が築城 (2)佐和山城の出城として築城 (3)織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元庚午)
「木下籐吉郎定番として横山に入置かれ、夫より佐和山の城、磯野丹波守楯籠り相□候キ、直に信長公。七月□日、佐和山へ御馬を寄せられ、取詰め、鹿垣結はされ、東百々屋敷御取出仰付けられ、丹波五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取詰めさせ、諸口の通路をとめ。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 上記、記述の「北の山」が、この物生山

登城口は山の東麓、宮田町物生山の村落のちょうど真ん中あたりの、墓地群に向かう道を途中で左に迂回したところにある。山道は鉄塔メンテナンス用なのか、比較的整備されていて迷う事はない。麓から山を見上げたら、山頂らしき部分は佐和山主曲輪到達までに合計8ヶ所程度あるが、物生山城域と見られる部分は登り始めた一番最初の高点で、主曲輪部分には現在TVアンテナが建っている。

   全体の形状はT字型をしていて、東西のほぼ直線の中心に主曲輪があり、そこから北に下るように5段に削平されている。遺構の中で一番の見所は、主曲輪から西に向かった所にある3つの堀切でそれぞれに明確な土橋をもつ。

 物生山城から佐和山城にかけては尾根づたいにハイキングコースとなっていて、どこまでが佐和山城域なのか定かではなく、冒険好きなお城ファンにとっては探索しがいのある山々であるが、コースから外れず進むだけでも制覇するには相当な時間を要する。 

物生山城・・・遠望

路上駐車可(位置)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)

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藤堂高虎・父「虎高」の居館 近江国(甲良)

2014年05月11日 | 居館

 下之郷には「殿城」という字名が残っている。

所在地:犬上郡甲良町下之郷 map:http://yahoo.jp/dfSUKN

目 標:下ノ郷農業集会所

区 分:居館

現 状:宅地・空地・畑

遺 構:石材

築城期:戦国期 

築城者:藤堂氏

城 主:藤堂氏

訪城日:2014.5.9

 

下之郷農事集会所の前の空地は、藤堂高虎の父・虎高が居住していたという。

近くには、藤堂高虎が出生したとされる在士館がある。

藤堂虎高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 
藤堂虎高(高虎の父)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正13年(1516年)
死没 慶長4年10月18日(1599年12月5日)
改名 源助(幼名)→虎高
別名 白雲斎(号)
主君 武田信虎→京極高吉→浅井亮政→
久政→長政
氏族 三井家→藤堂氏
父母 父:三井乗綱、養父:藤堂忠高
正室:藤堂忠高の娘
側室:宮崎一郎左衛門の娘
娘(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎
娘(山岡直則室、後に渡辺守室)、
高清、正高、娘(藤堂高経室)

藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。

生涯

 近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。

若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。

婿養子先の藤堂家は在地の有力土豪といえども、虎高の代には犬上郡数村を支配する程度に没落していた。はじめ京極氏、後に浅井氏に仕えた。長男高則は早くに戦没したが、次男の高虎が出世していく過程で、自然とその家中に編入された。家督を高虎に譲った後、故郷の白雲山を偲び白雲斎と号した。慶長4年(1599年)、高虎の領地である伊予宇和島城で死去。享年84。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

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安孫子北城 近江国(愛知群)

2014年05月10日 | 館跡

 

所在地:愛知郡愛荘町安孫子 西出  map:http://yahoo.jp/j3LAG6                                                                                   (旧愛知郡秦荘町)

遺 構:石碑、土塁

区 分:平城

築城者:安孫子氏

築城期:平安期

訪城日;2014.5.9

安孫子城は、滋賀県中世城郭分布調査では南北2城あったとされ、南北城ともに約100m四方の単郭であった。往時の岩倉川は北城の150m北側から西側に直角に屈曲して流れていたとされる。

 これは湖東地方の国人領主によく見られる手法で、比較的大きな河川を外堀として改良したものと見られる。河川を外堀とし南北城を持っているのは、近くの島川城と性質が類似している。

 北城は「西出の大門」
 

歴 史

安孫子城は、平安末期に開発領主として土着した安孫子氏が領主制を展開し築城したとされる。安孫子氏は『今昔物語集』で著名な矢取地蔵の門前を守護していた。

西出集落に残された土塁の名残り

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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