城郭探訪

yamaziro

下ノ郷城 近江国(甲良)

2014年05月10日 | 平城

神社裏の土塁・堀(水路)

  土塁が残る竹藪

お城のデータ

所在地:犬上郡甲良町下之郷 
目 標:桂城神社

区 分:平城  
現 状:神社・宅地・田畑

遺 構:土塁、類似碑 
築城期:平安期

築城者:坂田河内守康高 

城 主:坂田氏・多賀氏
訪城日:2014.5.9

お城の概要

桂城(カツラギ)神社

御祭神少彦名命
〔配祀神〕国常立命 仁徳天皇 宇多天皇 敦實親王 左大辨成公

御神紋 隅立て四ツ目

御由緒
  社伝によると後冷泉院治暦三年、佐々木兵部大輔義経之臣犬上大和之介政誠が建立し土産神として祀ったのがはじまりで、甲良三郷の総社として崇敬が篤い。明治9年には村社に列し、更に同14年に郷社に加列した。
 ※佐々木 義経(ささき のりつね、長保2年(1000) - 天喜6年(1058))は、平安時代後期の武将。宇多源氏の一族。前名は章経(あきつね)。源成頼の長男。子に経方。左馬頭、蔵人頭。

 本殿・境内建物

 〔本殿〕三間社流造 間口二間三尺 奥行二間 〔拝殿〕入母屋造 間口三間三尺 奥行三間

境内社(摂社・末社)  火鎮神社 五十告神社

四つ目結いの紋 

桂城神社には四つ目結いの紋があり、この辺りは六角氏と京極氏との国境になった地域だけに、いろんな曰く因縁が。

 集落各所に石碑があり、堀跡などを表記しています。集落中心部に土塁の痕跡がありますが、土塁は殆ど消滅し、堀は(埋められ集落路)の名残りの用水路として現役です。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸氏帳』・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

『江州佐々木南北諸氏帳』には、 「下ノ郷城主 千方全十六応神王子 源氏佐々木末筆 坂田河内守康高

                 同      後方佐々木継其比上坂下坂今ノ上坂ト云 坂田兵部少輔

                 同                        坂田佐渡守

                 同                        多賀豊後守 」とあり

 多賀豊後守の居城とされます。中原氏が近江国愛知郡移り、多賀神社の神官を務めて多賀氏を称しました。

鎌倉幕府の御家人で京極佐々木氏に従い、室町中期には犬上郡を本拠とする多賀氏と坂田郡を本拠とする多賀氏とがあり、前者は豊後守を称し、後者は出雲守を称しました。若宮氏と並んで京極氏屈指の有力被官でありました。応仁の乱では、守護京極持清は東軍に、守護代の多賀高忠とともに奮戦しました。

 しかし、近江では西軍六角氏が優勢で、多賀昌宗は六角氏に付きました。高忠・昌宗の両多賀氏は争いましたが、文明十三年(1481年)に、幕府の仲介で両者は和睦します。しかしながら、京極高清と多賀昌宗が実権を握り、高忠は近江に戻れなくなってしまいました。高忠の曽孫貞澄の子の貞能のときに明智氏・豊臣氏と従いましたが、貞能の養子の秀種は関ヶ原で西軍に与し改易されました。

 

四つ目結いの紋

   

  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、江州佐々木南北諸氏帳

本日も訪問、ありがとうございました。感謝


キドラ谷砦 近江国(彦根)

2014年05月10日 | 

廃棄場の受付で訪問記録を記帳の上、駐車をお願いする。無名の砦跡で情報入手は無理。 

お城のデータ

所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/LHuz-r

区 分:山城

遺 構:堀切、土橋、竪堀、土塁

築城期:

築城者:

城 主:

城 域:150m×100m

廃 城:兵糧攻めに合い戦国時代に打ち滅ぼされて、城主初め討死した。

標高:340m  比高差200m

目 標:中山廃棄場

訪城日:2014.5.9

受付のすぐ北手に職員が作ったという山へ向かう階段が設けられていて、そこから登城するが、これは中途半端にすぐ途絶え、関西電力の鉄塔のためであろうわずかなけもの道を登る。道は最初は南から向かっていたが、そのうち西側へ迂回しだし、特に鉄塔付近はあまりの急勾配で何度もすべり落ちそうになる。そしてようやく現れたのは北側の大堀切から伸びる竪堀だった。

関電鉄塔管理用階段があった! 

ヤナガ谷砦(遠景)にも、関電鉄塔管理用階段があった!

東側は自然の谷西側は大堀切を見ながら旧坂を尾根へ

尾根に至る

尾根道を南西へ出丸の様である

北の主郭へ

鉄塔手前を東へ直登した(道なし、危険)

キドラ谷砦とヤナガ谷砦の位置関係

キドラ谷砦:::滋賀県中世城郭分布調査より)

 お城の概要

 キドラ谷砦は中山道の番場宿から鳥居本へ抜ける間道を眼下に押さえる通称 城山(標高340m)の山頂付近に築かれている。

 キドラ谷に建てられた中山投棄所の北側、関西電力の高圧線鉄塔の保全用につくられた道から山中に入る。尾根に出ると尾根道がある。この尾根道を20分ほど登るとキドラ谷砦の直下に至る。

 山頂の主曲輪を中心に南北に曲輪を連ね、西側のキドラ谷側には犬走りとともに階段状に6~7段の曲輪を配している。東側斜面は急斜面のためか曲輪がない。

 山形、および曲輪配置から、大手は南側若しくは西側(キドラ谷側)と考えられる。搦手の北側は規模の大きな堀切を入れて、尾根を断ち切り土橋を入れている。

 キドラ砦の北方には菖蒲嶽砦、地頭山城、および太尾山城などが位置するが、見通すことはできない。一方、南側には佐和山が真正面に見える。

 キドラ谷砦周辺には、菖蒲嶽砦、地頭山城、太尾山城などの山城が点在するがキドラ谷砦の遺構は、それら山城とは一線を画する規模と普請がなされている。
 このキドラ谷砦の位置づけを考えるに、番場~鳥居本間の間道を押さえるだけであれば、比高200mを越える高所に城砦を築く必要はなく、高所に築かれているがゆえに南方約2kmの佐和山城との関係を強く意識させる。

 佐和山との間には摺峠針からの山並みが続いており、キドラ谷砦は佐和山城を攻めるためではなく、佐和山城の支城として築かれた可能性が高い。
 また、キドラ谷を挟んで対峙するような位置に築かれているヤナガ谷砦との関連も考えられる。

歴  史

 地元自治連合会発刊の「ふるさと鳥居本」には、「キドラ谷に城があり、難攻不落の名城であったが、兵糧攻めに合い戦国時代に打ち滅ぼされて、城主初め討死した」と伝えられており、そのためか8月16日に山の頂上に上るとお姫様が現れる…という言い伝えがある。

これは、谷を挟んで南側のヤナガ谷砦との間に、戦いがあったと考えられるが、ヤナガ谷の城主「草山内膳」の名が伝わるのに対して、キドラ谷の城主の名は不明である。

 その戦いでキドラ谷砦側は、東西に長い単調な縄張のヤナガ谷砦側に敗れてしまったのだが、キドラ谷砦は要害すぎず逃げ道まで奪われたのでは。

荒神山城・佐和山城・彦根城の一望菖蒲嶽城も一望

大堀切

キドラ遺跡・・・・廃棄場は平成8年に施工されたまだ新しいもので、もともとこの土地がキドラ谷と呼ばれる田園であったようである。施工時の発掘調査で、谷からは奈良時代の遺跡が発掘され、場内にもその案内板が建っているが、砦跡とは関わりがない。

キドラ谷砦(遠景・・・最高部)駐車場完備

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!! 


吉田城 近江国(豊郷)

2014年05月10日 | 

愛知神社の南側の通りを東へ向かった所に高い煙突が建つ酒蔵があり、そこの駐車場に吉田城址の石碑が建っている。

所在地:滋賀県犬上郡豊郷町吉田

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:吉田氏(佐々木秀義の六男厳秀)

城 主:京極在宗、辻与兵衛

遺 構:なし

訪城日2014.5.9

吉田城は岩倉川と宇曽川の合流地点に築城され、2本の川を堀と見立てた地形である。 岡村酒造の駐車場の片隅に吉田城の碑が建てられている。岡村酒造の西側は「堀端」と呼ばれ、以前は幅3~4mほどの堀と土塁があったというが、今では消失している。

現地説明碑

佐々木源氏の一流、佐々木秀義の六男巖秀(いわひで)はこの地封邑を得て吉田氏を称した。

兄、四朗高綱は、寿永三年(1184年)かの宇治川の合戦せ名馬 生呟「いけつき」を駆って先陣を争った武将である。

吉田城は岩倉川と子増川を自然の外濠として、その水を引いて内濠をめぐらして築城されたようである。

現在はその内濠の大半埋められて僅かしか残されていないうえ、城は元亀二年(1571)の宇曽川の戦いで織田信長の馬蹄に踏みにじられ焼き討ちにあって、あとかたもなく焼きつくされてしまった。築城時の史記はおろか、落城の伝承は何一つ残されていない。

吉田氏は、子々孫々この地に地頭(ぢとう)として生きのびたが巖秀の九世孫の徳春(とくはる)の代に京都嵯峨へ退陰して角倉(すみくら)の始祖となる。

江戸時代の豪商角倉了以(りょうい)は、その子孫である。

歴 史

岡村酒造の酒蔵が並ぶ一角「城屋敷」吉田は鎌倉時代より佐々木秀義の子の吉田巌秀が地頭となって、村名が生まれたと伝えられます。また室町中期の足利時代、吉田は朝廷と関係のあった、吉田弾正という人が居城していたといわれ、そのためか吉田は朝廷の米の預かり所になっていたと伝わります。

吉田城城跡碑約500年前、時の将軍足利義尚が近江国守護佐々木六角と戦ったとき、吉田城主の源四郎は、足利に味方して一番勇ましく戦った愛知武士でした。江戸の井伊藩時代にはいると、井伊家臣の辻与兵衛になり、辻家の先祖は吉田氏と思われます。今の岡村酒造の酒蔵が並ぶ一角が「城屋敷」といわれ、城跡碑が建てられています。

吉田氏によって築かれたと云われる。 吉田氏は佐々木秀義の六男厳秀が吉田氏を名乗った事に始まるという。

現在の岡村酒蔵付近を中心に約120m四方の 規模であったとされる。

滋賀県中世城郭分布調査より

 

**「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

――――「江州佐々木南北諸氏帳」に

 吉田住 佐々木与力   辻 与兵衛・清水光野 とあり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

城主は京極在宗、辻与兵衛の名があげられているが、詳細は不明。

近江の佐々木家は

 宇多天皇を祖とする源氏の一族で、「宇多源氏」とも「近江源氏」とも呼ばれています。宇多天皇の皇子敦実親王の子「雅信」が936年に臣籍降下して源の姓を賜り、雅信の子「扶義」が近江守となって現地へ赴任することになります。扶義は近江国に一定の権威を持つようになり、扶義の子「成頼」はその権威を利用して佐々木荘に土着します。成頼→義経→経方に至って武士となり、「佐々木」を名乗ったと言われています。また、経方→季定→秀義に至り、秀義の6男「巌秀」が近江吉田の地頭職となり、吉田城に居住します。この系初代巌秀の子孫は代々「吉田」を名乗り、室町時代末には吉田出雲守重賢が登場します。従って、主家である佐々木家と吉田家は遠縁でありますが、宇田源氏の流れをくむ同族であったわけです。吉田家は佐々木家の中でも有力な武将であり、旗頭を務めています。

Image「愛知(えち)神社」    滋賀県犬上郡豊郷町吉田1177

  開化天皇の子孫、恵知王によって創建された神社です。

平安時代の初め惟喬親王が難を逃れて近江に来られた時、ここで病気になりました

  ここで病気が快復するために神社に御染筆の祈願札と刀剣一口を献上したと伝わります。また、鎌倉時代になると近江守護の佐々木秀義の六男吉田巌秀が吉田城主となりました。その時、神のおつげで弓術の奥義を授かり、佐々木氏も武神として敬いました。その後、室町時代にはいると戦乱のため焼失しましたが、近くの正覚寺の復興と同時に再建されました。明治以前は春日神社と呼ばれていましたが後、愛知神社に改められました。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、豊郷町HP、江州佐々木南北諸氏帳

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿) 近江国(彦根)

2014年05月09日 | 居館
滋賀県 彦根市松原町
 
史跡名勝天然記念物
 
別  名:お浜御殿
所在地:滋賀県彦根市松原町515  map:http://yahoo.jp/W5a65i
築城期;文化7年(1810)
築城者:彦根藩11代当主井伊直中
訪城日:2014.5.6

井伊家の「市長 井伊直愛」氏も居住され、現在は彦根市が管理している。

彦根藩11代藩主井伊直中が、城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。周囲を巡る堀は彦根城・琵琶湖と繋がって、さらに庭園の池とも繋がって、いわゆる汐入の形式となってた。

庭園は主屋の前面に展開し、広々とした前庭部の先に池が南北に展開するように横たわり、橋が架けられていた(現状は橋はない)。橋を渡った東側は緩やかな起伏をなし,北に高く南に低い造成がなされ、松原越しに西方琵琶湖を望む展開となっていた。石組はほとんど施されず、汀は州浜や芝付で伸びやかな景を呈している。植栽はほとんどが後世のものであるが、昭和の終わり頃までは橋の北側に蘇鉄の植栽があって江戸期からの庭園植栽であったと想定されるがこれも今はなくなっている。
 本庭園は上記のように江戸期を代表する大名庭園として、また汐入形式の庭園として貴重であり、名勝に指定して保護され、春と秋に無料公開される。

本庭園は,彦根藩11代藩主井伊直中が、城下松原村に文化年間(1810年頃)に造営した下屋敷の庭園である。

  彦根城の北方、別名「お浜御殿」と呼ばれる「旧彦根藩松原下屋敷」は、彦根藩11代当主井伊直中[なおなか]によって文化7年(1810)頃に琵琶湖畔に造営された下屋敷。井伊家が内々で使用していた屋敷で、明治初期の廃藩置県後は、彦根の井伊家の居宅となっていた。

 総敷地面積約2万1000平方m。現在は国の名勝に指定され、奥座敷棟、台所棟などが残る。敷地の半分を占める庭園は、優れた造園技術を駆使した江戸時代を代表する大名庭園で、琵琶湖の水位の変化に応じて水が満ち引きする汐入[しおいり]形式の池は、淡水を利用した汐入形式の池としては日本唯一。

 西側は洲浜[すはま]が穏やかに広がり、東側には築山に石燈籠や石組が配され趣がある。新緑の春と紅葉の秋に特別公開され、イチョウやモミジが色付く秋の庭園の散策は特におすすめだ。

井伊氏の起源

   井伊氏は、藤原北家の流れをくむとも、継体天皇の子三国氏を祖とするともされる共資が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子共保が遠江国引佐郡井伊谷に土着し井伊氏を称したのが始まりだという。井伊の姓はこの本貫地井伊谷の地名に由来している。
井伊氏は以後約500年にも及び井伊谷を本拠とする国人領主であった。

戦国期の井伊氏は駿河・遠江・三河にかけて勢力を誇っていた今川氏に仕えた。初代共保から数えて23代直親は、今川氏直から謀反の嫌疑をかけられたため、殺され領地を没収された。その子直政はかろうじて難を逃れ密かに育てられた。
天正3年(1575)15歳になった直政は、徳川家康に謁見し気に入られ、以後家康の近習として仕えた。
元服後の直政は幾多の合戦に戦功を挙げて、しだいに徳川家臣団の中で重きを置かれるようになり、後世徳川四天王の一人として称えられるまでになった。家康の関東入封に際しては、上野国箕輪に12万石を与えられ、のち新たに高崎城を築城し移った。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦功により、近江佐和山城18万石で移封した。ここに直政は彦根藩初代として、彦根藩の礎が築かれた。

歴代彦根藩主家井伊家 (掃部頭家)

  初代直政は彦根移封後間もなく関ヶ原合戦の傷がもとで佐和山城内で亡くなり、彦根山の新城を見ることはなかった。
また彦根城の築城を開始した直政の嫡子直継は、病弱であったなどの理由で将軍家康の進言により、異母弟直孝にその座を譲ることとなった。直継は分地された上野国安中藩の初代城主の肩書きとなり、歴代彦根藩主には数えられない。
2代直孝は、大坂の陣の戦功や秀忠・家光・家綱の3代にわたり将軍を補佐し、3度の加増を得て、都合35万石という徳川譜代の大名としては最高の地位を得るに至った。
彦根藩は譜代大名の中でも別格とされ、徳川御三家や親藩同様に転封や移封がなく、常に溜間詰として将軍に近侍することを命じられた。以後、幕末までに14人の藩主を数えたが、5人が6回の大老職に任ぜられるなど長く譜代大名筆頭の格式を堅持した。

また直興・直定は退いたのち再度藩主に返り咲いたため、廃藩置県まで16代数えられる藩主は都合14人である。そのため例えば最も著名な直弼は15代藩主でありながら、13人目の藩主なので井伊家13代と記載されたりする。

    生没 系統  
    (藩主在任期間)    
初代 直政 1561-1602 直親長男 徳川四天王
    (1600-1602)   関ヶ原以前は上野国箕輪・高崎12万石
        佐和山城18万石で入封
        関ヶ原合戦戦後処理
        毛利輝元との講和
        島津氏との和平仲介
        山内一豊の土佐入国援助
  (直継) 1590-1662 直政長男 彦根城築城開始
    (1602-1615)   病弱という理由で支藩に移封
        分流上野国安中城初代藩主
        病弱といいながら直孝より長寿
2代 直孝 1590-1659 直政次男 彦根藩主以前は上野国白井藩1万石
    (1615-1659)   大坂夏の陣で一番の活躍
        家光の後見人・幕府初の大老職
        彦根藩石高を35万石まで押し上げる
3代 直澄 1625-1676 直孝5男 幕府大老職
    (1659-1676)   江戸切腹騒動鎮静化
        浄瑠璃坂の仇討の裁定
        青岸寺の再興・多景島に直孝供養等
        直興に配慮し正室を娶らず
4代 直興 1656-1717 直縄長男 槻御殿(玄宮楽々園)建設
    (1676-1701)   松原港・長曽根港を改築
        家中法度・侍中由緒書編纂
        日光東照宮改修総奉行
        長寿院(大洞弁財天)建立
        幕府大老職
5代 直通 1689-1710 直興8男 質素倹約・聡明
    (1701-1710)   22歳で死去
6代 直恒 1693-1710 直興10男 一度も彦根に入ることなく江戸藩邸にて18歳で死去
    (1710)    
7代 直該     幕府大老職再選
  (直興)(2) (1710-1714)   直政・直孝に次ぐ井伊氏中興の祖
        33人の子だくさん
        直興のみ永源寺を墓所とした
8代 直惟 1700-1736 直興13男 質素倹約・武芸奨励
    (1714-1735)   鷹狩りを好む
        石垣の改修工事
9代 直定 1700-1760 直興14男 彦根藩主以前は彦根新田藩1万石
    (1735-1754)   幕府奏者番
        質素倹約
10代 直 1727-1754 直惟長男 質素倹約
    (1754)    
11代 直定     10代直の急死で再び藩主に
  (2) (1754-1755)    
12代 直幸 1729-1789 直惟次男 幕府大老職
  (直英) (1755-1789)   田沼意次と執政
13代 直中 1766-1831 直幸6男 稽古館(弘道館)創設
    (1789-1812)   井伊神社建設
        石田三成慰霊のため石田群霊碑建立
        天寧寺(五百羅漢)建立
        子だくさん
14代 直亮 1794-1850 直中3男 幕府大老職
        将軍家斉死去により大老辞職
    (1812-1846)   西洋好き
15代 直弼 1815-1860 直中14男 幕府大老職
    (1846-1860)   日米修好通商条約
        安政の大獄
        桜田門外の変により暗殺
16代 直憲 1848-1904 直弼次男 直弼の専横・圧政を糾弾20万石へ減封
        佐幕派から倒幕派へ転身
    (1860-1871)   明治維新後、彦根藩知事
1871廃藩置県      
(17代) 直忠 1881-1947 直憲長男 伯爵・関東大震災により東京本邸焼失
(18代) 直愛 1910-1993 直忠長男 伯爵・双子・彦根市長9期46年

井伊家の石高・知行地・藩邸

初代直政  
天正10年(1582) 遠江井伊谷4万石
天正13年(1585) 小牧長久手の戦い・真田攻めの功にて遠江井伊谷6万石
天正18年(1590) 小田原の役の功・徳川氏関東移封にて上野箕輪12万石
慶長3年(1598) 新城築城にて上野高崎12万石
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いの功・戦後処理にて近江佐和山18万石
2代直孝  
慶長20年(1615) 上野安中藩に3万石を分知15万石
慶長20年(1615) 大坂夏の陣の功20万石
寛永9年(1632) 将軍補佐・3代将軍家光の後見役・大老職25万石→30万石
※知行高は30万石だが城附米2万石(知行高換算5万石)があり35万石の格式とされる
16代直憲  
文久2年(1862) 先代直弼の専横・圧政を糾弾され、20万石へ減封
元治元年(1864) 池田屋事件・禁門の変の功23万石

30万石の知行地
近江国28万石・下野国安蘇郡1万7700石・武蔵国荏原郡多摩郡2300石

各地の藩邸
彦根城表御殿
江戸藩邸 桜田門外に上屋敷、赤坂喰違に中屋敷、八丁堀と千駄ヶ谷に下屋敷
京都藩邸 河原町三条下がる
大阪藩邸蔵屋敷 過書町

分流井伊氏 (兵部少輔家)

彦根藩井伊家は徳川幕府譜代大名の筆頭角として知られた名門であるが、井伊氏には彦根以外に分家があったことは案外知られていない。彦根藩初代直政が亡くなり、2代藩主となった直継は病弱だったなどという理由から、直政似と称された剛毅さで大坂の陣で武功をあげた弟直孝にその座を譲り、将軍家康から分地された上野安中3万石を与えられる。
直継は直勝と名を改め、井伊氏分家の初代藩主となった。
元和元年(1615)上野国安中藩3万石
正保2年(1645)三河国西尾藩3万5000石
万治2年(1659)遠江国掛川藩3万5000石
宝永2年(1705)越後国与板藩2万石
明治維新を迎え子爵として華族に列する。

彦根新田藩

  彦根新田藩は、正徳4年(1714)より享保19年(1734)まで存在した藩である。4代及びに7代藩主直興(該)の14男直定が1万石を分与され立藩した。
父直興は、直定を評価しつつも兄直椎に家督を継がせる必要があったため、せめて直定のために新田藩を立藩させたのではないかと思われる。
享保17年(1732)直定は奏者番に就任。享保19年、兄で8代藩主の直椎の養嗣子となったため廃藩となった。直定はのちに、彦根藩主家の9代・11代藩主となった。

新田藩とは、与えられた領地ではなく新規に開発した領地(新田)を分与する方式である(新田分知)。これにより、本家の表高を減少させずに分家を創設する事が出来る。


長野城(中村邸)  近江国(愛知郡・愛知川)

2014年05月08日 | 居館

所在地:滋賀県愛知郡愛荘町長野1170 大隴(だいろう)神社 map:http://yahoo.jp/2hd1ZL

築城者: 恒貞親王(つねさだしんのう) - 平安時代前期の皇族。淳和天皇の第二皇子。

築城期:平安期

城 主:大隴(だいろう)長者・土豪中村掃部

遺 構:堀(用水路)、神社土塁

区 分:居館

訪城日:2014.5.6

御由緒

創祀の年代は明らかでないが、古くは白山権現と称した。淳和天皇の皇子恒貞親王当地に住せられ大隴(だいろう)長者と尊称した。長者当社を篤く崇敬し、神殿、楼門を建立されたと伝えられている。神社附近に御園、大門、蔵の町等長者縁りの地名が残っている。
 
鎌倉時代には近江守護職佐々木氏篤く崇敬し神田、神馬、太刀等を奉納し、又京極氏は神供を献じ、土豪中村掃部、彦根藩の武将も篤く崇敬した。
 
往古例祭は3月己の日に八社の御輿が数日に亘って渡御する大祭礼であったが、愛知川の大洪水で祭組が南北に分離するに至った。天正年間兵火で社殿古文書烏有に帰したが正保慶安年間に本殿を再建、明治11年には拝殿を、同14年には幣殿、渡廊、社務所等を建立した。明治初年社号を大隴神社と改め、同9年村社に列し同14年郷社に昇格、大正4年神饌幣帛料供進指定となる。
 
【御祭神】 伊邪那美命
〔配祀神〕建速須佐之男命 大山咋命 大物主命
【御神紋】左三ツ巴
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造 間口三間三尺 奥行三間
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間

長野城は、築城年代や築城者など詳細不明。

長野地区 長野城は大瀧神社一帯と比定されているが、城郭遺構はない。

郭遺構はないが、大瀧神社に隣接する藤井本家の酒蔵は、土造りで一見に値する。

歴 史

「愛知郡史」には中村邸址として中村掃部・同宮内少輔の名がみえる以外は、詳細不明。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、愛知郡史

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


高宮城 近江国(彦根)

2014年05月07日 | 居館

  

所在地:彦根市高宮町 maphttp://yahoo.jp/G80hKz

築城者:高宮氏

築城期:南北朝期・鎌倉期

城 主:高宮三河守

区 分:平城

遺 構: なし (土壇)

目標地:高宮小学校、徳性寺・高宮寺

 駐車場: 徳性寺駐車場

戦  い:永禄2年(1559)  〇六角定頼 VS  ✖浅井長政

訪城日:2014.5.6

高宮城址とされる高宮小学校と石碑・説明板

高宮小学校の北側、グランドの脇に彦根史談会の建てた高宮城址碑がある。小学校のグランドは周囲の地形に比べると一段高い、これが城址の名残かも知れない。

 しかし、壕跡かと思わせる溝(水路)、隣接する徳性寺の石垣塀が、高宮城を彷佛とさせる。

 小学校の近くに、高宮氏の菩提寺高宮寺(こうぐうじ)がある。高宮寺は天台宗の寺院であったものを、高宮城主宗忠が時宗道場に改めたという。境内の墓地には、高宮一族の墓碑がある。

高宮氏が崇敬した高宮神社。高宮氏も家紋とした【丸に二つ遠雁】 宇多源氏佐々木氏流

 

徳性寺山門の両脇の山門、石垣

内側の土塁
 隣接する徳性寺山門の両脇の土塁や石垣は、往時を感じるが!。

歴  史

 浅井長政の家臣・磯野員昌が守備する佐和山城攻略を窺う六角義賢は、永禄2年(1559)6月、多賀久徳城・久徳左近太夫の寝返り工作に成功。

 久徳左近太夫は娘を輿入れさせている高宮城主・高宮三河守へ六角方に内応することを勧めるが、高宮三河守は応ぜず、六角勢に攻められて高宮城は落城した。

 中世領主に高宮氏がいた。伝によれば、高宮氏には二つの流れがあるという。一つは紀伊国櫟から出た櫟氏の流れで、鎌倉時代に地頭として高宮に赴任してきて高宮を称したという高宮氏。もう一つは、建武の内乱から南北朝時代に活躍した佐々木六角氏頼の三男信高を祖とする高宮氏である。さきの櫟氏系高宮氏を北殿、佐々木氏流高宮氏を南殿として区別されたが、のちに北殿高宮氏は衰微し、南殿高宮氏から養子が入って両高宮氏とも佐々木氏流となった。

 信高は中務少輔・三河守を称して幕府に出仕し、足利四代将軍義持に仕えた。応永二十三年(1416)、関東で起った「上杉禅秀の乱」に際し、信高は幕府軍の将として関東に下り禅秀討伐に功があった。その軍功に対して、応永二十四年、高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の五ケ村を与えられたのである。信高が新領地高宮に入ったとき、二羽の雁が先導し館にとどまった。これを瑞祥とした信高は四つ目結の家紋を「丸に雁」の家紋に改め、地名にちなんで高宮を称するようになったと伝えられる。

 当時、高宮には北殿高宮氏の高義が住していたが、すでに昔日の威勢はなく、信高が高宮の新領主として威勢を振るうようになったのである。さきの「丸に雁」の家紋は北殿高宮氏の家紋でもあり、いまも、高宮氏の氏神である高宮神社、菩提寺である高宮寺は「丸に雁」紋を用いている。おそらく、信高は北殿高宮氏との融和策の一つとして家紋を改めたものであろう。
 以後、高宮氏は湖東の高宮に拠り、佐々木六角氏に属して時代の荒波に身を処した。十五世紀末に成立したという中世武家の家紋集『見聞諸家紋』をみると、高宮氏の紋として「丸に三つ遠雁」の紋が収められている。

  天文二十一年(1552)、戦国大名六角氏の全盛を築いた定頼が死去すると、義賢(承禎)が六角氏の当主となった。当時、浅井氏は六角氏の傘下にはいっていたが、永禄二年(1559)、長政が父久政に代わって当主になると六角氏への対立姿勢を明らかにした。 義賢は浅井方の佐和山城攻略を狙うとともに、浅井方の多賀久徳城、久徳左近太夫に懐柔の手を伸ばし、その寝返り工作に成功した。

 高宮城主の高宮三河守は左近太夫の娘を室に迎えていたが、左近太夫が六角氏に通じたことを察知すると浅井長政に急報した。長政は人質にとっていた左近太夫の母親を処刑すると、新庄・磯野氏らに命じて久徳城を攻撃した。多勢に無勢、久徳城は城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。以後、高宮一族は浅井氏に属して、六角氏との合戦に活躍した。

 やがて、織田信長の登場で時代は大きく動き、永禄十一年、信長は足利義昭を奉じ上洛軍を起こした。信長は六角義賢に援軍要請をしたが、義賢はこれを拒否すると信長軍を迎撃した。しかし、大敗を喫して観音寺城を逃亡、六角氏は没落の運命となった。一方、信長の妹お市を正室として信長とは同盟関係にあった浅井長政は、近江の有力大名へと躍り出たのである。

 しかし、元亀元年(1570)信長が朝倉征伐の陣を起すと、長政は朝倉氏を支援し信長と対立関係となった。同年六月、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が、姉川において激突した。世に名高い姉川の合戦で、高宮三河守豊宗は礒野丹波守、赤田信濃守らとともに出陣、首二百七十五を討ち取る奮戦をみせた。しかし、戦いは浅井方の敗戦となり、高宮氏は多くの一族を失って居城に逃げ帰った。

 姉川の合戦において、さきに没落の運命となった久徳一族が織田軍に属して活躍、久徳城に復帰した。高宮氏にとって久徳氏の存在は目障りなものであり、元亀二年、浅井長政の命を受け久徳城を攻撃した。しかし、城を落すことはできず、空しく兵を引き上げる始末であった。かくして、高宮氏は苦しい立場に追い込まれ、取巻く情勢は予断を許さないものとなったのである。

高宮氏の没落



 その後、織田氏の攻勢により佐和山城主の磯野丹波守が降ると、浅井方諸将が織田方に屈服していった。そのようななかで、高宮三河守は節を通し、一族とともに犬上郡河内の山間に蟄居した。その間、豊宗の子宗存は信長に下って暗殺を図ったが失敗して自殺している。

 天正元年(1573)八月、織田信長は小谷城を総攻撃した。豊宗の弟三河守宗光・宗久父子は小谷城に馳せ参じ、宗光は久政の下で奮戦、討死した。宗久は落城後、高宮城に奔り城に火を放つと一族は離散、高宮氏は没落の運命となったのである。

 浪人となった宗久は美濃高須城主の徳永昌寿から扶持を与えられ、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると西軍方として出陣した。結果は西軍の敗戦に終わり、宗久は多賀敏満寺村に蟄居した。一方、宗存の子郷宗は京極高次に仕え、大坂夏の陣において討死したと伝えらてている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)、多賀町史、犬上郡誌、高宮町史

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


北町城 近江国(彦根)

2014年05月07日 | 居館

 

荒神道沿いに比定される城館

所在地:彦根市稲里町 map:http://yahoo.jp/vU7bh7

築城者;山崎氏

築城期;鎌倉期

現 状:宅地・畑地

遺 構:なし・・・基壇約50cm

目 標:佛性寺 (大きな駐車場あり)

区 分:平城

訪城日;2014.5.6

 北町城は、中世城郭分布調査によると、山崎山の北西麓、旧町名北山崎の集落北端に比定されている。

比定地周辺は「荒神道」という石碑が建ち、北側にそびえる荒神山へ向かい畦道が延びている。古来より荒神山神社への参拝道だったのだろう。

比定地の西側田畑側から民家を見ると、一段高くなっているのがわかり、これが城館の名残りなのだろうか。

 

基壇:50cm

歴 史

***「江州佐々木南北諸氏帳」・・・佐々木氏の時代の近江における城名と城主名を書き上げたもの「大洞弁財天当国古城主名札」と共に郡史のも引用される。

***「江州佐々木南北諸氏帳」に

 北町城主 佐々木旗頭氏族 池田大和守貞勝 とあり

詳細不明。立地から山崎山城主の山崎氏の平時の居館カ?。

佛性寺 

山崎氏

檜扇に四つ目結 (宇多源氏佐々木氏流)


 山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が 佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。とはいうものの、近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも 該当する在所はない。

 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々 佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。おそらく、源平合戦において源氏に 属して関東に没落を余儀なくされた佐々木一族の一人として、源頼朝の旗揚げに参陣、その功によって相模国山崎に 所領を得たのではなかろうか。さらに、佐々木氏発祥の地である近江国犬上郡に地頭職を得て移住、そのまま山崎を 地名とし居城も山崎城と称したものと思われる。

 憲家は建永元年(1206)に死去、九代氏定まで続いたのち「数代中絶」とあって、戦国時代、右衛門尉重家があらわれる。 中絶の間の山崎氏の動向は知れないが、一族は佐々木六角氏と佐々木京極氏とに分かれ、 それぞれ家名を保ったようだ。犬上郡山崎城に拠った山崎氏の嫡流は佐々木六角氏に属し、 『竹生島奉加帳』にも名がみえている。大永五年(1525)、六角定頼が北近江の京極氏に代わって台頭著しい浅井亮政を討つために出兵。山崎氏も 六角軍の一員として出陣、右翼の八条と後詰の箕浦にその名がみえている。

山崎氏の出頭

 代々、佐々木六角氏の被官であった山崎氏に大きな転機をもたらしたのが、永禄六年(1563)、 六角義治が重臣後藤父子を討った「観音寺騒動」であった。事件は主家を凌ぐ勢いをみせる後藤賢豊とその子壱岐守を 排除しようとしたもので、まったくの暴挙であった。これに怒った六角家臣団の多くは、六角氏を見限ってそれぞれ自分の居城へと立て籠もった。後藤氏と姻戚関係にあった山崎片家も山崎城に帰って籠城した。この一件で六角氏は勢力を大きく後退させ、永禄十一年、織田信長の上洛軍を迎えうつのである。

六角氏のライバル江北の浅井氏は信長と同盟関係にあり、山崎片家も信長に属して六角氏攻めに加わった。
 以後、片家は信長に従い、天正三年(1575)、長篠の合戦に出陣、つづいて越前国一向一揆攻めに参加、 翌年には大坂一向一揆攻めに大活躍を示した。天正五年、羽柴秀吉が中国攻めに出陣すると片家も与力として播磨に 在陣、翌年、荒木村重が摂津有岡城に籠って信長に叛旗を翻すと討伐軍に加わって奮戦した。さらに九年には 伊賀征伐に出陣、戦功をあらわした。八方に敵をかかえて苦闘する信長軍の一員として、片家は各地を転戦したのである。

 天正十年六月、明智光秀の謀反によって織田信長が京本能寺で横死した。そのとき、片家は安土城の二の丸を守備、 嫡男の家盛が居城山崎城を守っていた。ちなみに、安土城本丸を守っていたのは蒲生氏郷の父賢秀であった。片家は 一時的に明智光秀に属したが、ほどなく秀吉にくら替えし、山崎の合戦後、犬上郡山崎の地を安堵された。しかし、 山崎城は兵火に罹り、系図など多くの伝来文書を失った。 同年末、摂津国有馬郡三田二万三千石へ転封となり、豊臣大名の一員に列なった。
 山崎の合戦で明智光秀を討った秀吉は、つづいて柴田勝家を破り、信長の後継者として天下人への道を歩き出した。 片家は秀吉に属して小牧・長久手の戦いに出陣、続く九州征伐、小田原の役と秀吉の天下統一戦争に従軍、 着実に豊臣政権における地歩を固めていった。
 片家の嫡男家盛も父とともに信長・秀吉に仕え、片家の死後、家督を許され三田城主となり従五位下左馬允に叙せられた。 文禄元年(1592)の秀吉の朝鮮出兵に際しては、対馬の守護を任され海峡往来の兵站を受け持った。 さらに、肥前名護屋城西ノ丸の警護も命じられるた。翌々年、京都に戻って伏見城の築城に携わるなど、秀吉からの 信頼もあつかった。その子定勝(弟で養子か?)も秀吉馬廻りとなり、文禄の役には父に従って名護屋城に駐留、伏見城の築城も父と 同様に工事を分担するなど活躍、伊勢国八知竹原一万石の大名に取り立てられた。

近世に生き残る

 秀吉の没後、豊臣政権は徳川家康と石田三成との対立が表面化、ついに慶長五年(1600)、関ヶ原の役が起こった。 ときに三田にいた家盛父子は下野小山に陣する徳川家康に石田三成の「謀反」を連絡したが、三成からの催促を拒みきれず 西軍方として行動した。そして、家盛は丹後田辺城攻め、子定勝は伊勢安濃津城攻めに加わったのである。 戦いは西軍敗北に終わり、本来なら改易処分となるべきところであったが、池田輝政との姻戚関係をもって許され、 家盛は三田二万三千石を安堵された。さらに、七千石の加増を受けて因幡国若狭に移封された。一方、改易となった定勝は 豊臣秀頼に仕え、大坂城の役の前に死去したようだ。
 家盛のあと家督を継いだ家治は、慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に徳川方として出陣、活躍した。 元和三年(1617)、大坂の陣の功によって、因幡国若桜から備中国成羽三万五千石に加増転封され、新田開発などに 尽力している。以後、福島正則が改易されたのちの備後三原城の守備、大坂城築城工事における石垣工事を担当するなど 幕府からあつい信頼をかちえた。そして、その手腕をかわれて寛永十六年(1639)には肥後天草 四万石への加増転封を受け、島原の乱で荒廃した天草地方の復興に功績をあげた。それらの功によって、同十八年には 讃岐国丸亀五万三千石に加増転封された。家治は丸亀城の築城に着手すると城下町の経営・整備を行ない、 今日の丸亀の基礎を築いたのである。
 家治の死後、嫡男俊家が家督を継ぎ丸亀藩主となった。俊家が三十代の若桜で死去すると、わずか三歳の嫡男治頼が 家督を継ぎ、叔父豊治が後見人となった。ところが、治頼は八歳で病死、嗣子もなかったため山崎氏は無嗣断絶、改易 処分となった。かくして、山崎氏は大名としての地位を失ったが、豊治が備中国川上郡成羽五千石を与えられ、 山崎氏の血脈を後世に伝えたのであった。

【主な参考文献:戦国大名諸家譜・寛政重修諸家譜・戦国大名370家出自事典 など】

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、武家の家紋

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


山脇古城山城 近江国(彦根)

2014年05月06日 | 平山城

別 名:石寺城

所在地:彦根市稲里町山脇・石寺町   map:http://yahoo.jp/e96wPH

現 状:山林・荒神山ハイキングコース

遺 構:石垣・曲輪・土塁・竪堀・堀切・土橋・大土橋

標 高:190m  比高差:100m:60m(稲村神社から)

区 分:山城

築城者:佐々木氏六角又は浅井氏

訪城日:2014.5.6

 

 

 山脇古城山城は、荒神山のほぼ中心にある荒神山城(荒神山神社)と同じ山塊にあり、そこから南西側へピーク1つを越えた所にある。

 荒神山は山全体がハキングコースとなっていて、しっかりとした道がついている。城跡には荒神山裏の南西側の車道から登って、中腹にある稲里神社の駐車。社務所の西側のハイキングコースを山尾根に向かって登る。

 神社からしばらく登ると、主郭のちょうど中間あたりに出丸がある。縄張は尾根づたいに長く、山の最西端から荒神山神社のすぐ下の駐車場の近くまで達しているので、上から下って行くことも可能だ。

 

 城域は、荒神山の最西端のピークから始まり、そこには後世のものなのか綺麗に石垣が残っている。そこから主郭までには尾根を削平したいびつな幾つかの曲輪が連立し、北側斜面には風化してはっきりしないが10数個の竪堀が要所に確認できる。特に主郭のピークに達する寸前には天然の絶壁があり、その斜面に2本の大きな竪堀と、石垣の残石らしき遺構が存在する。

 

主郭付近は小ぶりな4つの曲輪が堀切って分かれ、土塁で防備を固めている。また、主郭付近から2ヶ所、北に向かって階段上の腰曲輪がのびる。最も圧巻なのは、城跡東方最後の谷にある遺構で、廻りを堀り切っているのか、道自体を土盛りしているのか、長い道が続いている。高さは3~4m、長さ40~50mにも。

これを「大きな土橋」のようだ。自然の尾根道には見えない。これが城遺構なのか?、これが城遺構であれば貴重なものだ。

 

 

 

荒神山とその周辺-歴史 曽根沼・旧愛知川の流路

荒神山の山魂の琵琶湖側(北側)は曽根沼と称して大湿地・沼であった、したがって城構えは南及び西向け

下は、16世紀頃の旧愛知川

以前、約96haあった水面は、昭和36年から始められた干拓により約20haにまで減少しました。干拓地の標高は82.7mで琵琶湖の平均水位より1.8m低いため、中央部に排水路が設けられ、その北側に排水機が設置されています。
 東大寺正倉院所蔵の麻布の絵図のひとつには、現在の曽根沼がある所に荘園が描かれています。つまり当時(751年)は低地ながらも陸地だったと考えられます。しかし荒神山の山陰にあたり、宇曽川や愛知川の堆積がもっともおよびにくい部分であるため、やがて沈水して内湖になったと考えられます。

 かつての 愛知川本流は、そのまま北して彦富町から湖岸薩摩へと刻んでいました。流路が変更のは比較的新 し く、 16 世紀頃と推定されており、大規模な洪水が原因だったのでしょう。

歴  史

信長の近江侵攻に際し、愛知・犬上の一揆衆が信長に対抗するために築いた砦ではないかと云われているが、定かではない。

山脇古城山城(遠景)・・・北東の北町城周辺より

中腹の稲村神社

由緒

社傳によると、天智天皇の御宇六年、常陸国久慈郡稲村に鎮座の稲村神社の分霊を当稲里町小字塚の地に迎え、奉祀したのが始まりとされている。平流庄十三ヶ字の産土神であり、天正年間兵火にかかり、後現在の大平山の地に遷座された。

村上天皇の御代、正一位を授けられ神領八十余町を寄進された。また承久の乱には後鳥羽上皇の祈願もあったと伝う。なお社傳によると近江守護職佐々木家より太刀一振り奉納あり、佐々木承禎は境内樹竹の伐採を禁止する制札を寄せた。また彦根藩主は当社保護のため、種々の制令を寄せたと伝えられている。

りご本殿

本殿は、現在のものは寛正五年八月の建築のものである。

 社名は、往昔、稲村大明神、あるいは大社稲村大明神とも称したが、明治九年稲村神社と改称し、村社に列した。明治十四年郷社に昇格し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。明治四十一年郷内の無格社二十社を合祀奉斎した。なお春祭には、氏子より大太鼓九基の渡御がある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


九居瀬城 近江国(神崎郡・永源寺)

2014年05月06日 | 平山城

 九居瀬城二の郭(最頂部487m)で訪城記念撮影

別名 久居瀬城

所在地:東近江市永源寺九居瀬町 map:http://yahoo.jp/9Cc_E6
   旧:神崎郡永源寺町

目標地点:永源寺ダム

形式:山城  

標 高:487m 比高差:200m 

現 状:山林

遺 構:郭・石垣・堀切・竪堀

築城期:室町期

築城者:小倉氏

永源寺ダム公園の観音像から主郭:30分

訪城日:2014.5.4

 

南西…出丸・副郭北東峰…主郭滋賀県中世城郭調査より

白の観音像・・・上に主郭部(487m)下流部(発電所)永源寺ダム・・・遠望に「日本コバ」

観音像の後のハキングコースを登ります(ジクザグ急坂)

 炭窯のようですが、石積の立派なここから50m登ると南北の尾根に至ります。北尾根に!…ここから城域です

南へ…北郭の出丸へ

北の出丸この出丸から八風街道・ダム湖、対岸の鈴鹿の山々が一望。

出丸の石垣跡

戻り更に頂部へ

北郭

北に登ります西側の土塁471m北尾根頂部=見張り櫓カこの手前を⇒右へ少し下る!左にダム湖の上流部

郭の石垣

主郭手前の石垣

石垣と確認できる石垣と確認できる

主要部は尾根を右手方向に少し下り、比高50mほど登ると城跡です。尾根を左に行くとすぐに支尾根があり、ここは出丸的な存在であったようです。さらに尾根を下りて行くと鉄塔が立っていますが、この鞍部も堀切の遺構かもね。さて、主要部ですが、最後の登りを登りきると大石が散乱しています。斜面には僅かですが石垣も残存していて驚きです。

二の丸の石垣この先は東側尾根は、さらに大きな石垣が散見、郭跡。

三角点487m訪城記念撮影

 二の郭まで登る道も崩落はしていますが、なんとなく石段のような感じです。主要部は二の郭と主郭があり、南側に腰郭が三日月状にあり、さらに、南斜面に2段ほどの段郭があります。この南側にも大石が散乱していて、主郭・二の郭の斜面は石垣が巡っていたと想像します。二の郭と主郭、主郭と東側尾根に浅い堀切があり。

この城、出丸と合わせて馬蹄形の城郭と言えなくはないですが、土塁は殆どなく、主郭・二の郭も、詰め城・監視の城。石垣は孕みと500年をへて、相当に崩壊してます。石垣と確認できる物も。

 

下山です北峰頂部より、永源寺ダム・日本コバ

北峰の尾根坂でダム湖碑と日本コバ

第岸の相谷城・・・(遠望、ダムより)

歴 史
小倉城に発した小倉氏の系統です。小倉氏は室町中期に分裂し、南家は小倉氏中興の祖である小倉実澄が有名で、宗家として佐久良城を本拠としました。東家が小倉城にあり、西家が山上城を本拠とし、和南城、九居瀬城などを支城として築きました。西家は小倉実治、小倉左近大夫という名が史料にあるようです。戦国期に入り、小倉氏一族は宗家を中心とした連合的形から各家が対立していったようです。永禄七年(1564年)頃、左近大夫が兵を挙げ、小倉一族が内紛となり、小倉城十七代の良秀が破れ離散し、宗家が乱を鎮圧したものの小倉氏は急速に力を失ったようで、この頃に九居瀬城も廃城になったと思われます。

 識盧の滝 小倉実澄の塔小倉実澄の供養塔

この格調高い名を持つ滝は、文武両道にすぐれた武将小倉実澄が建てた庵にその名が由来。実澄は、応仁の乱によって荒れ果てた京都の相国寺の学僧をむかえ、永源寺の地に庵を設けた。その庵の名前が「識盧庵」であり、近くに落ちる滝を識盧の滝と名付けたそう。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


山辺神社・赤人寺 近江国

2014年05月06日 | 遺蹟

山部 赤人(やまべ の あかひと、生年不詳 - 天平8年(736)?)は、奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。姓は宿禰。山部足島の子とする系図がある。官位は外従六位下・上総少目。後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。

ファイル:Yamabe no Akahito.jpg山部赤人像/ 蜷川式胤 所蔵品山部赤人(百人一首より)

山部神社・・・滋賀県東近江市下麻生町 map:http://yahoo.jp/NgfcK5

山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺

滋賀県東近江市下麻生町には山部赤人を祀る山部神社と山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺がある

参考資料:Wikipedia

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


山本神社遺構 近江國(土山)

2014年05月05日 | 遺蹟

山本神社遺構(甲賀の城より)

所在地:甲賀市土山町大野字山本 map:http://yahoo.jp/D9DLtx

現 状:山林

遺 構:土塁・空堀・土橋

区 分:平城

訪城日:2014.5.3

山本神社の東側に南北に長くやや歪な台形の土塁で囲まれた遺跡が残る。

西側の神社に面して堀が残され、南東隅の土塁は丁字になっており、東側に続く副郭であったものと思われる。東側の土塁の外には名称不明の神社が、二つ存在している。

山本神社は土山町大野のうち、片山集落の西はずれに所在する片山の氏神である。
 この東隣りの森林内に土塁で囲まれた南北に長い区画が存在する。土塁の高さは約1m、西側には深さ約1mの空堀が確認できる。

東西のほぼ中央付近に土塁が開口していて、西側の空堀には土橋が架かっている。

 虎口カ、この開口部は、さらに東側の小さな祠(稲荷神社)へと続く通路のために後世に改変されたものかも知れない。

 これらが城遺構カ、水口町北脇の柏木神社、甲賀町鳥居野の大鳥神社などの類例がある。多賀町の桃原城のような牧遺構にも見える。

歴  史

詳細不明。

鳥居の東側すぐ土塁。鎮守の森内に土塁で囲まれた南北に長い区画が存在する

神社東側・・・土塁カ、自然地形カ?

山本神社遺構(遠景・・・北より大野本城の西から)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(甲賀)、淡海の城、甲賀の城、甲賀郡誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


伊佐野城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月05日 | 平山城

駐車位置:路上(集落と城郭の間)

所在地:甲賀市水口町和野字石原 map:http://yahoo.jp/P2eASk

現 状:山林・畑地・民家

遺 構::曲輪・土塁・空堀

区 分:平城 標高200m

築城者:伊佐野氏

城 主:伊佐野上野介為綱

訪城日:2014.5.3

  伊佐野城は八幡神社の西側一帯に築かれた群郭式の平城で、その規模は東西200m、南北150mを越える。

集落の北側の茶畑や林、竹林になっている部分に土塁や空堀で区画された曲輪群が残されている。大半の遺構は確認するのが難しい状態であるが、八幡神社の境内の西側に土塁と堀を確認することができる。

伊佐野城関連写真八幡神社の由緒に伊佐野氏についての記述がある。

 伊佐野城は、水口町和野の東方、伊佐野集落の中央北側の野洲川河岸段丘上に所在する。集落側から見ると比高差はないが、北側の野洲川方向からは丘陵上に位置するのがわかる。

 縄張は東西200m×南北150mの中で、上図のようにⅠ~Ⅸの大規模な区画からなる。領主とその庶子が同名中を組織して形成されたいわゆる群郭式であり、土塁の高さや規模に格差があり、それぞれの曲輪を繋ぐ導線がない、独立した区画が隣り合っているに過ぎない構造である。

  現在ⅢⅤⅥⅦⅨが山林で、特にⅢⅤⅥは雑草に覆われ進入が困難である。ⅠⅧは宅地、ⅡⅣは畑地として利用されている。全体的に気軽に探索しづらい状態だが、その中でⅦは訪れ易く、約50m四方に土塁が巡るコンパクトな曲輪が味わえる。また東隣りの八幡神社からは、Ⅷの土塁やⅡⅢの東端を巡る空堀が簡単に確認できる。

 甲賀郡では単郭・副郭の単純な城が多い中、伊佐野城では大規模な曲輪は珍しい。類似構造は水口町の植城があるが、平地群郭は宅地化され破壊されているが、伊佐野城は貴重な遺構である。

伊佐野城関連写真

北側から曲輪の並ぶ(遠景)

歴 史

伊佐野城は築城年代等の詳細は不明だが、佐治文書によると城主は伊佐氏で、惣領と庶子からなる同名中を組織していたとされている。

 伊佐野氏は佐治氏(佐治は、甲賀町だが隣の集落)の庶家で、佐治越前守為継の三男が伊佐野を領して、伊佐野上野介為綱と名乗ったことに始まるという。

同名中」とは惣領家が突出した実力をもつのではなく、苗字を同じくする一族が互いに均衡した実力をもって形成された組織である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


嶬峨(ぎが)西城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月04日 | 平山城

別 名:嶬峨山城

所在地:甲賀市水口町嶬峨 map:http://yahoo.jp/TmYmfE

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:山城

築城者:儀俄越前守

築城期:室町期

目標地:八坂神社、千光寺

訪請日:2014.5.3

歴  史

 嶬峨城・嶬峨山城は、室町時代に儀俄越前守築かれた。嶬峨城は儀俄氏の居城である。儀俄氏は、蒲生氏の分流権五郎俊光を祖とし、元久元年に観学院領儀俄庄の下司となり、儀俄氏となった。

 長享元年(1487)には、儀俄越前守は鈎の陣で戦功をたてたことにより、甲賀五十三家に数えられるようになった。永禄十一年(1568)に主家である観音寺城六角氏が信長に滅ぼされると、蒲生氏が信長の配下に属したために儀俄氏も安堵となるが、のちの天正十三年(1585)に、甲賀破儀の為に城を没収となり、滅亡していった。

『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照

 儀俄氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、有力土豪であった。 

嶬峨集落の南東、滋賀ゴルフクラブの敷地の南側を丘陵の千光寺や八坂神社を目指す。
 

嵯峨集落から1km程に南の丘陵に、嶬峨西城と嶬峨城がある一帯(滋賀ゴルフアクセス路)は嵯峨城・山屋敷・備後城、そして江戸時代の堀田外記の陣屋」などもあるようです。遺構に遭遇できる。
 稲荷神社への石段をあがると堀田外記の名が彫られた碑がある。

その奥に踏み込み、10メートルほど行きますと堀切が現れる。目の前には土塁が視界をさえぎり、高さ3メートルほどの土塁の上にあがるとようやく全貌が解る。土塁が同じ高さを維持したまま郭全体を囲んでいる。そして外側には掘跡まで確認できる。見事な状態!

 城跡は単郭なので、南側には土塁が途切れていますが城門跡らしいです。郭内こそ木々が邪魔して視界がよくありませんが、郭に下りてみますと周囲を囲む土塁に圧倒されるが、往時は堅牢な城郭!

               

千光寺 滋賀県甲賀市水口町嵯峨1613

天平21年(749)僧行基の開基、左大臣橘諸兄の造営という。
 天正(1573-1592)の織田信長によって、兵火で全て焼失、正保2年(1645)現地に移転。その後再度の焼失と再建を経て、明治11年に本堂が再建される。
 古は塔頭に西住院始め、備前福寿など10坊があり、甲賀郡六大寺の一つに数えられる巨刹であった。

 千光寺 本堂と川枯寺の石柱 

   

八坂神社 水口町嶬峨に鎮座。
野洲川を渡って南へ進むと池があるが、その池のそばに境内。南へ行くと滋賀ゴルフ場(石川遼が初優勝した)がある。
近くに千光寺がある。水口町嶬峨には同名の八坂神社という小社があるのだが、こちらの方が大きくて有名なので間違うことはないと思う。

池の脇の参道を進むと鳥居があり、そばに「神輿御陵」と書かれた塚のようなものがあった。昔の神輿を埋めているのだろうか。

『滋賀県神社誌』には、境内社が三社記されており、天神社・熊野神社・川枯社とあるが『平成祭データ』には、天神社と熊野神社の二社のみが記され
熊野神社祭神の中に川枯姫命の名がある。ということは、本殿左手の境内社は、正式には熊野神社であり川枯社が合祀されているのだろう。

『式内社調査報告』によると、天神社と熊野神社は、明治七年、千光寺境内から移されたとあり、熊野神社に本殿の川枯姫命を分祀したのかもしれない。ということで、式内社・川枯神社の後継社は、本殿左の境内社なのだろう。

川枯姫命とは、饒速日命の孫・彦湯支命の妃で、出石心命の母神。出石心命の子は大水口宿禰で、水口町開拓の祖。

   千光寺              

参道 嶬峨西城(遠景・千光寺の背後)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


服部城 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月03日 | 平山城

 

土塁の手前に堀跡・・・新宮神社の森と服部城の間の横堀(自然地形カ)

服部城は、新宮神社の背後の丘陵に築かれている。 丘陵山一帯は新興住宅地となっているが、その北西隅にある小高い丘(もっとも一見雑木林と竹藪)が城跡。

 周囲を土塁と空堀で取り囲んだ方形単郭の居館形式の縄張りだ。 空堀と土塁などの遺構は良く残ってる。主郭部分は、以前は畑地として開削されいる。

 西側に大手として、開かれ(開削・破壊)・・・三方は土塁が残る

 城から南東約200mの所に新宮城と新宮支城があり、共に服部氏築城の城だ。 服部城と新宮2城での防衛を図ったと

所在地:滋賀県甲賀市甲南町新治字中出 map:http://yahoo.jp/1hQLj7

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:丘城

築城者:服部氏

築城期:室町期

目標地:新宮神社、甲南西保育園(甲南町新治)

訪請日:2014.5.3

歴  史

 服部城・新宮城は、室町時代に服部氏によって築かれた。 

服部氏は、甲賀郡中惣を組織した甲賀五十三家の一つ、荘内三家に数えられた有力土豪であった。 

伊賀服部氏とも一族になり、服部一族本貫の地でもある。

主郭

服部城は新宮神社の南西の丘陵に築かれている。 単郭の城で、南から東側に高土塁が巡り、北に一段高い段が着く。南東の土塁の外側は堀があったのかやや凹んでいる。北東側の薮の中に虎口が開いている。

 

新宮神社(甲南町新治)

 新宮神社の東の道を南へ進んで丘陵に上がり、最初の交差点を西へ曲がって突き当たりまで進む。この右奥が城跡。

丘陵山上一帯は新興住宅地となっているが、丘陵山一帯は新興住宅地の手前に「愛宕神社」が祀られ、背後に土塁が・・・熊笹で侵入不可。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


杉谷砦 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月03日 | 平山城

目標地:正福禅寺

所在地:滋賀県甲賀市甲南町杉谷小字東出 map:http://yahoo.jp/TOHK58

区 分:平山城(砦)

築城者:杉谷氏

築城期:室町期

城 主: 杉谷住善坊

 区 分:丘城

イメージ 2

 歴 史  

詳細不明。杉谷城の出城。

 現 状   
杉谷砦は正福寺の東側の尾根先にある。
南東背後に続く尾根を堀切で断ち、北側を除く三方を高土塁で覆っている。 堀切の北側には五輪塔の石材が散乱している。

東側は、山魂全体は「詰め城」をして、東側は土塁で囲い、西側は急な切岸状である。

 杉谷砦(出丸)山魂(詰め城)・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!