餃子の街・宇都宮  ある菓子店のひとり言・・・

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守屋 浩さん、亡くなりました・・・

2020年09月23日 21時32分17秒 | 故人

(ネット上からお借りしました)


元歌手の守屋 浩さんが亡くなりました。81歳でした。
♪主なヒット曲♬
 ♫・僕はないちっち
 ♫・長いおさげ髪
 ♫・星空に両手を (島倉千代子とデュエット)
 ♫・大学かぞえうた
 ♫・有難や節
 ♫・月のエレジー

あの頃は、とても特徴的な声が印象に残っていますね。
だから物真似をする人が多かったと記憶しています。

女優、歌手の本間千代子さんが元夫人だったとは、きょうまで知りませんでした。

水原弘、井上ひろしと並んで「3人ひろし」と呼ばれました。

その後、ホリプロ重役になり「ホリプロタレントスカウトキャラバン」の立ち上げに関わり、
第1回の榊原郁恵と荒木由美子らを発掘した。

2020年9月19日、前立腺がんのため、静岡県内の施設で死去されたという事です。

      
      ・・・・・・・・ ご冥福をお祈りいたします ・・・・・・・・

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母の死から1年過ぎて・・・

2019年09月26日 01時07分24秒 | 故人
昨年の9月21日AM9:15に母親が97歳で亡くなって、一年が過ぎた・・・。
ホントにやさしい母親だった・・・。

他人の葬儀でも涙が出る時があるので、母の時には涙が止まらないのでは?
なんて心配したが、どういうわけか不思議と涙は出なかった。
喪主としての責任からか、参列者にあいさつしたり、普段出席する仏式ではなく
我が家は神葬祭なので、その所作も最初にやるのでそんな緊張感も影響したのか・・・。


あと2年5か月で100歳だったが、そこまでは大変な道が待っていたと思う。

父親が亡くなってからの27年間を一人で暮らし、畑仕事を生き甲斐にし、
怒った事は見た事も無く、欲もなく、自分の事など全く考えずに・・・、
チョット大げさに言えば、宮澤賢治の〔雨ニモマケズ〕と同じ様な人生観をもった人だった。

まだ母が生存中 愚妻に、
「オレが死んだらこの家はどうなんだんべ?」と訊かれた事があったそうだ。
多分に母を安心させるような事を云ったと思うが、なるべく週に一度くらいは家の中の空気を
入れ替えたりして、天国から心配している母を安心させたいとは思っている。

幸いにも姉夫婦が、耕作種類が少くなったとはいえ畑に作物を作っているので、時々
窓を開け放ってくれている。

(今までは)実家に帰るということは、母に会う事でもあった・・・。
これからは、当然の事ながら母のいない故郷に帰ることになる・・・・・・・。
かの船村徹大先生も、同じような気持ちだったのだろうか?

 ♬ 母のいない故郷 作詞:新本 創子、作曲:船村徹

1、母のいない故郷は風の村
  無人駅に降りりゃ 子供にかえれない淋しさ
  母さんのせいだよ ただ時の流れにたたずむばかり

2、母のいない故郷は雪の村
  暗い夜道走って くぐり戸をうしろ手に閉めれば
  懐かしい囲炉裏ばた ただほだ火とろとろくすぶるばかり

3、母のいない故郷は春の村
  かごに草を摘んで手ぬぐいかぶってく村人
  母さんに似てたよ ただ後ろ姿を見送るばかり

母のいない故郷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鳥羽一郎さん





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11/2は、「白秋忌」

2018年11月02日 22時27分15秒 | 故人
11/2は、詩人でもあり、童謡作家でもあり、歌人でもあった北原白秋の命日であります。

★白秋は、1885年1月25日 熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ
      1942年11月2日 東京府東京市杉並区阿佐ヶ谷 で57歳で亡くなりました。
     (私は1949年生まれだが、7年前にはまだ東京府東京市だったの・・・?)

★白秋の作詞した主な童謡・唱歌
 ・雨 降 り
 ・ゆりかごのうた
 ・砂 山
 ・からたちの花
 ・こ の 道
 ・ペ チ カ 
 ・あわて床屋
 ・待ちぼうけ
 ・城ヶ島の雨


★また、作曲家・山田耕筰とのコンビによる各地の校歌も作詞されていますネ。
「清商(きよしょう)」の呼び名で有名な高校サッカーの
清水市立商業高等学校(現:静岡市立清水桜が丘高等学校)の校歌もそうである。

★新民謡でもある静岡県の「ちゃっきり節」も白秋の作詞である。
 (以前には、拙ブログにも書いた様に思います)

※以前にも、白秋忌の記事を書いた事、覚えておりますが
 読者の方が忘れた頃に、またまたリメーク版としての再登場です。(汗;)

★以下3枚の写真は、いずれも奥日光の落葉松の画像で上2枚が裏男体林道にて
 3枚目は、山王林道で撮りました。(2010年10月27日)








★白秋と云えば、以下の「落葉松」が好きな私ですので記させて戴きます。

   落 葉 松

    一
  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

    二
  からまつの林をい出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

    三
  からまつの林の奥も、
  わが通る道はありけり。
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

    四
  からまつの林の道は、
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。
  からまつとささやきにけり。

    六
  からまつの林を出でて、
  浅間嶺にけぶり立つ見つ。
  浅間嶺にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうえに。

    七
  からまつの林の雨は、
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

    八
  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。





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訃報・「素敵なやつ」・・・・叶修二さん

2018年08月02日 22時24分21秒 | 故人
青春歌謡 「素敵なやつ」で大ヒットした叶修二さんが、4年前に亡くなっていた。

素敵なやつ・・・・・・・・・・・・・・・・・・叶修二さん

約4年半前の2014年2月21日、腹部大動脈瘤(りゅう)による出血性ショックのため、
新潟市内の病院で亡くなっていたことが2日までに分かった。66歳でした。

・叶修二さん
 戦後の大ヒットメーカー、遠藤実先生に師事するも先生がコロムビアレコード。
 叶さんは、ポリドールから「素敵なやつ」でデビューしたが、
 遠藤実さんが継正信というペンネームで作曲した。
 (他にも、星幸男、米田信一、ベン・ミラーなどの名前がある)

 他の楽曲では、「イカスやつ」という歌をテレビで見たことがある。
 明らかに2匹目の・・・・を狙った事がバレバレの曲名だった。

 1948年1月1日生まれとの事ですので、私らよりも2つ先輩になります。
 その死は長く伏せられており、2018年8月2日になって事務所より公表された。
 

   +----+----+ 心からご冥福をお祈り申し上げます +----+----+


    ★☆ ほぼ同じ頃に活躍された青春歌謡の二人 ☆★

◆ 胸に飾ろうしあわせを・・・・・・・・・・・・・・・・川路英夫さん

◆ 君にしびれて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・望月浩さん

 
  ・ 叶修二・川路英夫・望月浩の3人を、若手三羽烏と呼ぶ人もいました。

  ・川路英夫・・・・・・・1986年に亡くなられたそうです

  ・叶 修二・・・・・・・・・2014年2月に亡くなりました

  ・望月 浩・・・・・・・・・ご健在の様です




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父の形見が・・・

2018年01月24日 22時09分33秒 | 故人
昨日、栃木の郷土料理「しもつかれ」を作ったから食べて!と、姉夫婦が来てくれた。
若い時には、美味しいとも思えなかったが、この頃はその奥深い味も多少分かる様な気がする。

そんな「しもつかれ」と一緒に持ってきてくれたのが、27年前に他界した父のマフラーだった。





父親に形見があったなんて初めて聞いた・・・・・。

私が想像するところ・・・・
母親と姉たちが、父の遺品整理をしているときに、要らない様なものは焼却処分にした様だが
形見として残ったものは、ほとんど無いのでは?と思われる。

親世代が使ったもので、現代の世の中でも色褪せない様な・・、遜色が無いモノって、
なかなかないですよね。
子供世代が使うと、ダサいモノになりがちです。

そんな数少ない遺品の中で、辛うじて生き残ったのがこのマフラー。
このマフラー、首に巻くと父親の小言が耳に聞こえて来そうな気がします。

    ゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+.――゜+ 

◆話変わって、平成になってからの最強寒波が来ているらしい。
今朝も、さいたま市では、1月の統計史上最低気温の-8.6℃を記録した。

宇都宮でも、明朝は-9度が予想されている。
その結果:-5.1度でした

ちなみに・・・・、宇都宮の過去の最低気温は、
◆ ・第1位: ー14.8 (1902年 1/24)・・・・あの八甲田山の遭難事故の頃でもある



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故・「ひょうたん」様を思い出しました・・・・・

2017年04月29日 23時25分09秒 | 故人
TV欄にこんな番組があったので、彼を思い出しました。




雀宮、石橋、小金井、・・・・昔の宿場町が今のJR駅名になっていますネ。




原則として、午後6時までに到着しなくてはいけなかったが辛うじてのセーフ!!!!!!!!!







この番組は、日本橋~宇都宮間ですが、彼らひょうたん様達の場合はさらに
日光まででしたから,40km位が長かったでしょうね。
宇都宮では、ろまんちっく村に宿泊されたそうです。

ひょうたん様ご一行は、5~6名で旧街道を歩かれていました・・・。
日光街道だけではなく、中山道や東海道も踏破した兵たちです。

お逢いしたのはたった一度、常陸太田市で開催された「BS日本のうた」の時でした。
前日から並んだ彼は、勇躍名古屋からの参加でしたが先頭に並んでいました。
亜矢姫倶楽部でも、共通の「清水」の地名で懐かしい話に花が咲いたり・・、
この拙ブログにもコメントを度々戴きまして、初めて会う時にはもう昔からの知り合いの様でした。

改めまして、ご冥福を祈っております。



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11/13は、サトウハチロ―忌

2014年11月14日 21時44分18秒 | 故人
一日遅れになりましたが、昨日11/13はサトウハチロ―忌でした。
(1903年(明治36年) - 1973年(昭和48年)11月13日
         
             
           

皆さまご存知の様に、詩人、童謡作詞家、作家でございます。
(◆作家の佐藤愛子さんは、異母妹にあたる)

■主に作詞した作品
・ちいさい秋みつけた
・お山の杉の子
・うれしいひなまつり
・めんこい仔馬  ・・・・などの童謡から

藤山一郎さんの歌で有名な長崎の鐘も作詞をされています。
(第1回 紅白歌合戦で白組トリで歌唱)

■他に作詞された歌は・・・、
・リンゴの唄 (日本の戦後のヒット曲第1号)
・二人は若い
・あゝそれなのに
・うちの女房にゃ髭がある
・目ン無い千鳥

・悲しくてやりきれない
・ありがとう(テレビドラマ「ありがとう」主題歌)…等々


そして最後に、「もずが枯れ木で」も彼の作詞です・・・・。
小学3年時に、M先生に教わり、何とも物悲しい唄ではありましたが
今でもよく覚えております。

    もずが枯れ木で

   【作詞】サトウ ハチロー
   【作曲】徳富 繁

   もずが枯木で鳴いている
  おいらは藁を たたいてる
   綿びき車は おばあさん
  コットン水車も 廻ってる

  みんな去年と 同じだよ
  けれども足んねえ ものがある
   兄さの薪割る 音がねえ
  バッサリ薪割る 音がねえ

  兄さは満州に いっただよ 
  鉄砲が涙で 光っただ
  もずよ寒いと鳴くがよい
  兄さはもっと 寒いだろ

◆ もずが枯れ木で・・・・・・・・・・・・・シュリークス





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甥の事故死から8年・・

2013年04月16日 00時17分31秒 | 故人
8年前の4月15日夕方、姉から電話があり、甥がS病院に救急車で運ばれたとか・・・。
病院に到着しても、いわゆる家族では無い為に彼のお嫁さんの到着と同時に説明を聞く。


足の方も骨折をしているが、それよりも切羽詰まった個所がありそのままだという。
かなりの輸血をしてくれて、最善の処置をされたようでしたが目を覚ます事無く
帰らぬ人となりました。

気候も暖かくなって、オートバイで通勤していました。(雨天時は車)
春の交通安全運動も最終日のきょう、交番の警官が交差点にいるその目の前で
事故が起きてしまった~。

◆交差点内の信号が青から黄色に変わって、甥のオートバイが直進で交差点に・・。
一方の車が、右折するべく車両の通過を待ってから右折した・・・。
そこで事故となってしまった。

通常は、直進を有利と思うかもしれないが、通過を待っていた車の位置が重要となる。
交差点内では、甥が不利となる。(無理に突っ込んだ様な状況に)
当初は、このような状況で裁判が進展して不利な体勢に・・・。

ところが、裁判が進んで、運転手の待っていた交差点内の位置関係が交差点内でなく
横断歩道の手前という事になって、逆転で甥側が有利な判決となった様だ。

そのときの小学生だった5年生と2年生が、
今春 大学生と高校生になってそれぞれの学校で頑張っている事と思います。
そんな姿を、子煩悩な甥っ子は草葉の陰で喜んで応援している様な気がします。

その時 斎場で見た「名残りの桜」を、
記録的な早さだった今年の「最後の桜」が思い出させてくれる・・・・。




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岡本敦郎さん、死去

2013年01月09日 23時14分00秒 | 故人
       
           

昨日の新聞に、報じられていましたネ。  
暮れの12/28に、亡くなった様です。
満88歳になられたばかりでした。

朝はどこから」でデビュー。
素直な歌い方と、伸びのある美声、明るい曲調でたちまちヒットする。

代表的なヒット曲には、「白い花の咲く頃」「高原列車は行く」「あこがれの郵便馬車」「小諸なる古城のほとり」そして私は、「リラの花咲く頃」が好きでした。

明るい歌唱により、多くのラジオ歌謡を吹き込み、「ミスターラジオ歌謡」とも言われた。

     ━━━━━━━━━━ ご冥福をお祈り致します ━━━━━━━━━━

白い花の咲く頃(静止画)・・・・・・・・岡本敦郎さん

高原列車は行く(本人歌唱ですが最後の最後にチョッピリ残念!)・・・・・・・・岡本敦郎さん

あこがれの郵便馬車(静止画)・・・・・・・・岡本敦郎さん

小諸なる古城のほとり・・・・・・・・・・・鮫島有美子さん

リラの花咲く頃・・・・・・・・・・・岡本敦郎さん










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雨にも負けず、風にも負けず・・・・今日は賢治忌

2011年09月21日 21時49分55秒 | 故人
台風は、午後2時頃には浜松市付近に上陸し、その後山梨県、埼玉県、栃木県、福島県を通って、
現在は、福島県沖の太平洋に出た模様です。
まだ暴風域を伴っており、特に海岸沿いはご注意下さい。

さて宮沢賢治ですが、1933年に37歳という若さで、急性肺炎の為に亡くなりました。
タイトルの「雨にも負けず」の他にも、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」
「セロ弾きのゴーシュ」等々の著書がある。

下記の『雨ニモマケズ』は、原文は大部分がカタカナが多い漢字混じりの文です。
読み易い様に、漢字と平仮名で表されたものをご紹介致します。


「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい




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♪「女学生」の安達明さんは亡くなっていたー!!

2011年09月16日 23時02分42秒 | 故人
♪~♪薄紫の藤棚の~ 下で  ♪~  で始まるヒット曲「女学生」・・・・。
  
私が、15歳の時の歌です。い、いまですか・・・60はとうに過ぎました・・・。(汗)                       昭和39年(東京五輪の年)は、キラ 星のごとくヒット曲が多かったですねー。        

「潮風を待つ少女」でデビューし、
次作の「女学生」が大ヒットしました「安達明」さんが今年の5/20に亡くなっていました。

(たまたま偶然に見つけました)彼の息子さんが、記したものがこちらにあります。

一部を抜粋しますと・・・・

『この度、安達明が、平成23年5月20日に永眠しました
(行年 63歳)と、云うのも正真正銘、私の父親でした。』

女学生・・・・・・・・・安達明さん

潮風を待つ少女・・・・・・・安達明さん

彼のお悔みにもなると思いますから、お時間と興味のある方は聴いてみて下さい。

     ━━━━━  ご冥福をお祈りいたします  ━━━━━━


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今日は「千代女忌」です・・・

2011年09月08日 22時25分03秒 | 故人
  ・朝顔に  つるべ取られて もらい水

の句で有名な加賀千代女が、 1775年73歳で永眠致しました。

千代女は、加賀の国松任(現在の白山市)に生まれ、幼少時から俳句をたしなむ。
18歳で嫁ぐが、僅か2年後には死別する。

30歳で、画を学び、52歳には剃髪し、素園と号した。
72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。
73歳で没す。

生涯で、1,700余の句を残したといわれている。

私みたいな全くの門外漢でも知っている句は、二つある。 

・朝顔に  つるべ取られて もらい水

・蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら

二作目は、隣近所で子供が遊んでいる風情を詠んだ句ではない。
千代女には一人の子どもがいた。しかし、その子が幼いままに亡くなった。
のどかな夕暮れ、赤とんぼが群れ飛んでいる中でも、
思い出すのは小さいまま亡くなったわが子の事・・・。
千代女の頬には涙があふれ、子どもの名前をつぶやき続けていたかもしれない。



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6年前の今日、甥が天国に・・・

2011年04月15日 22時37分22秒 | 故人
6年前の4月15日、夕方5時半頃、会社帰りの甥(当時36歳)は、交通事故で翌朝3時半ごろ亡くなりました。

7回忌となる今日、その時間に合わせ、直ぐに集まれそうな私と妹と両親であります姉夫婦の4人の極く 内輪で墓参りに行って来ました。

1か月前の大地震で、結構な数の墓石が倒れたままになっていました。(矢板市の長峰墓地)
矢板市は、確か震度5強だったような・・・。 まだ、水道が断水中のところも・・・。

         他家の墓を勝手に写しましたので拡大無しです。(汗)
          

1か月前には、かなりの墓が倒れていたそうです。
現在は元に戻しても、傷が付いたまま起こしてありますね。

石屋さんも、これではかなり先まで仕事が集中して、やりがいがありそうです。
石屋さんに依っても丁寧さが違いますから、倒れた墓石には片寄りが出るのでしょうね。

幸いにも、姉宅では何ともなく済みました。
当時、小学5年、2年でしたその子供たちは、今や高校生、中学生と大きくなりました。
お父さんの分まで、しっかり生きて欲しいと思います。


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寒中お見舞い・・・として

2011年01月14日 21時50分31秒 | 故人
この仕事に入ったのは、静岡県旧清水市(現静岡市清水区)に第一歩を記した時からだった。
今年の3月が来ると、43年になる。

その修行をした店 Nも、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いと言ったら言い過ぎだろうか。
静岡県では、1,2を争う程であった。
学校の体育館よりもはるかに大きい新工場に移転したのも、その頃であった。

その後5年余で、Nの先輩でもあり、この店の子息でもある方に誘われるまま宇都宮に移店。
ここも盛業中であった。
 ――― しかし現在、この店は無い。

遡って、あんなに隆盛を誇った Nも、現在は信じられないほどの凋落ぶり。
創業者夫妻は、すでに亡くても、私の原点はここから始まったとして
お世話になりましたの意を込めて、毎年年賀状を出させて戴いていた。

いつも当時の専務から、丁寧な返信が届いていた。

今年は、「そういえば無いな」と言う位に思っていたが、
先日その当時「おねえさん」と呼んでいた奥様から、
「寒中お見舞い・・・」として、黒い縁取りこそ無かったが、彼の死亡を知らせるはがきが届いた。
私より9歳上の70歳だったとのこと。
「いまも、涙を流しながら書いています」とあった。

空手をやっていて、体格も頑丈そのものといった感じがしていた。
清水区出身のお客様から、数年前に彼らしい写真を送って戴いたが、
まさかこんなに早く逝くとは思いもしなかった。
暫くお逢い出来なかっただけに、いつの日か逢えるものと思っていたのに、残念・・・・・。

専務が私のクラスに求人に来なかったら、私はどんな人生を送ってきたのだろうか?
巡りあわせの不思議さに、感謝している・・・・・。



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憂国忌

2010年11月25日 22時42分00秒 | 故人
憂国忌・・・・ご存知のように作家・三島由紀夫さんが割腹自殺をした日です。

1970年11月25日、彼は会長を務める「盾の会」のメンバー数人と、
自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本庁)に日本刀を持って侵入し、自衛隊員の前で演説し、蜂起を促したが
相手にされず、騒ぎを起こした責任を取り命を絶った。

彼の小説は、「潮騒」・・・吉永小百合&浜田光夫、山口百恵&三浦友和など5回映画化された。
        「金閣寺」・・・雷様こと市川雷蔵、その後篠田三郎主演で2度の映画化。

他には、『仮面の告白』、『鏡子の家』 『サド侯爵夫人』 『豊饒の海』などがある。

私は、三島由紀夫=静岡県の寸又峡となる。
ちょうどその日、水曜日だったと思いますが、寸又峡に紅葉を観に行った。
その辺を散策して、バスに戻るとラヂオから普段より大きいボリュームでこのニュースを報じていた。
その頃22,3歳の若造でも、「三島由紀夫」の名前は知っていた。
大変なことが起こった位は分かった。

後で割腹自殺をしたと聞き、45歳で生涯を終える事が彼の才能からして惜しい気がした、 
・・・・・そのことを今でも覚えています。



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