ハノイに二日滞在した翌早朝、ホーチミン市へ向けて飛び立ったベトナム航空のジェット機は海岸沿いに南下しながら、軍用ヘリコプターの立ち並ぶタンソンニュット空港に10時前に到着したが、機内で朝食時に出されたベトナムの酒で火照ったからだは30度近い暑さにネをあげて、市内に向かうバスの車窓を開け放って涼をとらざるを得なかった。
1975年4月30日に解放されたサイゴン市は、建国の父 ホーチミン主席を偲んでホーチミン市と改称されているが、解放直前、米軍の撤退とチュ‐政権の戦意喪失により無血で開け渡されたため市内は戦火の傷跡もなく、省都の面影を伝える街並みをホンダカブに乗った若者やアオザイのすそを翻して通り過ぎてゆく女性の姿が目立つ。
友誼ホテルと改称された旧パレスホテル前の街頭マーケットには大勢の市民がたむろして一見活気を呈しているかに見えるが、年間2万人の観光客の受け入れを決めたもののツーリストの落とす外貨はしれたもので、2年前と思われる日本の電化製品が山積みされていても依然失業者が多く、インフレの昂進しているホーチミン市で市民の購買力は弱い。午後、華僑の商業地区で有名なショロン街をバスで視察に出かけたが、90パーセント以上の店がシャッターを下ろし、商業活動の停滞ぶりを物語っていた。
ハノイでは、対ドル交換レートは旅行者用で1ドル/3.78ドンであったがこちらでは2.3ドンで、ドン/ハオ/スウの貨幣単位の呼称は南北統一されているものの紙幣そのものは異なり、闇ドル相場は公定レートの5倍以上であると聞かされたが、この二つのドンが象徴する南北経済圏の統一はインフレの収拾問題もからみあって、ベトナム経済の苦境と政府関係者の苦悩を滲み出させながらかなりの時間を必要とするものと読みとれた。
短期の駆け足旅行でベトナムの経済状況を把握するのはきわめて困難であったが、ジェトロ関係の調査資料によるとベトナムの目下の国際収支は年間6億ドルから10億ドルの幅の赤字が続いているとのことである。このアナ埋めはこれまでは外国の支援(主として社会主義国)に頼っていたが、今後は資本主義国をはじめとする諸国からの借款と外資導入を受け入れながら工業の基礎固めを行って輸出産業の育成を図ることにより、農業と軽工業を基礎とした社会主義の道を歩んでいくことになる模様で、国際収支のバランスを速める最大のポイントは、トンキン湾の海底に埋蔵されている上質の石油の採掘と輸出化がアメリカとの国交正常化とからんでいつの時点で実現されるかであり、マイナス面を少なくする意味では食糧の自給がいつ達成するかにかかっているといえよう。
ハノイ上空から見たベトナムの耕地は、農業合作社による集団農業の結果整然と耕作されており、また南のメコンデルタ地帯の豊富な水資源はそのまま、かって南部が米の輸出国であったことを物語っている。ところが、ベトナム全土の四分の三は森林で占められていて耕地面積は500万ヘクタールしかなく、人口当たりの耕地面積は世界でも最低の規模に位置しており、5千万の人口と平均3%の人口増加率から見て、食糧自給のために耕地面積の倍増と労働人口の移動を含めた農業最優先策をとらざるを得ず、解放直前300万の人口であったサイゴンから既に100万人が新経済区に移動して自給自足の農村建設に励んでいるのもこうした方針の結果である。
しかしながら、<侵略戦争>には打ち勝ったが自然災害を含めた<経済戦争>には泥沼に足を踏み入れた感があり、1976年末の異常寒波、77年春の旱魃・虫害などの自然災害に加えて、特に南部のインフレ増進の結果、収支バランスのとれない農業経営に意欲を喪失した自作農たちの減産が影響して、南北を含めて米の配給量を20パーセント以上減量してもなおかつ77年中に150万トン以上の食糧を緊急輸入せざるを得ず、これがベトナムの外貨事情の悪化に輪をかけて対日貿易の面でもすでにその影響が出はじめている。
1975年4月30日に解放されたサイゴン市は、建国の父 ホーチミン主席を偲んでホーチミン市と改称されているが、解放直前、米軍の撤退とチュ‐政権の戦意喪失により無血で開け渡されたため市内は戦火の傷跡もなく、省都の面影を伝える街並みをホンダカブに乗った若者やアオザイのすそを翻して通り過ぎてゆく女性の姿が目立つ。
友誼ホテルと改称された旧パレスホテル前の街頭マーケットには大勢の市民がたむろして一見活気を呈しているかに見えるが、年間2万人の観光客の受け入れを決めたもののツーリストの落とす外貨はしれたもので、2年前と思われる日本の電化製品が山積みされていても依然失業者が多く、インフレの昂進しているホーチミン市で市民の購買力は弱い。午後、華僑の商業地区で有名なショロン街をバスで視察に出かけたが、90パーセント以上の店がシャッターを下ろし、商業活動の停滞ぶりを物語っていた。
ハノイでは、対ドル交換レートは旅行者用で1ドル/3.78ドンであったがこちらでは2.3ドンで、ドン/ハオ/スウの貨幣単位の呼称は南北統一されているものの紙幣そのものは異なり、闇ドル相場は公定レートの5倍以上であると聞かされたが、この二つのドンが象徴する南北経済圏の統一はインフレの収拾問題もからみあって、ベトナム経済の苦境と政府関係者の苦悩を滲み出させながらかなりの時間を必要とするものと読みとれた。
短期の駆け足旅行でベトナムの経済状況を把握するのはきわめて困難であったが、ジェトロ関係の調査資料によるとベトナムの目下の国際収支は年間6億ドルから10億ドルの幅の赤字が続いているとのことである。このアナ埋めはこれまでは外国の支援(主として社会主義国)に頼っていたが、今後は資本主義国をはじめとする諸国からの借款と外資導入を受け入れながら工業の基礎固めを行って輸出産業の育成を図ることにより、農業と軽工業を基礎とした社会主義の道を歩んでいくことになる模様で、国際収支のバランスを速める最大のポイントは、トンキン湾の海底に埋蔵されている上質の石油の採掘と輸出化がアメリカとの国交正常化とからんでいつの時点で実現されるかであり、マイナス面を少なくする意味では食糧の自給がいつ達成するかにかかっているといえよう。
ハノイ上空から見たベトナムの耕地は、農業合作社による集団農業の結果整然と耕作されており、また南のメコンデルタ地帯の豊富な水資源はそのまま、かって南部が米の輸出国であったことを物語っている。ところが、ベトナム全土の四分の三は森林で占められていて耕地面積は500万ヘクタールしかなく、人口当たりの耕地面積は世界でも最低の規模に位置しており、5千万の人口と平均3%の人口増加率から見て、食糧自給のために耕地面積の倍増と労働人口の移動を含めた農業最優先策をとらざるを得ず、解放直前300万の人口であったサイゴンから既に100万人が新経済区に移動して自給自足の農村建設に励んでいるのもこうした方針の結果である。
しかしながら、<侵略戦争>には打ち勝ったが自然災害を含めた<経済戦争>には泥沼に足を踏み入れた感があり、1976年末の異常寒波、77年春の旱魃・虫害などの自然災害に加えて、特に南部のインフレ増進の結果、収支バランスのとれない農業経営に意欲を喪失した自作農たちの減産が影響して、南北を含めて米の配給量を20パーセント以上減量してもなおかつ77年中に150万トン以上の食糧を緊急輸入せざるを得ず、これがベトナムの外貨事情の悪化に輪をかけて対日貿易の面でもすでにその影響が出はじめている。