チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

夏の黒留め袖

2015年07月07日 11時09分06秒 | 日記
一時黒留め袖に持っていたことがある
婚礼衣装として結婚するときに作った黒留め袖
この頃から非常にナマイキで
自分で白と金だけを使うと決め
白い菊の花の花芯だけに金の糸で刺繍をしていただいた
生地は縮緬
其れに合わせる帯はやはり白菊を織り出した唐織り
この留め袖は未だに着用している

そして自分で作ったものは
春留め袖これも春の花を全て白で表現
ところどころに金をあしらった
裾はグレイのぼかしにして「春は曙」という風情にした

単衣は王朝の唐衣
組紐の織りにしたのでなかなか凝っている
色んな色糸を使って作り上げた
ココでやっと色が入るけど細い色糸なので華やかさには欠ける
でも帯を金のモールにすると結構華やぐ

夏は秋草をこれもまた白と金で表現した
家紋の代わりに桔梗紋をつけたので
訪問着としても着る事が出来る

留め袖も仲人、花嫁、花婿の母親でない限り
少し砕けたき方をしても礼に反することはない
チャコちゃん先生はそう思っている

こちらも
「結婚式にしか着られない」ではなく
チョット落ち込んだときなどチャコちゃん先生留め袖を着て
普段気後れする超高級ホテルに出かける
ラウンジでゆっくりお茶をする
大切に扱われる自分自身に元気をもらって帰って行く

そういうときに黒留め袖は人を守ってくれる

写真がでないので、色留め袖の写真です
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黒紋付きの会

2015年07月06日 19時00分39秒 | 日記
小牧市にすむ「田中佐織」さんが
チャコちゃん先生の「24節気ときもの」の本を読んで下さって
そのとき書いていた「黒紋付きをもっと気楽に着よう」
という文章にさんどうして下さって
「黒紋付きを着る会」を開いて下さっている

当初は
「喪服をなぜ普通に着るの、縁起でもない」
と言う声が多かったけど
40代を中心にした女性達の間で徐々に認知され

昨日「熱田神宮」に集まり
チャコちゃん先生を呼んで講演を開いて下さった
お仲間に雅楽を演奏する方もいらして
黒紋付きで演奏をしていただき
また違った厳かな音を聞いた

熱田神宮の境内には外国のお客様が大勢いらして
大撮影会
日本の方々は「なに?」と言う感じで遠巻き
しかし黒紋付きが喪服としてしか着られないということは最近のこと

チャコちゃん先生記者の現役の頃
彼方此方の田舎で黒紋付きに華やかな帯を締めたご婦人達が
結婚式に着用をしていた姿を現実に多く見ている

更に女子大の卒業式では黒紋付きに袴を着けることが常識でもあった
本来の着方に戻したら良いのだ
と言うお話しをさせていただいた

皆さんの黒紋付き姿は圧巻
其の写真をFBに載せたら賛成者の数がとても多く
田中佐織さんのご苦労が稔りつつある
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蚕は生まれたときの一万倍に成長

2015年07月04日 10時38分03秒 | 日記
とにかく驚くしかない
もし人間が生まれたときの1万倍になったら
まさしくガリバーの世界だ
山より高くなる

食べるもの着るものたいそうなこと

同じ年齢でも倍の背丈が違う人もいるけど
それでも人間はまあ既製品としておさまっている

何のために1万倍にもなるのかしら
とワシワシ桑の葉を食べる蚕に聞いてみる

「糸を吐くため」といった
その糸は人間によって利用されていると
それがわかっていてワシワシ食べているらしい

ところで
人間は自分が何をするために生きているのかわからないという人が多い
チャコちゃん先生だって偉そうなことは言えない
使命や目的がわからずのほほんと生きてきたと思う

ある程度「死」が近づいたとき
あわてて自分は何をしにこの世に生を受けたのかと追及をし始める

「世のため人のため」
というけどそれが見つからない

最近思うが
たいそうなことを考えず
本当に自分自身を大切にすることが
世のため人のためになるということが分かった

自分を大事にすれば
同じように他人にも接っしられる

蚕がひたすら糸を吐く姿を見ているだけで人の心は癒される
自分の使命をただ実行しているだけなのだがーー
そこなんだよ

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瀧廉太郎

2015年07月03日 15時13分30秒 | 日記
チャコちゃん先生は大分市鍛冶屋町で生まれた
光西寺のすぐそばで庭伝いに石垣を上ると
光西寺の広い庭に出た
近所の悪がきと鐘衝堂に上って鐘を突き
そこから飛び降りたり
またお墓の中でかくれんぼうをしたり
遊び狂っていた幼児期

病弱だったので皆が走り回るのを佇んで見ている事が多かった
でもそれだけでも楽しかった
やんちゃなお兄ちゃんたちが優しかったからだ

寝てばかりいる枕もとで
姉や兄がよく歌を歌っていた
「たきれんたろう」の歌だといっていた
瀧廉太郎が作曲した「荒城の月」は豊後竹田の「岡城」というお城の跡の景色を作曲したのだと聞かされた
兄が声張り上げてボーイソプラノを響かせていた

父はその頃竹田に事務所を構えていて
体の調子がいいときはよく連れて行ってくれた
楽しみは「三笠山」というお菓子
行けない時は必ずお土産をねだった
のちに「荒城の月」という菓子も好きになった
歌より菓子だった

この地でできる小さな豊後梅も母がよく漬けていた
高校生になったらその小梅の買い出しを命じられ
一人で持つのは嫌なので同級生を「三笠山」で誘って岡城で「荒城の月」を歌ったりした

改めて滝廉太郎のことを調べたら
そのあまりの短命さに絶句。23歳10か月
いまチャコちゃん先生が四苦八苦しながら練習している「秋の月」は
なんと21歳の時の作品

こうも違うかーー

今日のナイト・コスモスは三笠山と荒城の月が出ますよ
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