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「ベトナム社会主義共和国を訪問して(1976・11)」(復刻版)

2011-02-15 00:31:51 | はらだおさむ氏コーナー
はじめに
 中国以外の国を旅したのはこのときがはじめて、団体旅行もはじめての経験であった。
 「あのとき・あのころ」の第一部(32)―<1976(2)♪はるかはなれた、そのまたむこう♪>でこの旅の最終篇は書いているが、ここに復刻する旅行記は帰国後の年末、東京で開催された解団式兼忘年会で団員などに配布したものである。いま読み返してみると、何かゴツゴツした筆遣いで読みづらい文章であるが、“語り部”のひとつとして記録に残しておきたい。

 ベトナムにはその後2回出かけている。
 1994年8月にはホーチミンの投資環境視察を数名で実施、96年夏にはミシン業界の視察団を引率してホーチミン~ハノイに行っている。それぞれの視察レポートは書いているが、いまそれらの復刻予定がないので、前者のはしりをこの復刻版との絡みで以下にご紹介しておこう(「上海経済交流」No.37、94年9月号。<ホーチミンから中国をみる>)。

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「いまなぜかヴェトナムが熱い」

 この暑いさなかヴェトナムですか、と言われて大阪空港をAM10:30飛び立ったキャッセイで香港を経由して週10便はある共同運航のVNCXでホーチミン市郊外のタンソンニャット空港に着いたのは8月9日夕刻の4時30分(時差2時間、正味飛行時間6時間弱)、気温30度、大阪より数度低い。

 南部が「解放」されて1年後の76年11月、「ヴェトナム経済視察団」の一員としてこの地を訪れたときは、東京―バンコク―ラングーン(当時)―ビエンチャン―ハノイまで5日かかったのだから、まさに隔世の感がある。関空の開港で11月から飛び立つ直行便は週4便、5時間とのことであるから、大阪―ホーチミンはずいぶん近くなる。

 あのとき、ホーチミン市と改名されたばかりのサイゴンのチャイナタウン―ショロン街の灯は消え、廟の線香の煙のなかにたたずむ“華僑”たちのうちひしがれた姿が強くまぶたに焼きついているが、ハノイで、開設準備中の日本大使館の書記官に聞いた話では、急激な「社会主義化」で穀倉地帯のメコンデルタでも食糧不足が発生、北では農民の暴動がおこっているとのことであった。なにか南部解放統一戦線を「制圧」した「北」に裏切られた思いがしたものだった。
 アメリカの北爆にいきどおりのこぶしをあげ、ベトコンのテト攻勢に喝采、僧侶の焼身自殺に涙したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)シンパは、ハノイ周辺で見かけるトラックのほとんどが中国製の「解放号」であり、北京までの帰途立ち寄った南寧飛行場では米軍機に立ち向かったであろう無数の戦闘機に、ヴェトナムを後方支援した中国の思い入れを感じて、ニクソンとの中米共同声明以後、すきま風の吹きはじめた中越関係に複雑な思いがした。
 そのとき、北京は「四人組」が逮捕されて一月余、文革の終結に市民は祝い酒に酔いしれていた。

 抗米戦争の英雄、グェン・ザップ将軍が嘆いたように、それから一年を経ない内に「経済戦争」に敗れたヴェトナムから脱出するボートピープルが世界の耳目を集め、そしてカンボジアへの侵略、中越戦争―中国のカラオケでいまも歌われる<血染的風采>は、そのときの中国人兵士の心情を吐露したものであるが、“懲罰制裁”で明らかになったことの一つは、兵站面での弱さ、10年の文革で疲弊した中国経済を象徴する、物流の悪さであった。
 その年、79年末に中国は対外開放政策を採用、その翌年ヴェトナム南部のロンアン省で[ドイモイ]の実験が始まった(以下略)。