多田基綱
多田 基綱(ただ もとつな、生年不明 - 承久3年6月(1221年))は、鎌倉時代初期の武将。多田行綱の四男。子に重綱(多田三郎)、親綱(修理亮)、行成らがある。号は多田蔵人。 多田源氏の惣領であった父行綱は、源頼朝の粛清により累代の所領多田荘を奪われ没落しており、以降の行綱及びその子らの動向は不明となっているが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると基綱は上皇方として参加し、その敗北とともに討ち取られ梟首されたとの記録が残る(『吾妻鏡』同6月20日条)。上皇方への参加は多田荘の奪回を図ったものであろうと考えられている。 子の重綱と親綱は甥の多田光綱が猶子とし、重綱の子孫が3代後まで存続していることが『尊卑分脈』に記されている。.
多田仁綱
多田 仁綱(ただ のりつな)は、鎌倉時代前期の武士。大江親広の外祖父にあたる。.
多田荘
多田荘(ただのしょう)は、摂津国川辺郡北部(現在の兵庫県川西市全域及び宝塚市北部、三田市東部、猪名川町の一部にあたる地域)に存在した荘園。摂関家(近衛家)領。初期清和源氏の拠点となった。
能勢氏
能勢氏(のせし)は、摂津国(北摂地方)の封建領主。清和源氏頼光流を称する。「能瀬」・「野瀬」・「能世」など複数の表記が存在する。家紋は切竹矢筈十字、獅子牡丹など。
能瀬 資国(のせ すけくに)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士・官人。能瀬高頼の長男。.
能瀬高頼
能瀬 高頼(のせ たかより)は平安時代末期の武将。多田頼盛の三男。 摂津国能勢庄(現在の大阪府能勢町)の開発領主。多田源氏の一族であるが、一族の他の武士達のように京都の情勢に関心を持たず、領地の開発に邁進した。多田源氏の嫡流(多田氏)が本拠地の多田(現在の兵庫県川西市多田)から勢力を拡大していないのに対して、高頼の代には既に現在の大阪府能勢町および豊能町に勢力を拡大していた。それが後の多田氏と能勢氏の勢力の差につながったことから、能勢氏の最大の功労者といえる。 治承・寿永の乱においては『平家物語』に兄の知実と共にその名が挙がっており、『玉葉』の記述によると、治承4年(1180年)11月23日に福原にて「人宅」に火を放ち東国に向けて逐電したとある事から、高頼も当初は他の摂津源氏と同様平家に服属していたものと思われる。そして12月1日、反平家の狼煙が上がる近江国において近江源氏の軍勢と合流し挙兵を企てるも、平清盛による討伐の命を受けて近江に攻め込んできた平家の家人平家継によって討たれ、仲間及び郎党と合わせて16人が斬首、2人が捕縛されたとある。
佐竹秀義の妻は山縣国政の娘
国政の母は木村定道の娘
平経久の孫信範の妾に能勢資国の娘
平信範は西洞院家につながっていく