秋櫻舎を設立したころ京都西陣の帯メーカ「渡文」さんに大変なことを依頼された
「全国の呉服屋さんを回ってうちの帯を見せてきて来てほしい、売らんでもええ」
そのころ「渡文」さんだけが撮影時に帯を締めてもいいといってくれて、雑誌や広告、テレビ撮影に気前良く帯を貸してくれていた
そう
青山にある広告会社の仕事をしていて、塩沢紬のポスターを作るということでスタイリストを頼まれていた
その塩沢に合う帯が見つからず(買い取ればという時代)姉や母の帯を使うという頭が働かず、すべて新しいものを見せるのがポスターであるという思いが強かったので、帯を撮影に貸してくれるところを探していた
帯を見せない写真を撮ったらいいと思いつき、カメラマンやデザイナーとの打ち合わせに青山にいくと、其処にまーーるい顔のお兄ちゃんがニコニコ顔で座っていて人懐っこく「やあこんにちは」と関西アクセントで声をかけてくれた
だれ?
京都の帯メーカーの専務さんだと紹介され、一気に帯の問題が解決されたけど、肩から着物を滑らした写真を撮りましょうという私の提案も捨てがたく、両方作ることになった。ポスターは塩沢の組合も肩から着物を滑らした写真の方を選んで、この時代ちょっとした話題になった
さてその専務は雑誌撮影に帯を貸すということで、名前が全国に知れ渡ったけど、小売り屋にもっと名前と商品を知ってほしいということで考え付いたのが、私の全国行脚
その時丁度チャ子ちゃん先生の第一冊目の「若い人のための着物の本」主婦と生活社 1974年 の制作をしていた時で、その本にも帯を協力、そしてその本を1000冊購入するという申し出があり、出版社も大喜び、私は自分の本をもって飛び込み宣伝をして歩いた
車の免許を取ったばかりの友人が助手兼運転手をすることになり、日本全国を一年かけて歩き、すべてはその街に行ってここぞと思うところに入っていく方法を取ったので、本当の飛込だ
「渡文」さんはメーカーなので、取引のある問屋を通すというルールを守り、問屋名を印刷した用紙も私の本と共に渡していた
玄関払いもあり、お茶やお菓子を出してくれる店もあり、話だけは聞いておくわという店など、様々な扱いにあって、その都度へこんだり喜んだりしながら、その土地の産物や土地にしかない文化などに触れることが出来た
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