くに楽

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バッチャン焼きの村

2011-02-12 15:31:16 | 





バッチャンが、最初にベトナムの歴史に顔を出したのは1352年。バッチャン村の脇を流れる紅河でおきた氾濫で、周辺の村一帯での農作物等の被害報告の中に、‘Bat Commune’として、バッチャン村は登場している。(by "Dai Viet su ky toan thu")
15世紀に入ると、バッチャンは“Bat Trang”の名で、陶器の村として記録にのこっている。バッチャンは、中国・明朝への貢ぎ物のお碗を作る村として、同じく明への献上物・黒布を作っていた Hue Can 村とともにその名を残している。<Nguyen Trai “Du dia chi(1435)”>

バッチャンが繁栄したのは李朝(1428~1527)、マック朝(1527~1592)の時代。マック朝下で実施された、商業抑制政策の廃止政策が、ベトナムに商業の活発化をもたらした頃である。
当時のバッチャンは、大衆向けの陶器から、貴族階級の為の高級品まで幅広い商品を供給していた。
既に芸術パトロンが一般化していた当時、王妃などのパトロンの名前と作品を作った陶工の名前が刻まれた陶磁器が数多く確認されている。女性の名が刻まれたものもあり、女性の陶工が既に存在していたこともわかっている。

この時代は海外との海上貿易がさかんになった時代でもある。15~17世紀のバッチャンとハイフォンは、ベトナム貿易陶磁の北部における生産拠点であった。二大商業地であり海外への玄関口でもある Thang Long と Pho Hien 、二つの町の間を流れる紅河沿いに位置していたバッチャンは、地理的な運にも恵まれていたわけだ。

こうして繁栄を極めたバッチャンとベトナム陶磁であったが、17世紀にはいると、その繁栄に陰りが見え始める。1684年に清が台湾を奪回し、渡航禁止条例を撤廃したのをうけて、良質の中国産陶器が海外に大量に流出し始める。完成度の高い中国陶磁器に、ベトナム陶磁器は太刀打ちできない。さらに、そこへ日本の鎖国政策も影響する。もともと日本国内の産物(銀・銅など)を保護する為の政策であったが、やがて、それまで東南アジアからの輸入に頼っていた絹・砂糖・陶磁器などの国内での生産力が高まるかたちとなり、それらの物を輸入する必要性薄れていく。ヨーロッパでは工業革命により、新たな消耗品の需要が高まっていた。にもかかわらず、ちょうどその時期、ベトナム・グエン朝は、貿易の抑制政策をとった。このような歴史の流れが、ベトナム貿易陶磁を衰退へと追い込んでいった。

ベトナム国内で、陶磁窯が1つ、また1つと姿を消していく。しかしながら、バッチャンは、歴史の流れの影響を少なからずうけつつも、大きな国内需要に支えられて存続する。そして、ベトナム陶磁生産拠点として現代まで君臨しているのだ。

(バッチャン焼き村の歴史より)








独立と自由ほど貴いものはない

2011-02-12 13:22:43 | はらだおさむ氏コーナー
 バック・ホー”、ホーおじさん

 中国の毛主席と同様、あるいは中国人の周総理に対する敬愛の気持ちをあわせたような暖かいまなざしで、ベトナム人民は街角のホーチミンの像や写真にホーおじさんの在りし日の姿を思い浮かべ、ベトナム解放の歴史を思い出しては、ホーおじさんに語りかける。
 <“バック・ホー”、あなたが話したように、独立と自由ほど貴いものはありません。今やわれわれはそれを手に入れた。今後、誰がわれわれの主権を侵し、われわれの自由を奪おうと、われわれは決してそれを許さないだろう>と。

 午前6時に起床して、7時からハロン湾観光の船に乗った私たちは、沖合いにホンゲイ炭積み込みのため停船している一艘の日本船をまぶたにおさめながら大・中・小三千の島が点在し、あるいは織り重なった1500平方キロメートルの湾内を一周する。
 中国の桂林を訪れたことのあるメンバーの一人が「まさにミニ桂林ですなぁ」と感嘆の声を上げるのを待ちかねていたかのように、あちらこちらで望遠カメラのシャッターの音が続く。

 「封建中国の元時代、侵略軍がこの地に攻め入ったところ、湾内にねぐらを定めていた龍がベトナム人民の反撃に呼応して侵略軍に火の玉を降らせ、ついに敵を打ち破った。この三千の島は、そのときの龍の火の玉のあとだという伝説があります」
 エンジンの騒音のなかから通訳の解説が聞こえてくる。
 それは、おそらく日本の元寇の役の<神風>ともいえる伝説の類であろうが、しかし、その言葉は、アメリカ帝国主義を打ち破って国家の統一を成し遂げたベトナム人民の、今の気持ちにも通じる伝説ともいえるのだろう。

 昼前、湾内を一周してホテルに戻った我々と前後して昨夜来同宿していたラオスの貿易代表団の一行も湾内観光を終えて帰ってきた。
 往路、ビエンチャンの田舎然とした空港で危うくアエロフロートに搭乗を阻まれかけたことを思い出しながら、もしあの時、搭乗できなかったらジープで山越えのハノイ行きだったなぁ、とハノイまでの一時間、下の山なみを見続けていたが、1975年の同じころ、ラオスなどがそれぞれの独立を勝ちとり社会主義を目指して独自の道を歩みかけている今日、周辺のアセアン諸国との善隣外交は主義主張の差はあれ、次第に密接度を増してゆくことだろう。

 昼食後、又6時間のバス旅行のあとハノイに戻ったわたしたちは、予定されていたホテルが変更になったため改めて荷物を担ぎ出して別のホテルへ移動せざるをえない羽目となった。このホテル事情が改善されぬ限り商用渡航はよほど商材を煮詰めてからでないと無理だろうなぁとこぼすことしきり。

 翌日、いよいよベトナムとお別れである。
 先のホーチミン行きで行方不明になっていた仲間の手荷物も空港事務所から出てきて<終わりよければすべて良し>と空港ロビーで思い出話やベトナムの感想に花を咲かせていたが、待てど暮らせど週一便の中国民航機が到着しない。
北京の最後の夜の、お別れパーティ用にと残していた日本酒も仲間とともに飲み干してしまったころ一台の大型機が到着した。<スワッ、民航>と立ち上がったが、よく見ると<ベトナム航空>、タラップから降りてきたのは一人の高官と思しき人物のみで、タラップ下まで迎えに来ていた車で姿を消してからさらに待つこと一時間、暮色濃いハノイ空港にやっと待望の中国民航機が到着した。
 南寧空港で夕食の後、北京へ向けて北上しつづける機内で中国人の乗客が手にしている<人民日報>を見るとはなしに目にしていると<ベトナム党・政府代表団の訪中>とある。さては前記の大型機―訪中特別機の帰港であったのかと先ほど来の謎解きは終わったが、北京空港よりはるかに大きかった南寧空港を思い出すにつけ、北爆時代の、中国にとっても「民族の独立」を守る戦いがいかに大変なものであったかと思い知らされた。

 四海海で囲まれ、平和な環境のなかで経済繁栄の虚像のなかにどっぷりつかりこんでいた日本へ帰る日が近づくにつれ、円高で揺れ動く経済大国―日本の行く末や如何、との思いがつのってくる。
 そこにはホーチミンの<ベトナムは一つであり、ベトナム民族は一つである。川があふれ、山が崩れようともこの真理は決して変わらない>との言葉をからだで理解する経験と歴史はなく、この言葉にほとばしり出ている熱情と苦しみを自分のものにしようとする環境もない。


◆こんなコメントが送られたので、ちょうど「ベトナムの旅」に関連したことなのでUPします

 ベトナムで思い出して探したら76年の初訪越のレポートのひとつが、ありました。
 あと数編ありますが、ご興味があればまたお届けします。

◆76年ごろは、ハロン湾の島数は3000島だったのですか?
 今回のガイドさんは2000島だと説明を受けましたが・・・・・1600島と言われる方もいますね
 それと、「海の桂林」と言われていますが、私も10年くらい前に「桂林の漓江下り」をしましたが
 感想は、どちらも素晴らしい
 鍾乳洞があるのも変わらないし、海と河くだりの違いでしょうか?
 エンジン音も現在は全然しなくて、ゆれないし快適なクルージングでしたよ。

◆ハノイはベトナムの北で中国に接しています。
 
 北は中国の桂林から続く石灰岩の台地が長い年月のうちに沈降を繰り返し、海になった所。
 湾内には、南国の強い雨に削られ、奇抜な姿になった大小の島々が1600もあります。
 さまざまな奇岩が海に突き出した風景は桂林に似ており、「海の桂林」とも呼ばれています。
 (NHK世界遺産より)