人間て怖いと植え付けられると本当に怖くなる
大丈夫!といっても怖いことを信じる
怖さを信じ怖さの中にいると「未来は明るいよ」という言葉に飛びつく
どう明るくなるのか、その推移を知ろうともせず
どちらも真実
昭和10年代は夏になると「肝試し」という遊びがあった
大人たちがお寺のお墓近くにテントを張って、その中に模型の骸骨をつるしたり、光うぃろんな角度から照らし出したり、白い着物を着た人がひょろひょろと歩きまわったりする。
「ここがお化けが出る、怖い所だ」
とおもって子供たちが入っていくので、テントに入った瞬間から、もう怖さが充満、怖さを期待しているから、葉音だけでも「キャー」その「キャー」に刺激されて、進む足も震える。なんだか冷たい手が頬を撫ぜる、呼吸が止まるほど怖いよ怖いよ、喉もかれるばかりに声張り上げて目をつむって、外に出る
そこに待っていうものは、お饅頭だったりラムネやじゅーす、広場では花火も始まり、自然に輪を作って踊ったりしている
大人も子供も一緒になって、怖さから歓喜に代わる瞬間をみんなで味わう夏の宵。そこで、怖いあとには歓びがあるというのを会得する
だから怖いよ怖いよが始まると、その向こうにとてつもない喜びがあるのだろうと思う
しかし最近の「怖いよ」にはどうも未来の明るさがセットになっていないようだ。怖い怖いとそのまま怖さの底に入っていくように仕向けられている
怖さに対して鈍感になると、喜び方が分からなくなるものらしい
人はこの世には「喜びを体験」するためにやってきている
その喜びの内容は人それぞれ、しかし「怖さ」はし掛けられているから、一方的、そして自ら外すことが出来る、あの肝試しのように
ぼつぼつ怖さ満載のテントから出よう