第135話. 母の事

2018-07-15 16:35:46 | よもやま話,雑感,最近思う事
湖畔人です。

先のお話でもお伝えしたように、先日母が他界しました。
永遠の生命や霊界を信じる自分ではございますが、いざ、母を失ってみると、やはり、それは、例えようも無い寂しい気持ちの中にいる事も事実ではあります。
これまで、年に二回は子供を連れて実家に行っては、顔を見せ、近況を報告したり、一緒に食事をしたりと、それが毎年のルーチンとなっていた自分としては、もうそうした事も出来なくなるのだなと思うと、本当に寂しい気持ちになるものです。
『大丈夫?』が口癖だった母親は、心配をすることが母親の仕事だと思っていたのか、口を開けば『大丈夫?仕事は大丈夫か?』と聞いてくるのがお決まりのセリフだったのですが、それに対し、私としては『大丈夫、大丈夫。大丈夫に決まっているでしょ。』と答えるのがお決まりの返し文句だったのですが、そこから、仕事の近況や様々な事柄に対して色々と報告、説明をして来たものなのです。毎回多少面倒がっていたそのやり取りも、今思うと、このやりとりこそが、自分が仕事の辛さに挫けそうになった時に、何とか諦めずに踏み止まらせるための、ある意味防波堤のような役割を果たしてくれていたんだな、と、今はそう思えるのです。“もし今自分がここで挫けてしまっては、帰省の際、親を失望させ、悲しませる事になってしまう、だから、ここは何とか踏ん張って、また親を安心させてやらねば。”と、そう考える事で、何とか苦境を乗り越えて来れたんだな、と、今はそう思えるのです。何気に母親のこの『大丈夫?』は知らず知らずに子を守ってくれていたようです。特に自分が若かった頃は、その効力が強くあったように思います。それが、段々と、自分の子供達、自分の家族を守る事が、第一の動機、辛さに耐える為の、第一動機に代わって行きましたが、若い頃は、親への思いが子を強くしていたな、と思うのです。また、この親への報告作業は、実はいい塩梅の自己確認の場にもなっていたなとも今は思っています。“どこそこの誰君は今どうしている”、とか、そうした地元にいないと分かり得ないような話を母親から聞かされる事で、『そうか、自分は会社で中間管理職で神経をすり減らしている情けない存在ではあるが、世間的に見ればどうもボチボチのようだ』、とか、知らぬ間に自分の世間の中での立ち位置を再確認する場にもなっていたと思います。そして、そうした話を一通りした後には、夕方になれば、決まってウチの長男が大好きな近所のすし屋に行っては皆でわいわい食事をしたものです。でも、もうそうした楽しい時間を過ごす事も、もう無いのだな、もう二度と味わえないのだなと思うと、それは、それは、大変寂しい気持ちになるものです。
出来ればもっともっと出世でもして、自慢の息子と思ってもらいたかったし、できればもっと裕福になって楽をさせてあげたかったなとも思うし、できればもっともっと感謝の言葉を口にしておけばよかったな、と、そんな様々な後悔の思いが次から次へと湧いて来るのですが、でもその一方で、今の自分の甲斐性では、まあ、こんなものかな、とも思ったりもしています。
突然倒れあっという間にこの世を去って行った母ですが、平均寿命からするとまだまだ長生き出来たような気もします。でも、そうは言っても、人の生き死には我々のコントロール外、神様マターですので、どうしようもありません。
元々、お茶目でおしゃれ好きな母親ではございましたが、晩年は腰も曲がり、大しておしゃれも出来ずに、生きる事が少しシンドそうに見えていた母でした。ですから、どうか、あちらの世界においては、好きなだけオシャレを楽しんでもらって、どうか都会暮らしでも満喫してもらいたいなと思っています。田舎の閉ざされた世界はどうにも窮屈そうに見えましたし、都会の方が性に合っていたような気もします。とにかく、あちらでは好きなように伸び伸びと過ごして頂きたい所です。
葬儀の日はとても晴れていて、雲雀も囀る天国のような爽やかな日和でした。
願わくば、その穏やかな天気のように、明るく穏やかな世界に戻っていただきたいな、そして天国を満喫して頂きたいな、と、そう心から強く願がっている次第です。近所のお坊さんのお経だけでは何とも頼りなかったので、尊崇する宗教家が率いる団体の供養も遠隔でお願いをしてみました。何故か供養と言う名目ではなく、結界云々という名称で少し驚きはしましたが、何とか、良い世界に導いて貰えればありがたいなと思っております。
次に母に会えるのは、後何十年後でしょうか?あちらに帰り、あちらで最初に会う時には、まずは最初にしっかりお礼を述べねばならないなと思っています。まずは、生んでくれてありがとう、そして自慢の母親でいてくれてありがとう、そして育ててくれてありがとう、と、そうお礼を述べたいと思っています。
でも、今は、もうこの世においては、母と会って話すことも、一緒に食事をすることも、もう、そうした事は出来ないのだなと思うと、それは、それは、ただただ寂しくて、本当に、寂しいだけなのです。

湖畔人

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