湖畔人です。
以前第50話でもお話しした通り、このブログにおいては、様々な教えの最大公約数的な真理として、人類が霊的な存在であり、神仏の子であり、転生輪廻の中、様々な経験をこの物質世界で積み、霊性の獲得を目指している存在だと想定していて、その視点から見て、どう世界を見るのが正しいのか、どう生るべきなのかと言う事を考える契機にして行きたいと述べましたが、今日は、ではそう言う思想の元、実際、普段の生活において、どのような心持で過ごしているのか、本来どうすべきなのか、今日はその一端の報告です。こうした試みはこれまでやって来ているようで、実はあまりして来なかったので、初トライをしてみたいと思います。個人的には、霊的な生活において一番大事だと思っているポイントは、周辺の人間を、彼らも皆、同じ神という名の宇宙樹の葉の一枚であり、皆神の一部、皆神の子、皆兄弟であると言う視点で他人を見る事が大事だと思っています。実際、社会に出れば、色々な人が居ますし、どちらかと言うと悪意を秘めて人の足を引っぱる事に忙しい人達を数多く見受けますし、本来神の子であるはずの彼らがむしろ悪魔に近く見える場面にも数多く遭遇します。特に自分に対して積極的に敵対をしたり足を引こうとする方々に出会った際には、それらの方々を神の子達として見なさい、と言われても中々難しいところがあるのも事実です。ただ、その現象がどうであれ、彼らも皆神の子である事実には変わりはありません。ただ、その神の子としての自覚を今彼らが持っているか、将来持つのか、来来世に持つのか、というただ時間の問題、タイミングの問題だけとも言えます。自覚のある人間からすれば、何と罪深い行いをするのか?!、と思うかもしれませんが、自覚の有り無しの問題であって、彼らの根っこが神の子であることには何ら変わりはないのです。ただ一方で、彼らも神性、仏性を内に宿す身だからこそ、相手に対する自己保存的欲求(エゴ)に基づく悪意や悪業は、相手の内にある仏性、神性、神と繋がった宇宙樹の部分への冒涜や罪であり、自らの内にある神性や仏性への冒涜でもあり罪でもあるため、相手にも自分にも償いを必要とするはずですし、転生の中、カルマとして、業として償いが要る、という事になるかと存じます。その罪が深ければ深い程、それ相応の償い、カルマの解消が必要になるかと思います。その償いは、死後の地獄での修行かもしれませんし、将来に現れてくる辛い出来事になるかもしれません。凶悪事件を起こす方などは、それ相応の償いが要りますので、気の毒な未来が待っている事になるはずです。ある意味、無知であるが故の気の毒な話なのです。しかし神性への罪はゼロ化、帳消しが要るはずですので、自分に悪意を持って対峙する人間達も、その自分や彼らの仏性、神性への冒涜により、将来必ず償いを受ける事になるはずですので、それを知っていて彼らに罪を犯し続けさせるのは何とも意地悪な話ですので、うまく彼らが彼らの本当の姿に気付けるような誘導が要るのかと存じます。将来の業を避ける為、その解消法、軽減法の一つとしては、様々な宗教の教えによれば、反省、懺悔、が良いと言われており、特に一番良いのは直接の謝罪がカルマを持ち越さずに済む良いカルマの解消法となるようです。相手の奥の仏性に、心から謝罪をするのが、一番のようです。話は戻りますが、もし私に悪意を持ち此方を批判する人間が目の前に現れた場合には、その状況をどう判断し、どう対応するかですが、そのパターンは、単なる悪意による批判行為の場合と、実際に自分に非もある批判の場合と、その両方が混ざっている場合と、3通りあるかと思いますが、それらに対する自分なりの折り合いのつけ方としては(それが正解かどうかは判りませんが)、まず、その批判行為が明確に悪意を伴ったもので、明らかに私にダメージを与えんとした悪意ある批判行為であると見られる場合は、私にダメージを与えるのが彼らの狙いですので、あまり彼らの狙った通りにダメージを受けることが無いようにする事が大事だと思います。真に受けず、軽く受け流す事、フーンと受け流し、軽くかわし、別の話題に切り替え話を反らす等してしまう事、時には無視をする事、とにかく、こちらが全くこたえていない事を示し、彼らの悪しき試みが効かない事を示す事、しかも、それを何度も繰り返す事が大事だと思っています。この方式は、そこそこ効き目がある印象です。ただ、度を過ぎた敵対行為には、多少キレる事も有効と感じる事もございます。基本、彼らの判断基準は、相手の人間が自分の将来にとってどう影響力を持つ対象なのか、役に立ちそうか、怒らせると厄介なのか、その辺りを見ながら、態度を決めて来ますので、こちらが多少怒る反応を示すと、これはマズイと態度が改まる事も何度も見てきております。そんな単純な理由で態度が変わるのか?と残念に思うこともありますが、実際、そう言った場面をこれまで何度も見て来ており、かなり有効な手法のようです。この方式の前提としては、ある程度その組織で実績があり、組織の中枢とのリンクがあると尚良いと考えます。私は余り怒る事ができず、何方かと言うと苦手な方で、それが課題の一つなのですが、相手を増長させない有効な手立てのようですので、今後コミュニケーション技術の一つとして身に着けたいと考えております。出来るだけ頑張ってみようと思っています。次に、私の方に明らかに非があり批判を受けた場合や、或いは多少相手に悪意もありはするが部分的には此方にも非があり批判を受けたと思える場合には、その批判内容に対して、その批判を受け入れ改善した場合に、自分達が所属する組織にとって、その改善が一体良きものなのかどうか、効用が見込めるのか、その視点から見てみて、どうも有効のようだと言う見解になる場合には、それらの説明をした上で、素直に受け入れ、改善を試みようとします。その代わりに、相手に対しても、改善を促したい点がある場合には、同じように、所属する組織にとって、どうその改善が必要なのか、有効なのか、と言う視点から、相手にも改善を促す、という事をしています。できるだけ理性的に理論的に説明をし、改善を促します。個人の改善がどう組織にとって有効なのか、と言う視点が、やはりあらゆる判断の基準としてあるべきなのだと思うのです。もちろん、その組織が社会にとって有益であることが大前提ではありますが・・・。正しいかどうかは判りませんが、これが現時点での私に対する3種の批判への対処法です。今後も色々と試行錯誤をして行きたいと思っています。いずれにせよ、人間関係が悩みのほとんどです。感情的にならず、相手に神性、仏性を見つつ、此方に非があれば批判を取り入れ改善し、たまには怒り、個々人の変革を組織を利する方向で一致させるよう調整を掛けて行きたい、と思っています。まあ、霊性を高めると言っても、実際、社会生活を送っていれば、そんな考えを持っている人間は、ほんの一握りですし、余り似たような思想を持っている人に会った事もないですし、表立ってそれを言えば変人と思われるのが必定ですし、余りそうした言動ばかりしていると、弱みとして使われるのが落ちですから、余程でないとそう言った事は表立って人間神の子等とは言えませんが、ただ、言い方次第ではほのめかしに因る誘導位は可能かと思いますので、オブラートに包んで、罰が当たるとか、神様も呆れてるとか、色々な言い方で誘導は可能かと思っています。天使と悪魔の心は誰にでもございますので、相手の中の天使の部分が強く出てくるように、まずは、此方が相手の心の奥にある仏性や神性を強く信じ、拝み出し、“貴方も神の子でしょう?、それにふさわしく生きてください!”、と心の中で強く念じ、その上で、賢く、うまく誘導して行ければと思っています。そのやり方が正しいのか十分なのかはわかりませんが、一応、今の自分にとってのベストなやり方です。また、第4話でもご説明した通り、祈りも、霊的な生活には必須と考えています。自分が霊的な存在である事の確認作業にもなりますし、課題のある相手にも祈りの中で相手の改善と気付きを願うことは大事だと思っています。私は尊崇する宗教家が提供してくださっている祈りの言葉を幾つか毎朝毎晩唱えさせて頂いており、守られているな、祈りがシールドになっているな、と感じる事が実際、多々ございまして、大変感謝している次第でございます。お勧めです。
では、また、きっと後日進展もあるでしょうから、その際御報告いたします。
では。
湖畔人
(2017.11.25改訂)
以前第50話でもお話しした通り、このブログにおいては、様々な教えの最大公約数的な真理として、人類が霊的な存在であり、神仏の子であり、転生輪廻の中、様々な経験をこの物質世界で積み、霊性の獲得を目指している存在だと想定していて、その視点から見て、どう世界を見るのが正しいのか、どう生るべきなのかと言う事を考える契機にして行きたいと述べましたが、今日は、ではそう言う思想の元、実際、普段の生活において、どのような心持で過ごしているのか、本来どうすべきなのか、今日はその一端の報告です。こうした試みはこれまでやって来ているようで、実はあまりして来なかったので、初トライをしてみたいと思います。個人的には、霊的な生活において一番大事だと思っているポイントは、周辺の人間を、彼らも皆、同じ神という名の宇宙樹の葉の一枚であり、皆神の一部、皆神の子、皆兄弟であると言う視点で他人を見る事が大事だと思っています。実際、社会に出れば、色々な人が居ますし、どちらかと言うと悪意を秘めて人の足を引っぱる事に忙しい人達を数多く見受けますし、本来神の子であるはずの彼らがむしろ悪魔に近く見える場面にも数多く遭遇します。特に自分に対して積極的に敵対をしたり足を引こうとする方々に出会った際には、それらの方々を神の子達として見なさい、と言われても中々難しいところがあるのも事実です。ただ、その現象がどうであれ、彼らも皆神の子である事実には変わりはありません。ただ、その神の子としての自覚を今彼らが持っているか、将来持つのか、来来世に持つのか、というただ時間の問題、タイミングの問題だけとも言えます。自覚のある人間からすれば、何と罪深い行いをするのか?!、と思うかもしれませんが、自覚の有り無しの問題であって、彼らの根っこが神の子であることには何ら変わりはないのです。ただ一方で、彼らも神性、仏性を内に宿す身だからこそ、相手に対する自己保存的欲求(エゴ)に基づく悪意や悪業は、相手の内にある仏性、神性、神と繋がった宇宙樹の部分への冒涜や罪であり、自らの内にある神性や仏性への冒涜でもあり罪でもあるため、相手にも自分にも償いを必要とするはずですし、転生の中、カルマとして、業として償いが要る、という事になるかと存じます。その罪が深ければ深い程、それ相応の償い、カルマの解消が必要になるかと思います。その償いは、死後の地獄での修行かもしれませんし、将来に現れてくる辛い出来事になるかもしれません。凶悪事件を起こす方などは、それ相応の償いが要りますので、気の毒な未来が待っている事になるはずです。ある意味、無知であるが故の気の毒な話なのです。しかし神性への罪はゼロ化、帳消しが要るはずですので、自分に悪意を持って対峙する人間達も、その自分や彼らの仏性、神性への冒涜により、将来必ず償いを受ける事になるはずですので、それを知っていて彼らに罪を犯し続けさせるのは何とも意地悪な話ですので、うまく彼らが彼らの本当の姿に気付けるような誘導が要るのかと存じます。将来の業を避ける為、その解消法、軽減法の一つとしては、様々な宗教の教えによれば、反省、懺悔、が良いと言われており、特に一番良いのは直接の謝罪がカルマを持ち越さずに済む良いカルマの解消法となるようです。相手の奥の仏性に、心から謝罪をするのが、一番のようです。話は戻りますが、もし私に悪意を持ち此方を批判する人間が目の前に現れた場合には、その状況をどう判断し、どう対応するかですが、そのパターンは、単なる悪意による批判行為の場合と、実際に自分に非もある批判の場合と、その両方が混ざっている場合と、3通りあるかと思いますが、それらに対する自分なりの折り合いのつけ方としては(それが正解かどうかは判りませんが)、まず、その批判行為が明確に悪意を伴ったもので、明らかに私にダメージを与えんとした悪意ある批判行為であると見られる場合は、私にダメージを与えるのが彼らの狙いですので、あまり彼らの狙った通りにダメージを受けることが無いようにする事が大事だと思います。真に受けず、軽く受け流す事、フーンと受け流し、軽くかわし、別の話題に切り替え話を反らす等してしまう事、時には無視をする事、とにかく、こちらが全くこたえていない事を示し、彼らの悪しき試みが効かない事を示す事、しかも、それを何度も繰り返す事が大事だと思っています。この方式は、そこそこ効き目がある印象です。ただ、度を過ぎた敵対行為には、多少キレる事も有効と感じる事もございます。基本、彼らの判断基準は、相手の人間が自分の将来にとってどう影響力を持つ対象なのか、役に立ちそうか、怒らせると厄介なのか、その辺りを見ながら、態度を決めて来ますので、こちらが多少怒る反応を示すと、これはマズイと態度が改まる事も何度も見てきております。そんな単純な理由で態度が変わるのか?と残念に思うこともありますが、実際、そう言った場面をこれまで何度も見て来ており、かなり有効な手法のようです。この方式の前提としては、ある程度その組織で実績があり、組織の中枢とのリンクがあると尚良いと考えます。私は余り怒る事ができず、何方かと言うと苦手な方で、それが課題の一つなのですが、相手を増長させない有効な手立てのようですので、今後コミュニケーション技術の一つとして身に着けたいと考えております。出来るだけ頑張ってみようと思っています。次に、私の方に明らかに非があり批判を受けた場合や、或いは多少相手に悪意もありはするが部分的には此方にも非があり批判を受けたと思える場合には、その批判内容に対して、その批判を受け入れ改善した場合に、自分達が所属する組織にとって、その改善が一体良きものなのかどうか、効用が見込めるのか、その視点から見てみて、どうも有効のようだと言う見解になる場合には、それらの説明をした上で、素直に受け入れ、改善を試みようとします。その代わりに、相手に対しても、改善を促したい点がある場合には、同じように、所属する組織にとって、どうその改善が必要なのか、有効なのか、と言う視点から、相手にも改善を促す、という事をしています。できるだけ理性的に理論的に説明をし、改善を促します。個人の改善がどう組織にとって有効なのか、と言う視点が、やはりあらゆる判断の基準としてあるべきなのだと思うのです。もちろん、その組織が社会にとって有益であることが大前提ではありますが・・・。正しいかどうかは判りませんが、これが現時点での私に対する3種の批判への対処法です。今後も色々と試行錯誤をして行きたいと思っています。いずれにせよ、人間関係が悩みのほとんどです。感情的にならず、相手に神性、仏性を見つつ、此方に非があれば批判を取り入れ改善し、たまには怒り、個々人の変革を組織を利する方向で一致させるよう調整を掛けて行きたい、と思っています。まあ、霊性を高めると言っても、実際、社会生活を送っていれば、そんな考えを持っている人間は、ほんの一握りですし、余り似たような思想を持っている人に会った事もないですし、表立ってそれを言えば変人と思われるのが必定ですし、余りそうした言動ばかりしていると、弱みとして使われるのが落ちですから、余程でないとそう言った事は表立って人間神の子等とは言えませんが、ただ、言い方次第ではほのめかしに因る誘導位は可能かと思いますので、オブラートに包んで、罰が当たるとか、神様も呆れてるとか、色々な言い方で誘導は可能かと思っています。天使と悪魔の心は誰にでもございますので、相手の中の天使の部分が強く出てくるように、まずは、此方が相手の心の奥にある仏性や神性を強く信じ、拝み出し、“貴方も神の子でしょう?、それにふさわしく生きてください!”、と心の中で強く念じ、その上で、賢く、うまく誘導して行ければと思っています。そのやり方が正しいのか十分なのかはわかりませんが、一応、今の自分にとってのベストなやり方です。また、第4話でもご説明した通り、祈りも、霊的な生活には必須と考えています。自分が霊的な存在である事の確認作業にもなりますし、課題のある相手にも祈りの中で相手の改善と気付きを願うことは大事だと思っています。私は尊崇する宗教家が提供してくださっている祈りの言葉を幾つか毎朝毎晩唱えさせて頂いており、守られているな、祈りがシールドになっているな、と感じる事が実際、多々ございまして、大変感謝している次第でございます。お勧めです。
では、また、きっと後日進展もあるでしょうから、その際御報告いたします。
では。
湖畔人
(2017.11.25改訂)