城郭探訪

yamaziro

北内貴城 近江国(甲賀・水口)

2014年05月02日 | 平山城

別 名:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・堀切・横堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:室町期 永禄年間(1558-70)

標 高:230m  比高差50m 

目 標:水口こどもの森(一番奥)駐車城・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2014.5.1

別 称:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪(二郭三曲輪)・ニ重土塁・障子堀・竪堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:室町期 永禄年間(1558-70)

標高:240m  比高差50m 

目 標:水口こどもの森(一番奥)駐車城・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2014.5.1・2018.2.10

お城の概要

近江では、珍しい「障子掘」・「二重土塁」の城

北内貴城は北内貴の東端、野洲川南岸に広がる山塊内に所在する。

現在西麓の谷部はみなくち総合公園として整備されており、公園を見下ろす格好で南北に延びる尾根筋の一画に築かれている。

曲輪Ⅰが主郭と見られ、甲賀に一般的な高い土塁に囲まれた方形区画で、急崖の北東辺以外は平地城館のような横堀が掘られている。南東辺に平虎口が開口し、土橋状の通路で曲輪Ⅱに至る。
  曲輪ⅡⅢ間の長い土塁と横堀である。南端は尾根筋を遮断する堀切に土橋が架かっていて、曲輪Ⅲ側には櫓台のような高まりが更に防御性を高めている。
曲輪Ⅱは北東辺以外を土塁で囲み、北隅付近に虎口が開口している。虎口の外側は、城道に付属する土塁が設けられる厳重さから、これが大手だと思われる。大手を下った先には幾つかの削平が確認できる。

 北内貴城は、他の甲賀の城のように集落背後とは離れた立地と、特徴的な縄張、特定の土豪(美濃部氏)の城と伝わる。

お城の歴史

 北内貴城は、永禄年間(1558-70)に美濃部茂忠が築いた。

茂忠の子治茂は、蒲生氏の女である比佐女を室に迎えたが、この比佐女がここに住したため「比佐殿屋敷」の別名が伝わる。

正式な登城口は判らないが、総合公園の駐車場からハイキングコースを南に進み、大きな溜池を越えてすぐの小池の東側から山中に入って、

切株を北側は、大手道のように土塁と城道が続く・・・!

半ば直登状態で尾根筋に出ると主郭の曲輪西側に辿り着く。(登城路は、雑木や笹竹を間伐、黄色荷造り紐で案内してくれる) 

主郭

副郭(Ⅱの郭)

郭Ⅲ

武者隠しカ?

土塁

登城口・・・北側

北内貴城・・・左側の山頂(遠景)・・・駐車場近くより

参考資料:『甲賀市誌 甲賀の城』

本日の訪問ありがとうございす!!


穴太衆

2014年05月02日 | 番外編

京都新聞より

穴太衆

織田信長の「比叡山の焼き討ち」の後始末をしていた丹羽秀長が山内の石垣が非常に堅固なことに気づき、信長に進言。地元穴太の石積集団が手掛けたことが判明した。

 

参考資料:京都新聞 特集

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


杉谷屋敷カ 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月02日 | 館跡

所在地:甲賀市甲南町杉谷 map:http://yahoo.jp/mNdufR

初城主:杉谷氏

訪城日:2014.5.1

集落内

杉谷神社

神社の裏の壇丘・竹林

杉谷集落の杉谷集落の「杉谷神社」一体が杉谷屋敷・・・・。「杉谷善住坊の屋敷だ」が!


 ここ甲南町一帯は丘陵地帯であり、畑地などもほとんどが階段状に作られていて、土塁や削平地などがある。

 この杉谷屋敷跡の周りの畑や宅地化されており遺構との区別がつき難い。南側竹林には7~8mの段差のある削平地があり、この辺りが杉谷屋敷の跡ではないかと思われるのだが・・・・・。

『日本城郭体系 11』によりますと、

所在地は「甲賀郡甲南町杉谷」、創築年代は「天正二年(一五七四)」、形式は「山城」です。

城の歴史は「杉谷屋敷は、甲南町大字杉谷の西方の山腹にある。採土のため半壊しているが、西面土塁(高さ四m)と、南北土塁が一部残存し、西面土塁は山麓を削り、城郭を独立させるために空堀がある。また、北面には、平坦地が確認でき、西側中央に井戸がある。

杉谷屋敷は、天正二年に近江国守護六角氏が築いた最後の陣であり、甲賀武士杉谷氏の城を整備して利用している。

元亀二年(一五七一)、織田信長は、六角氏・甲賀武士の守る鈴鹿峠を通れず、千種(ちぐさ)峠(蒲生郡)を越える。

その時、六角承禎の命を受けた杉谷善住房は、信長を討とうとするが失敗して、翌年捕えられ、立ちながらにして地に埋められ、七日間竹鋸で首を引き切られる。

代々杉谷氏は鉄砲の名手で、善住房も甲賀随一の名手といわれ、その鉄砲も「甲賀張り」を使用したといわれる。」とあります。なお、甲賀郡甲南町杉谷は現在甲賀市甲南町杉谷になっています。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


 


山上城Ⅱ 近江国(甲賀・水口)

2014年05月01日 | 平山城

所在地 滋賀県甲賀市水口町山上 map:http://yahoo.jp/o3eDD2

区 分:丘陵城

標 高:230m  比高差30m

城主: 山上氏 

目標地:山上公民館・地蔵院

訪城日:2014.5.1

ハイキングコースから

歴  史  

詳細不明。

現 状

山上城IIは広徳寺のある山塊から舌状に東へ伸びた丘陵の一つに築かれている。谷を挟んで北側には山上城がある。

一般的に甲賀地方には方形に近く土塁を伴った曲輪を持つ城館が多いが、この山上城IIは堀も土塁も見あたらず、切岸加工と削平のみである。

山上城IIは東西二段の曲輪があり、東下から南側にかけて帯曲輪が巡らされているのみであるが、切岸や削平はしっかりしている。

又、城域、遺構のギリギリまで近世に開削され、訪城は楽ではあるが当時の城域は推測するしかない。 

登城口は2つある、民家の裏山

ここからは、北側に土塁があり、小郭を囲んでいる。

ハイキングコースからは、正面に土塁、右に城道は基壇ことに大石の虎口が

切岸の下の郭 大石で虎口大石で虎口

山上城Ⅱ(遠景)・・・旧信楽古道の若宮神社から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


杉谷城(杉谷屋敷) 近江国(甲賀・甲南)

2014年05月01日 | 平山城

 

お城のデータ

所在地;滋賀県甲賀市甲南町杉谷 map:http://yahoo.jp/FdWHM0

現 状:山林 

遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切道

築城者::杉谷氏

築城期:戦国期

目 標;県道4号線杉谷南信号西すぐ、「オールマの資材置き場」

訪城日:2014.5.1

お城の概要

杉谷城は、杉谷川の北、杉谷集落のすぐ西側丘陵上に築かれていた。この丘陵は集落は県道4号線で分断され、新名神高速と県道4号線の間、杉谷南の信号を西すぐ民家が2戸建っており、道路はさんでその北は曲輪。登城する。

縄張は、東西に地割れのような堀が走り、それを境に南に2つ、北に3つ整然と曲輪が並ぶ。これは寺坊を城塞化したカ?。
 甲賀特有の一郭を要し、虎口は土塁を設け、最高所は櫓台カ?

東の虎口の土塁や堀切は不充分で、防御施設も非弱である、後世に、資材置き場に開削された為かも?。

『日本城郭体系 11』によりますと、

所在地は「甲賀郡甲南町杉谷」、創築年代は「天正二年(一五七四)」、形式は「山城」です。城の歴史は「杉谷屋敷は、甲南町大字杉谷の西方の山腹にある。採土のため半壊しているが、西面土塁(高さ四m)と、南北土塁が一部残存し、西面土塁は山麓を削り、城郭を独立させるために空堀がある。また、北面には、平坦地が確認でき、西側中央に井戸がある

お城の歴史

 甲賀五十三家の杉谷氏の城。杉谷氏は近江甲賀五十三家の一つ杉谷氏に関係する人物ともされる。

杉谷善住坊 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/c789cb0083a9cf5ec8fed9510d3ad326

元亀元年(1570)織田信長が「金ヶ崎の退き口」で京へ退却。その後京より岐阜へ戻る道として千草越えした際、善住坊は六角承禎(義賢)に依頼され信長を鉄砲で狙撃して暗殺を企て失敗した。善住坊は逃亡したが潜伏先の近江国高島郡で捕縛され、鋸挽きの刑に処せられた。

    

 

杉谷城土塁(笹)から

杉谷城(遠景)土塁(笹)左側から登城オールマの資材置き場の横に路上駐車

杉谷南の信号西ですぐ

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、本城郭体系 11

本日も訪問、ありがとうございました。